焼き塩鯖
少年は夢を見た。視覚と聴覚だけでなく、説明できないような感覚をも体験した夢だった。胸の奥から押し潰されるような、とても説明することが難しい、一言で言うなら「苦しい」夢だ。
起きて数時間経とうともありありと思い出せるその夢は、日を跨いで同じものを何度も見る。それを見て起きた朝は、大抵シャツの背中がびっしょり濡れていた。それに気分が最悪だ。最上級の絶望と悲しみをブレンドして、無理やり口から体の中に押し込まれたような。
いつからこの夢を見始めたのだろうか。おそらく、一年以上前から。
「またかよ……」
遮光カーテンの隙間から入り込む爽やかな光を横目にいつもならもう一眠りするところだが、今はそんな気分になれない。汗で気持ち悪く濡れたシャツを脱ぐと、ヒヤリとした部屋の空気が背中を撫でた。思わず泣きそうになる。こんな時、誰かが「どうしたの? こわい夢でも見たんでしょ?」と優しく声をかけてくれればどんなに心が休まることか。例えば暖かい朝食を用意してくれている最中の、母親とか。
リビングのドアを開けたが、そこには今日も誰もいなかった。もう四月も終わるというのにまだ少しだけ肌寒い。
昨日自分が洗濯した、干しっぱなしのシャツを乱暴に引っ張るとハンガーがひっかかり、洗濯物が全て床に落ちる。貴絋は怒る気にも片付ける気にもなれずに洗面所をそのまま後にした。
□
「俺達、離婚するから」
忘れもしない今年の二月十六日、両親が珍しく家にいると思えば、出てきた言葉はこれだった。しかもその日は貴絋の誕生日。もともと仲が良いとは言えなかった両親が、まさか息子の誕生日にそんな宣言をしてくれるとは、とんだサプライズだ。
二人の顔を見ることもしないで貴絋は言った。
「どうぞご自由に」
――俺が何を言ってもどうにもならない。
自分の誕生日のために、二人が休みを合わせて祝ってくれるんだ、などと少しばかり期待していたコトが恥ずかしい。部屋を出ようとしたとき父親が言った。
「貴紘、俺と母さん、どっちと暮らしたい」
死ねと思った。
――俺に決めさせて責任被せるつもりかよ。どうせ二人とも、俺を引き取りたくないんだ。それで俺に決めさせようってことか。知るかそんなこと。
「そっちで勝手に決めろよ」
二人の顔すら見ずに、後ろ手でドアを思いっきり閉めた。ドアに嵌め込まれたガラスの窓が、全部割れればいいのにと思いながら。
□
時計を見た。まだ6時半だ。この時間ならさすがに学校へ遅刻しない。ゲームをやりこんだせいで昨日寝たのは深夜だったが、仕方なく準備を始める。
貴絋は、朝食をいつも食べない。食べる習慣がないのだ。大体、わざわざ自分で作ってまで食べる時間があるならその分寝ていたい。というかそもそも、自分の作った料理を食べるなんて罰ゲームだ。
顔を洗って歯を磨いて着替えた。今日は何曜日だったっけ、と一瞬頭をよぎるが、曜日がわかったところで時間割りを把握していない。前回学校に行ったときからまるで開けていないランドセルをそのまま背負い、貴絋は玄関を後にした。
マンションのロビーを抜けると、思ったより寒かった。あまり肉のついていない割には縦に長い身体を縮こまらせて、なるべく早くあるく。こんなに早く家を出て、学校へいくには早すぎる。だが家に居れば、じきに夜勤明けの母親と顔を合わせることになる。貴絋はなるべく母親と一緒にいる時間を多くとらないように心掛けていた。それは彼の出来る小さな反抗であり、遠慮だった。
特に指先が冷えた。ただでさえ寒いのに、海沿いの街だから余計に冷える。貴絋は一目散に走るとコンビニへ向かう。
雑誌のコーナーで今日発売の漫画雑誌を手にしようとしたとき、窓ガラスに自分の顔が映ったのが見えた。顔が白いせいで、うっすらと見えるクマがよりきわだって存在しているように思える。
その顔を見るたびいつも思う。つまらない、辛気くさい顔だ。何が楽しくて生きてるんだろう?
□
教室のドアを開けると、もうすでに誰かがいた。机の上に何か広げてにらめっこしている。自分の隣の席の少年だけど……名前が思い出せない。
それに、登校したのは自分が一番最初だと思っていたので若干面食らった。
その誰かも、貴絋の存在に驚きを隠せないようだった。その人物は貴絋の姿を認めると、すぐに机に広げていたものを隠した。
「おっ、おはよう! 辻くん!」
ごまかすように大きな声で挨拶をして来る。
見てはいけないものを見たのか? 貴絋は気づかなかったふりをしようと思ったが、その少年の挙動があまりにも不振だったのでつい構いたくなった。
「18禁? 俺にも見せて」
「え!? ち、違うよ……」
少年は顔を赤くして否定した。思ったよりもつまらない反応だ、そう言わんばかりの表情で貴絋は席についた。
静かな教室に二人もの人間がいるというのに、そこに響く音はない。お互い黙りこんでいる。貴絋は頬杖をついたまま、黒板の上に掛けてある時計を眺めた。
「辻くん……久しぶりだね!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、先に口を開いたのは先程の少年だ。どこか自信のなさげな声は、よほどの勇気を振り絞ったのだとも思える。
貴絋はその少年を横目で見た。
「お前だれ? 転校生?」
自分より背が低く、まるで活発そうに見えない。声も小さくどちらかと言えばおとなしい雰囲気の少年だった。
しかし何より、自分に話しかけてくる者は少ないのでそこには驚く。
少年は少しの間固まったあと、慌てて言葉を続けた。
「違うよ! 四月から同じクラスじゃない。ひどいな、覚えてくれてないなんて……」
「そうだっけ」
「しかも今席隣なんだけど……。僕は松葉光一。よろしくね」
確かに、そんな名前を聞いたことがあるような気もした。たぶん四月の最初の自己紹介の時に。
貴絋がそのおぼろげな記憶を呼び戻していると、光一が自分の机の中から何かを探して差し出す。
「これ、辻くんが休んでた時のプリントだよ。僕が預かってたんだ」
「そりゃどうも」
そういって貴絋はプリントの束を受けとると、ろくに確認もしないで机に突っ込んだ。
すぐに中でプリントが折れ曲がったイヤな音がしたが、その瞬間にふと思った。
――そういえば、誰かと話したの久しぶりだな。
「お前委員長?」
「えっ僕? 違うよなんで?」
「だってこんなに早く登校してんじゃん。それに俺のプリント預かったり」
「いや、今日はたまたま早く目が覚めて。プリントは単に隣だから……。それより辻くん随分休んでいたけど、どうしたの? かぜ? 大丈夫?」
貴絋は目を丸くした。自分はこの松葉光一という少年のことを忘れていたというのに、この少年は自分のことを気にかけて心配するそぶりを見せているからだ。たとえばそれが社交辞令だったとしても、もし自分が光一の立場ならきっと同じ言葉はかけなかっただろう。
「ただのサボり。でも今日からはしばらく学校来る予定」
母さんが夜勤だからな。と、心の中で付け加えた。
すると、光一は目を大きく開いて熱く語る。
「うん、今週は絶対に来た方がいい。水曜日の給食にビーフカレーが出るからね。しかもデザートはプリン!」
「まじかよ。水曜最高じゃん」
「だよね!」
顔を合わせたまま、どちらからともなく噴き出す。二人ともお互いの笑顔を、この瞬間に初めて見たのだった。
□
午前の休憩時間。
「ドッジボールやるけどお前も来る?」
運動神経の良い仲間たちを引き連れて、ボールを片手に元気な少年が貴絋の席までやって来る。
一年の頃からずっと同じクラスの明吉は、教室で話しかけてくる数少ない友人の一人だ。だけど、飛び抜けて仲が良いという訳でもない。
「今日はパス」
今日はと言ったって、五年生になってから彼らとボールで遊んだことはないし、正直にいうとこれからも遊ぶつもりもない。それでも明吉はよく貴絋を誘ってくれる。
「そっか」
怒ることもせず、笑顔で「またやろうな」と言って走り去る。小学生ながらなかなかできた男だ。
貴絋はちらりと横の席を見る。光一が友達と席を立って教室を出ていくところだった。
――今朝買った漫画でも読もうかな。
そう思ったところで手を止める。ぎらぎらと鋭い視線を受けて顔を向ければ、女子の塊が隠すこともせずこちらを凝視していた。
□
図書室は意外に穴場だ。静かだし、教室よりうんと広い、何より人が少ない。一番奥の壁際には側面に壁の付いた机が数個並んでいて、貴絋は決まってこの席に座るのだった。ここなら漫画を読んでもそうそう見つからないし、なんなら昼寝もできる。
その席を目指して大きな机を横切ったときだった。
「辻くん」
確かに名前を呼ばれて振り返る。そこには松葉光一とその他二名が席について本を囲んだまま、こちらを見ている。ただし、光一以外は表情が明らかに固い。
「どうしたの? ランドセル背負って。もう帰っちゃうの?」
漫画を素手で持ち運ぶわけに行かないのでランドセルに入れてきたのだ。だけど考えてみれば確かに不自然きわまりない。
「漫画買ってきた。教室で読もうとしたら女どもがガン見してくるから、めんどくせーことになるかと思って」
貴絋の目には、光一以外のその他二名の顔がひきつるのが見えた。こういう顔を、貴絋はよく教室で向けられる。
「辻くんモテるもんね」
「違う。あいつら隙あらば先生にチクりたくて俺のこと監視してんだ」
光一が席から立ち上がり、隣の椅子を引く。
「良かったら隣座らない?」
その他二人に緊張感が走るのを、図書室の静かな空気が鮮明に貴絋に伝えた。
「いや、奥で読むわ」
貴絋はくるりと背中を向けて光一に手を振った。その他二名の安堵した表情が容易く想像できる。
「なんの漫画かな」
貴絋の背中を見送ってその他二名に反応を求めると、いかにも居心地の悪そうな顔で黙っている。続けて小声で光一に問い詰めた。
「いつの間に仲良くなってんの」
「学校に漫画持ってくるとか不良じゃん……」
二人の戸惑いの表情を見た光一は、貴絋がなぜここに来たのかを思い、それをできれば自分の勘違いでありますようにと願った。
少し猫背になった彼の背中を眺める。随分小さく見えた。
光一が人生のどこかで味わった感情を、貴絋は今、噛み締めている。それが子供にとっては想像以上に辛いことを光一は知っていた。
「僕、辻くんと読むよ」
その他二人は無言で顔を合わせる。
オレンジ色の床は太陽の光を吸って温かく、上履きを脱いだ足に心地よい。
古い本の集まる独特の香りと妙な静けさはどこか非日常的で、数十分後にはまた授業を受けに教室へ戻らなければならないことを忘れさせた。
貴絋が今目を数秒閉じればきっと、もう深い眠りに落ちてしまうだろう。
眠ってしまおうか、睡魔の誘いに応じかけたその時、真横の机の椅子が引かれた。
「なに読んでるの?」
ぼんやりとした頭で声の主を見る。光一のつぶらな瞳が貴絋の眠たげな顔を映していた。
「……委員長」
「違うってば」
机には壁が、個人のスペースを守るように存在している。光一はそれを覗き込むようにして貴絋の漫画を確認していた。
貴絋は強く瞬きをして、眠気をどうにか飛ばす。
「辻くんゴロゴロコミック派なんだ」
「うん、お前は?」
「僕は月刊ヌー派」
「そんな派閥ねえよ。 あ……朝見てたやつってそれ?」
光一の目が一瞬泳いだ。
「まあね、そんなとこ……」
「じゃ、もう俺の前では隠さなくていいぜ。誰にも言わねーし、俺だって漫画持ってきてんだから。まあでももうあんなに朝早く登校することはないか。俺はたぶん明日も早いけど」
少しだけ笑った彼を見て、光一は貴紘のことを自分と同じ普通の男の子だと感じた。確かに学校をさぼったり漫画を持ってきたりと誉められた行動ではないが、根っこの部分は自分達とまるで変わらない、ただの少年だ。周りの友達は一部、彼を極端に怖がっているけれど。
「どうしてそんなに早く来るの?」
「別に……理由なんかないけど」
そして予鈴がなった。貴絋は席から立つと、こちらをチラチラと窺っているその他二名の視線を感じながら「ほら、行けよ。お前のこと待ってる」と言った。
光一は何とも言えない気持ちを抱えながら、のろのろと手に持った動物図鑑を棚に返した。
□
お昼の休憩。
教室は人気が少なかった。クラスの約半数の活発な生徒たちはグラウンドへ、その他の生徒は空気の重みに耐えきれず、他の場所へ移動したからだ。
今、この部屋には二人しかいない。
松葉光一と、彼のクラスの担任、則本花枝だ。
二人の間にはピリピリとした空気が充満している。二つの絶対に曲げられない魂の叫びがぶつかり合い、妙な熱気さえ感じられた。
「光一くん、今週は給食を残さず食べる週間だって言ったよね?」
光一の目の前には、ほとんど食べ終えた皿が見える。だが、まったく手をつけられずただひとつ残されている鯖の切り身がそこに存在していた。
「……僕は前世で鯖に追い回されて死亡しました。その時の魂の記憶が、どうしても僕にこの魚を食べさせないと言うのです」
「先生君の言ってること、意味がわからないな」
花枝は笑っているが、その指先には力が込められている。
光一はすでに箸を置いていた。「意思を曲げるつもりはない」口には出していないが、その瞳がそう訴えかけている。
「みんな食べたのよ。とってもおいしいんだから。騙されたと思って食べてみて」
「そう言われて騙されたためしがありません」
花枝は頭を抱えた。光一を除くクラス全員が目標を達成したというのに、彼だけを特別扱いしてしまうと示しがつかない。かといって説得する術も思い付かない。
どうしたものかと足元に目を落としたとき、教室の空気がすっと流れた。閉まっていたドアが開いたのだ。
怪訝な顔をしながらも躊躇なく教室に踏み込んできたのは貴紘だった。なぜかランドセルを背負っていたが、それをロッカーにしまうと光一の隣の自分の席へと座る。
「まだ食べてんのか。咀嚼遅すぎだろ」
花枝は彼のこの発声をとても意外に思い、同時に少し安心した。貴絋が休みがちなせいで、クラスメイトとまだうまく打ち解けていないことを少し懸念していたからだ。
そして貴絋の言葉を受けて、光一の凛とした表情が緩んだのも見逃さなかった。
「僕これ嫌いなんだ。でも食べなきゃ先生の立場がなくて」
「光一くん! た、立場とかじゃなくて……好き嫌いをしないで食べようってことなのよ……ね? わかるよね」
花枝は顔を赤くして拳を握りしめた。けれどまだ若い女性のそのポーズには、なんの凄みもない。
「ふーん。箸貸して」
光一の返事をする間もなく、貴絋は箸を勝手に取るとその鯖を一口で食べた。
ポカンとした表情の花枝と光一を見て、貴絋は口の端を親指で拭いながら言った。
「これで問題ないだろ」
「そういう問題じゃないから!」
先に我に返った花枝が急いで言い返す。
「先生だって嫌いなもんくらいあるんじゃん?」
「そりゃ……あるけど我慢して食べます! 先生は大人なんだから」
「俺らまだ子供だし。ってか、そんなに怒ると眉間にシワ残る」
「もうっ! 知りません!」
花枝は怒ったパフォーマンスで教室を出ていった。それを見た光一と貴絋はしばし目を合わせた後、ケラケラと笑い合った。