002 デブ、襲われる
――不定形の塊が迫る。地面を這って来れば良いものを、木を発射台にして自身を撃ち出して来るものだから。思っていたよりも、ずっと速いっ。
「糞がああっ!!」
身体を翻し、横に跳んで――其れを躱す。こちとら、サモ・ハン・キンポーのモノマネじゃ、学校一なんだ。他にやってる奴、見たことねえけどっ。
――ベチャッ。
「っしゃあ危ねえ!」
よし、躱しきった。右足からバックステップ。其のまま、全力退避。一目散に駆け出して。
「――って、跳ね返るのかよっ!!」
木に叩きつけられた筈のスライム野郎が、ゴムボールの様に弾かれて。
勢いを増して、またこちらへ迫るっ。
「危ねえっ!」
スライムが、胴を掠めて飛んでいく。
粘液、少し浴びたけれど。大丈夫、服が溶けたりとか、そういういやらしいのは無い。危うく、成人向けになるところだった。
ただ――
「だああっっ、またかよッ!」
再び飛来する、黒い汚物。それも何とか飛び退いて、躱すけれど。マズイ、埒が明かない。逃げようにも、向こうの方が足が速いし、避け続けてもいつかは捕まる。
「――ッ、だったらああ!!」
ビール瓶くらいの石ころ引っ掴んで、スイング。腰を目一杯捻り、エネルギーを蓄えて。上体、下半身、体幹から末端に至るまでの筋肉と神経に、意識を張り巡らせる。鉄郎が、今まで何千何万と繰り返してきた動作。スライムが飛んでくるけど、構わずに――
「喰らえええええッッ!!」
ど真ん中、狙いつけて――ぶっ放す。
投げ慣れた形じゃ無いけれど、そんじょ其処らの投擲とはワケが違う。
ぐちゃっっ――
「しゃらあっ!!」
――命中。スライムの身体が、叩き落される。めり込んだ石、確実に肉を突き破っている。
「はあっ。どんなもんよっ、スライムぐらいどうってことねえってのっ……」
精一杯、強がりながら。切らした息を、整える。
あっちは、未だ蠢いちゃ居るけれど。其れだけだ。穿たれた穴から、粘液ばかり垂れ流している。
「っし。トドメ、刺すか」
ちょっと気が引けるけれど。適当な石、また握って。
とぼとぼ、斜面をゆっくり近寄って――
――気付く。
「え」
汚水を流すばかりと思っていた穴。その奥が、ぶくぶく、ぶくぶく、泡立って。新しい肉で、埋まりはじめて。
「やば――」
い、と言う前に。スライムの身体が潰れて――跳ぶ。
迫る不意の一撃。鉄平は動けぬまま、肉塊に包み込まれた。
「があ――」
鼻腔を、悪臭が突き刺す。
気持ち悪い。そんな感情しか湧いて来ない。
(やべえ)
下半身は、殆ど飲み込まれた。でも、其れだけで満足はしないらしく。少しづつ、上半身の方に登ってくる。
ズブズブと言う音が、いっそう恐怖をそそって。どうにか藻掻くけれど、押しのけようにも、肉に腕が沈むばかり。
(このまま、消化されちまうのか)
其れは嫌だ。とても嫌だ。やり残したことがとか、そういうことでなくて。こんな汚物の一部になるなんて、生理的に受け付けない。
(けど、抗おうにも)
どうにも出来ない。為すがままに、されるだけ。
湿り気を帯びていく、自分の体の感覚ばかり、敏感に感じ取って。もう、どうしようもない。
焦る気持ちばかり、ぐるぐる頭を巡り。その間にも、黒いスライムは、ゆっくり頭の方まで登ってきて――
「――何だよ其れ」
視界に映ったのは、異形の器官。本体から伸びる肉芽の先端に、卵大の何か。其れが、ニチャリと割れて、中から細かい触肢が生えている。
「ふざけんなっ」
伸びる。向かってくる。こちらの、頭めがけて。
何だ。明らかに、捕食するためのものじゃない。もっと別の役割の。少なくとも、鉄平にとっては、喜ばしくない何かを果たすための。
「くそっ」
藻掻く。どうにか、脱出を測る。アレが頭に触れれば、終わりだ。頭で警報が響く。
「くそおっ!」
其れでも、迫る。此方の焦りをあざ笑うかの様に。顔なんて見えないけれど、絶対にほくそ笑んでやがる。
腹が立つ。こんな所で終わるのか。こんな、汚え汁を全身に浴びながら、ワケの理解らない方法で殺されるのか。
ああ、あと1センチ。ゆっくりと、額に触肢を押し付けて――
「――舐めるなああああああッ!!!」
鉄平が吼えて。右腕を肉塊から引き抜く。今まさに頭部を侵そうとした、肉芽の先端を掴む。
向こうも、指の間から逃れようとするけれど。
「こちとら握力、100キロ超えなんだよッ!」
そう安々と、逃しはしない。
いっそうに力を入れて、握り込む。
「このまま潰してやるッ!!」
握る。
握る。
握る。
黒スライムが暴れだす。其れでも一切の力を抜かずに、右手を握りしめる。
「がっ――」
すると、右手に痛みが走る。神経が灼けつく感覚がする。
畜生、何かしやがった――けど。
「離すものかよっ!」
どんどん、右手が痺れてくる。正直、離してしまいたい。其れでも、根性で力を入れ続けて。
「がああああああああああッ!!」
再び、鉄郎は咆哮を上げて。
そして――
鉄郎の視界に、飛び込んで来たものが一つ。
――翻る外套。
――美しい黄金の髪。
――憂うような、悲しげな表情。
――何より輝く刀身の、ロングソード。
鉄平の網膜に、強烈な姿を刻み込んで。煌めく青年がやって来た。ただの一振り、鉄平に見せて。
――其れで、鉄平の体に纏わりつく黒い全てが消え去った。
「――――――」
青年が、話しかけてくる。
でも、理解らん。言語が違う。申し訳ないけれど、一言も理解できない。
「すまん、全く分からん」
取り敢えず、日本語でそう言って見ると。向こうも言語圏が違うことに気付いたのだろう。
話し掛けるのを止めて、何やらハンドサインをして、歩きだす。
(付いて来いってことか)
きっとそうだ。青年の後ろに付いて行く。
取り敢えずは、窮地は脱したかも知れない。
(けど――な)
一つ、解決していないもの。あの黒スライム、瞬殺してくれたのは嬉しいけれど――
(――やっぱこれ、マズイよな……)
自分の右手を見る。ドス黒く変色した掌。どくどくと疼く感覚。肉の下で隆起する、何か。
(分かんねえけど。何か埋め込まれちまったらしいや)
不安を抱えたまま。歩みを進める。
下りの道は、思ったよりも疲れはしなかった。