018 デブに出来ること
――鉄平は、飛んだ。全力で、後ろに飛んだ。
その一歩で、鉄平の体を薙ぎ払う筈だった一撃は、虚空を通り過ぎた。
「はっ」
くるり。そのまま、半回転して。地面、思い切り蹴り出して。
続けざまに、もう一歩、二歩、三歩。そうやって、亜人から離れて行く。
「オオオッッッッ!!!!」
この期に及んで、未だ逃げるのかと。亜人は、怒号のような雄叫びを上げる。
亜人はもう、分かっている。目の前の人間に、自分を上回る体力は無い。逃げ続けても、必ず追いつけると。
「ふっ」
鉄平の認識もまた、同じだった。
このまま走り続けても、なんの意味もない。そんなの、分かっている、分かっているから、これは逃走ではない。
「ガアアアッッ!!」
「はっ」
亜人が、迫る。
でも、未だこの距離ならば。鉄平が速い。距離を、空けられる。
「はっ」
此処で、また止まって。また、亜人の攻撃を耐えきって。
そういう、時間稼ぎのやり方も有るのかも知れないけれど。鉄平は、そんなつもりも毛頭ない。もう一度も、亜人の攻撃を躱せる気もしない。
「グググウッッッッ――」
後ろから、聞こえる唸り声を頼りに。亜人との距離を測る。
未だ、もう少し。もう少しだけ、離れたかった。
『――――』
スライムはもう、何も言わない。
やりたいことが有るならば、やってから死ね。そんな風だった。
ただし、彼にも働いて貰う必要はあった。頭の中に、命令をセットして。然るべきタイミングで、右腕に送り込む。
「俺は、成田、鉄平。出来ることは――」
アドレナリンが溢れる。
独り言が漏れていく。
「――円盤投げだ」
つまりは、そういうこと。
距離の方も、そろそろ良い頃合いだ。
「はあっ」
あと、五歩。よん、さん、にい、いち――
「グゥオオオオオオ――」
――ぜろ。
ああ、ここだ。鉄平は、目を瞑って。
「ふっっ――」
ぽん、と。両足で踏み出して。軽く足を広げて、俺は着地した。
頭よりも先に体が理解する足幅。膝に体重が掛かるのに合わせて、少しがに股気味に膝を折っていく。ちょうど、走り幅跳びをした気分。
「オオオオオオオオオッッッッ!!!!」
後ろで聞こえる方向が、いっそう大きくなって。舐められたと思ったのだろうか。
俺は構わずに、ルーティンを続ける。
「――ふううぅぅ――」
右腕を伸ばして、後ろに引く。目いっぱいだ。腰から上、全部。捻り過ぎて、亜人と目が合う。
未だちょっと、距離がある。
「――ひゅっ」
短く、息を吸う。
右手に、オーダーを送る。スライムは口を噤んだまま、俺が望んだ通り、右手の形を変える。
剣の柄を、雁字搦めにするように。絶対に、離れないように。
「行くぞ――」
掛け声、一つ。誰に対してか。亜人か、スライムか。いや、きっと、自分にだ。
「すっ」
もう一つ、肺に息を送り込んで。
「グゴォォォォォォォォッッ――」
来た。亜人が来た。必殺の一撃を携えて。
でも、気にしない。鉄平の頭にあるのモノは。直径2.5メートルのサークルと、張り巡らされた、神経の束。
「――――」
少しだけ、はずみを付けて。体を回し始める。
亜人が、棍棒を振りかぶる。でも、鉄平の方が速い。いや、速すぎる。振り回す様に、独楽の様に。回転する体、その末端、剣先は。亜人の前を、虚しく通り過ぎて。
「――オオオオオッッッッ――」
勝機。後ろ向きになっていく鉄平に。亜人が打ち込む、会心の一撃。
この邂逅で。もっとも鋭く、最も重い。亜人の全ての籠もった、衝撃は――鉄平の頭を目掛けて。
そして――――――
――――――鉄平の体は、更に回転して――――――
――走る、滑り行く! 異形と化し、剣と一体になった右腕が。空間を、切り裂いていく!
「はあああっっ――」
声が漏れる。
太腿が熱を帯びる。
軸の爪先、擦れていく感覚の心地よさに、頭が痺れてゆく。
きっと、今の鉄平は、誰よりも速い。その右腕だけは、何者にも追いつけない!
「――ああああ――」
意識が、掻き消えていく。
でも、体は忠実に仕事を果たす。
足は体より先を行き。其れに追いつこうと、腰が、全身が回っていき。
「オ オ オ オ ――」
酷くゆっくり聞こえる、亜人の声。
鉄平の肺腑は、思い切り縮んで――
――鉄平は飛び出した。あまりにも疾く、あまりにも美しく。
す――
その軌跡が、線を残すように。
亜人の超反応の、限界よりも更に上のスピードで。
「――――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!!!」
そして、叫ぶ。吠える。ありったけの声を、全部吐き出す。声はそのまま、力になる。
この瞬間、鉄平を取り巻く全ては、鉄平のものになった。全てが、鉄平を味方した。
亜人が棍棒を振り上げて、降ろす、その間。鉄平は、懐までたどり着いて。
目の前を駆け抜ける剣を見ても、亜人は何も出来ないまま。
――――ずっ。
剣は、亜人を貫いた。ちょうど鳩尾、根本まで。
ただの、其の一撃で。もう、亜人は音を発することは無くなった。
亜人は死に、鉄平は生き残った。
つまりは。
「ああ、勝ったよ――おれ」
――鉄平の、勝利である。