姉と僕、些細で大きな出来事
それは何気ない一言だった。
特に考えもせず、感情に身を任せて放った空洞な言葉。だけどもそれは、ぶつけられた者に真実が伝わるはずもなく、意味は正しく間違って受け取られ、そして、一つの感情が生まれる。
「み、みーくん……う、嘘だよね?」
動揺――親しげに僕を愛称で呼ぶ姉は、即席の脆い笑顔を浮かべながら問いかけてきた。
その言葉に現実味を感じれず、身体を自然と硬直させている姿。
その言葉を疑っているからこそ、僕を凝視するその顔。
普段何事にも落ち着いている姉の現在の姿を見たら、きっと誰もが驚くことは間違いないだろう。なにせ、ずっと一緒に住んでいた僕ですら顔には出していないものの、姉の今の様子に驚いていたからだ。だけど、先程まで抱いていた感情が消えてしまったワケでもなく、姉の異常をチャンスと見た僕の口は、追撃するように声を発していた。
「本当だよ」
「え?」
「本当だよ」
肯定。完膚なきまでの肯定。
情け容赦のない短く鋭い言葉に、姉の眼球は左右に揺れ、そしてゆっくりと視線を僕から床へとずらし、顔を完全に僕から隠した。
チッチッチッと壁に掛けられた時計から音が聞こえる。
家の前を時おり自動車が通り過ぎる。
互いが沈黙しているためか、やけにそれらは騒々しく聞こえ、それが不快になった僕はピクリとも動かなくなった姉に苛立ちを覚えた。
本当に、些細なことだった。
自宅に帰って居間にいた姉に、次の休日に友達と遊びにいくことを伝え、自分の部屋に戻ろうとした時、ただ、姉が――
「なんで?」
そう口にした、だけで。
僕は何故か、その時その一瞬、纏わりつくような束縛感を、言いようのない嫌悪感を覚えてしまったのだ。
今にして思えば、ただただ普通の質問だった。普段している無難なコミュニケーションの一端だった。
『なんで?』『どうして?』『どこ?』『いつ?』『なんで?』『なんでなんでなんで?』『なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで――
そう、何の問題も無かったんだ。
「そっ……か」
今まで沈黙を保っていた姉は、一言そう漏らす。
日は暮れ、外の光の量が減っていくにつれて、明かりを点けていなかった我が家もまた暗くなっていた。
ハッキリと見えなくなった姉が顔を上げて僕を見る。
「暗くなっちゃったね。私、明かりを点けてくるね」
姉はそう告げると、後ろを向き軽い足取りで歩き出した。
「う、うん……」
身体がピクリとも動かせず、視界が不明瞭にもかかわらず迷いなく進む姉の姿を両目だけで追う。
急にいつもの声音に戻った姉の変化を見て、僕は動揺した。
パチっと音がして、家の中は明るくなる。起動した照明がもたらす光は、温かさと安らぎを与えるように僕らに降り注いだ。
『何だっていいだろ! いちいち質問しないでよ。だから姉さんは嫌いなんだ!』
だけど僕は、姉は、闇から逃れることはできなかった。