第三話*浮かれる
「何度言えば分かるのですか、そこはそうじゃありません!」
バシンと本で机を叩かれ、厳しい口調で怒鳴られたリーニャは竦み上がった。
書庫でこっそりとおこなわれているラ・クランとの勉強会はひと月を数える。彼は国の頂点に立つリーニャに対しても手加減することは一切なく、厳しくそして懇切丁寧に勉強を教えていた。
最初は(こやつ、やはり不敬罪で首を飛ばしてやろうかっ!)と殺気立った目で睨みつけたりもしたのだが、なにやら使命感に燃えるラ・クランにはまったく効かず、リーニャも生真面目に教えてくれる彼に本気で首を飛ばす気にもなれずに今もまだ厳しい勉強会は続いていた。
それでようやく見えてきたこともある。
自分がいかに国を支配する『王』に相応しくないか。いかに、愚かな行動を起こしていたのか。知恵がつき始めて、確信と共に落ち込んだ。
(ラーナ・クゥがわらわを殺そうとしたのも今なら分かる。彼女の方こそ真の意味で『正しかった』のだ。じゃが、今度はわらわは死なぬ、クダラも死なせぬ……その為にはもっと知恵を得て、わらわも『正しき道』に行かねばならぬ)
そう心中で決意も新たにしていた所をもう一度、本がバシンと鳴った。
「陛下、手が止まっておりますよ!」
「はいはい、分かっておる」
「はいは一回!」
「はーい」
二人が勉強会を開いているのは書庫の中にある管理人室だ。ここなら入口で待機している女官にも声は聞こえない。定時を過ぎると女官達が探しに来てしまうので時間にはいつも気を配っていた。
室の壁に掛けてある時計をちらりと見たラ・クランは、開いていた本を静かに机に置いた。
「そろそろ刻限ですね。お疲れさまでした」
「ふぅあ、ようやく終わったの!」
「では宿題です」
ドサドサとリーニャの前に山のように積まれた『宿題』に彼女の顔が引きつる。
「毎度思うのじゃが、そなた鬼じゃな……」
「なんとでもおっしゃってください。わたくしの知識をすべて貴女にと言った手前、手加減をしてあげられるほど余裕はありませんので」
自らも望んだことゆえ否とも言えず、リーニャは大量の本を抱えて室を出た。
「あ、陛下お部屋に戻られるのですね?」
「うむ」
「まあ、また大量の本ですわね。お持ちいたしますわ」
リーニャが抱えてきた本を女官達が彼女の返事も聞かずに奪うように取り上げるとこっそりと本の題名を窺い見ていることは彼女も気づいていた。
しかし本には『恋する乙女の冒険譚』、『あなたの為に鐘は鳴る』、『乙女の為の恋愛方程式』などなど恋愛小説の名が連なっている。それを見て彼女達は安心したように笑顔を浮かべるのだ。
それがすべてラ・クランによる工作であることも知らずに。
(わらわに味方はいない……それもようやく気付かされたの)
一緒に贅沢を楽しみ笑い合っていた女官達のほとんどは宰相の息がかかっている者達ばかりだ。いざとなればリーニャの言葉より宰相をとるだろう。夢の中でも彼女達はリーニャを置いて誰もいなくなってしまったのだから。
『宰相は、わらわを無能にして何がしたいのかの?』
自分を勉学に関わらせない宰相の目的が気になってラ・クランに問いかけると彼は少し考えてから口を開いた。
『恐らく、傀儡政権を狙っているのでしょう』
『傀儡政権?』
『陛下、貴女は政に参加したことはございますか?』
ラ・クランの問いにリーニャは首を振った。無学の自分が出席する意味などないし、第一出てもよく分からない。女官達と遊んでいる方が楽しかった彼女は、いつも政は宰相に投げっぱなしであった。
『それですよ。陛下の意向も聞かず、自分の思い通りに政治を動かす。彼の目的はそこにあるのでしょう』
『…………わらわの為ではなかったのだな』
いかにも彼女の為にと言った風に優しく『何もしなくて良いのですよ』と語った彼が今では悪鬼にすら思えてくる。
宰相は敵だ。リーニャを堕落した王にする、死の運命へと導く敵である。
(宰相には知られずに、わらわは力をつけ必ずやそなたの前に立ってみせるゆえ……)
キッと今まさに政が行われているであろう謁見の間の方角へと彼女は睨みつけたのだった。
「陛下、そろそろご生誕祭ですわね」
とある涼しげな風の吹く朝、いつものように女官達に朝の支度を手伝わせていたリーニャに女官の一人が楽しげに語りかけてきた。
そういえば、後一週間ほどで自分の誕生日だったと思い出す。
「陛下も十になられるのですね。今年の贈り物は一体なにかしら?」
「きっとものすごい宝石とかですわね」
「いえいえ、素敵な衣かもしれませんわよ?」
きゃいきゃい誕生日を迎える当の本人よりも女官達が色めき立っている中、リーニャはじっと床を見詰めていた。
確かに誕生日は楽しみではあるが、毎回毎回派手な催しを行い、馬鹿高い贈り物が沢山送られてくるのだが、それがすべて税の無駄に思えて仕方なくなってしまった。
ラ・クランとの勉強会の影響だ。
だが、一国の王の生誕祭が地味では民にも他国にも示しがつかない。悩ましいところである。
朝の支度を終え、朝餉の用意がされた所で、いつも通りクダラが室に入って来た。彼はリーニャに礼をすると朝餉の前に膝をつき、じっと見つめると一つ一つを一口ずつ食してから、にっこりと笑顔を向ける。
「今日も毒は入っておりません。大丈夫ですよ姫様」
「クダラ! 貴方は何度言ったら分かるのです、陛下はもう姫様ではないと……」
「よい、下がれ」
「ですが陛下……」
「下がれ」
強く言われ、女官は不満そうに顔を歪めたがリーニャに礼をするとクダラを一度睨んでから退出していった。その様子にクダラは苦笑して頭をかく。
「いやあ、どうしても昔の癖が抜けなくて」
「もう諦めたからよいのだ」
「ありがとうございます。では、どうぞ姫様」
朝餉をリーニャの前まで運ぶとクダラはそっと室の隅まで移動し座った。本当は立っていなくてはいけないのだがリーニャは疲れるだろうからと彼を座らせていたのだ。そのことがばれると面倒なので食事のときは女官をすべて下がらせていた。
手を合わせて食事を始める。毎回こうして安心してご飯を食べられるのはクダラのおかげだ。クダラは食事の時、毎回毒見としてリーニャの室を訪れていた。
薬師でもある彼は毒にも詳しい。だがそれだけで彼が毒見役をやっているわけではない。彼は特殊な一族の出である。
『孤毒』と呼ばれる一族である彼には一切の毒が効かない。体内で毒を中和し、分解する体質をもっているのだ。だからこその毒見役なのである。孤毒は稀なる一族で滅多にお眼にかかれないが、王族や貴族などの屋敷にはそれぞれ一人は囲われていた。
それと孤毒の容姿は特殊で、髪と目の色が一色ではなく沢山の色が入っており、見る角度によっても色合いが変化するという不思議な外見をしている。それゆえに見世物としても価値があり、奴隷商から買うと目玉が飛び出るくらい高いのだそうだ。
……そう、孤毒は皆、奴隷である。クダラも元々は奴隷商の元にいてリーニャの為に先王が買ってきた人だった。リーニャに一つ名をつけられ奴隷よりは格が上になったとはいえ、彼を見る宮中の人々の目は冷たいままだ。
リーニャは茶碗を持ったままクダラをちらりと見る。朝日に輝く髪は桃色にも紫色にも見える。まるで万華鏡のようだと思っていると、虹色の瞳と目があった。ゆったりと微笑みが返ってくる。
「どうかなされましたか?」
「いや、相変わらず美しい髪と目だと思うてな」
「ありがとうございます。姫様の黒髪と緋の瞳もとても美しいですよ」
優しく返されてぽっと頬が熱くなった。容姿の事は皆からよく褒められるが、クダラに言われると余計に嬉しい。気分が良くなったリーニャはそれからぺろりと朝餉を平らげたのだった。
朝餉を食べ終え、クダラが食器を片づけようとした時、彼もまた女官と同じように楽しそうに言葉を口にした。
「姫様のご生誕祭、もうじきでしたね」
「うむ、わらわは十になるぞクダラ」
「そうですね。時は早いなぁ。私が姫様とお会いしたのは貴女がまだ三つの時でしたね。可愛かったな」
「む、今も十分可愛らしいであろう!?」
ぷくっと頬を膨らませるとクダラは「そうですね」と軽く笑った。リーニャはその反応に不服そうに口を尖らせながらも、もじもじと膝の上で指を絡ませた。
「の、のうクダラわらわももう十になるのじゃが……」
「はい? そうですね」
「十になるのじゃ!」
「おめでとうございます?」
「違うわアホタレ! 十と言えば幼子から脱する歳。大人の手前の年であるぞ!」
「ええ、ですからおめでとうございますと」
「それだけか!?」
なぜか泣き出しそうになっているリーニャにクダラは面食らってオロオロしだした。リーニャはもうよい! と怒鳴ってぷいっとそっぽを向いてしまう。
クダラはどうしたらよいか迷っていたが、おずおずと躊躇いながら口を開く。
「あのー姫様」
「…………」
無視。
クダラの額に脂汗が光る。背中にもダラダラと流れていた。
「すみません姫様、私はこういうのは不調法でして……」
「………………分かっておる。そなたに分かれという方が無茶であったな。のう、クダラ」
「はい、姫様」
「生誕祭の後、時間はあるかの」
「はい、その日は休暇をいただいていますから」
それはそうだ。リーニャが毎年、その日は休みにするように手を回しているのだから。しかし毎回言いだしそびれてその休日をリーニャが利用できなかっただけだ。だが今年は違う!
喉になにか突っかかっているような感覚に陥りながらも、しどろもどろながらリーニャは言葉を紡いだ。
「その、そなたの部屋で茶でもどうかと……」
「お茶ですか?」
「う、うむ」
「え? それだけでいいんです?」
「な、なんじゃ、わらわと茶は不服か!?」
顔を真っ赤にしながら怒鳴りつけると、クダラは慌てて首を振った。
「まさか、そんなことでよいのでしたらいくらでも。美味しいお茶を用意してお待ちしておりますよ。あ、迎えに行った方がいいですかね?」
「うむ、よきにはからえ!」
では、迎えに参ります。と溶ける様な優しい笑顔を向けられてこちらが溶けそうになりながらリーニャはぐっと拳を強く握りしめた。
(言えた! わらわは言ってやったぞ!)
小躍りしながら書庫へ向かってリーニャは歩いていた。後ろからついてくる二人の女官が不思議そうな顔をしているが見て見ぬふりである。
長年リーニャは生誕祭という特別な日にはクダラと一緒に二人っきりでのんびり過ごしたいと思っていたのだが、恥ずかしくてなかなか言いだせないでいたのだ。
それもこれも恋愛小説の影響である。『大切な日には、大切な人と二人っきりで』が定番なのだと書いてあった。リーニャの中で大切な人の括りに入っているのは、クダラただ一人である。他に友人もいない彼女は、クダラ一人にこだわりを見せていた。
奴隷である彼に懐くのはよくないと周囲から厳しい目で見られているが、幼少の頃から共にいる兄のような存在である彼しか心を許せる相手がいなかったから、彼にこだわるしかなくなったのだ。
いつものように書庫の前で女官を待たせ、書庫に入ると冬の木枯らしよりも冷たい双眸が出迎えてくれる。
「ラ・クランよ。今日もせいがでるの!」
「なんですか、嫌味ですか陛下」
書籍をトンと置いて、相手が王であっても遠慮しない睨みが返ってくる。本当にクダラとは正反対の男だ。
「ふふふ、今日のわらわは機嫌が良いのだ。そなたの雑言も寛大に赦そうではないか」
「…………気持ち悪いですね。なにかあったんですか」
「うむ、わらわの生誕祭が待ち遠しくての」
「ああ、ありましたね。そんな七面倒くさい行事」
「七面倒じゃと!?」
あんまりな言いぐさにリーニャはバンバンと長机を叩く。ラ・クランはそれを煩わしそうに眺めた。
「貴女の誕生日を祝うのにこちらが一体どれだけの労力と時間と金を裂くとお思いで?」
「うぐっ」
「そうだ、今日はその労働力と経費について勉強しましょうか」
「お、鬼め!」
せっかくの浮かれ気分があっという間に藻屑となった。今日の勉強会はいつも以上に楽しくなさそうだと、ガックリと肩を落として管理人室に入ったのだった。