運命の朝
「それじゃね~、ななちゃん! また明日」
「ああ、寝坊をするなよ」
「らっじゃ」
元気に敬礼して、由紀は築何十年かという趣のある一戸建てに入って行った。
そこは由紀の実家ではなく、彼女の祖父母の家である。
この春、光陵館学園に入学するにあたって引っ越してきたのだ。
つまりこの街は七希と由紀の地元ではない。
自然と回り道をして由紀を祖父母宅に送り届け、ここから再び借りているマンションに向かって歩き出す。
別に感謝しろもありがとうも無い。
それが当たり前の空気のような関係だ。
「む? 待てよ、冷蔵庫に何も食材が無かった気がするな。買って帰るか。今日は……駅前のスーパーでたまご特売か」
春休みに街一帯を踏破した七希にとって、特売しているスーパーを頭の中で検索することなど造作も無い。
週単位、月単位の特売を全て把握しているのだ。
もちろん、情報更新に余念はない。
別に贅沢が許されない訳でもないが、金銭感覚は無駄にしっかりしていた。
主婦の鑑になれる素質を秘めている。
駅に向かって踵を返した所で、制服のポケットに入れたスマホが震えた。
『姉帰る。今日焼肉、アイラブ妹』
そのメールを確認した七希は返事を打たずにスマホを仕舞った。
焼肉は室内でやるには後片付けが面倒だ。
「無視するか。後、貴様に妹はいない」
うむ、と一つ頷いて七希は夕暮れの街を歩いて行った。
そうだ親子丼にしようと思いながら。
◇■◇■◇
3年前、春。
小学校を無事卒業したその春休み。
本条家にある事件が起こった。
まだ冬の寒さが残る北国。
身体の芯まで凍えろとばかりに北風が頬を膨らませて仕事をしていた早朝。
その日、本条七希12歳、運命と出会う。
「……ふむ」
何かおかしい。
頭の良い本条少年にもその時、それが何なのかよく分かっていなかった。
いつものように日の出前に目を覚まし、顔を洗い、ジャージに着替え、10キロ走を終え、道場にて座禅を組んで瞑想。
今日は調子が良い、ただそれだけの事。
七希は奇妙な感覚を頭の隅に追いやった。
肌を刺す冷気が集中力を高め、目を瞑りながら空間を支配する感覚を得る。
「ちゅえすとおおおおおっ!!」
静謐な空気を台無しにする怒号。
ぼさぼさに伸ばした髪を後ろで括り、顎髭を蓄えている割に威厳の足りない男。
気配を殺して後ろから忍び寄ってきたその男、父、本条団十郎は瓦割りをするかの如く容赦のない一撃を七希少年の頭目がけて放った。
この団十郎、まるで大人気の無い、悪い意味で永遠の少年である。
「――見えた」
七希少年、目を見開く。
そこからの一連の動き、神業の如し。
団十郎の手刀を最初から見えていたかのように鋭く持ち上げた片手で軽くいなす。
「ぬおっ!?」
渾身の力を、その流れを完全に変えられた団十郎は無様に体勢を崩して尻餅を付くしかなかった。
七希少年12歳。
座ったまま父の卑怯な不意打ちを退ける。
「ぬ、ぬおおおおおっ! んだよ! なんなんだよお前! そんな小学生いるか!?」
団十郎、絶叫。
「もう卒業した、中学生だ」
「うるせえ! どんだけ悟り開いてんだ!? 天才か? 天才とか許せねえええええ、天才とか俺マジ嫌いだもんよおおおっ」
「団十郎、朝から煩い」
本条流古武術師範代、本条団十郎、12歳の息子に敗れ泣き崩れる。
そんな良くある朝の日常だった。
「今のは卑怯だ! ノーカン!」
瞑想中の12歳我が子に後ろから忍び寄り、手刀を繰り出した親の言葉である。
「団十郎、朝から必要以上に血圧を上げるものではない。精神を統一し、感情を揺らさない事。これがあらゆる分野で高いパフォーマンスを産みだす秘訣だ」
その指摘に団十郎は中指をおったてた。
何度も確認するがこの男、父である。
「へっへ~ん! そんなんじゃ、天の高みにはあがれないぜ! 己を燃え上がらせ、自身の殻を突き破る程に昂ぶる事こそまだ見ぬ世界に到達する秘訣! おめえはまだまだあめえ! いや、ヌルいんだよ!」
力で敵わないから吠える吠える。
「ふむ、一理ある。さすがだな、団十郎」
しかし七希少年は感慨深げに頷いた。
人の意見は柔軟に受け入れる。
七希の百ある美徳の一つであった。
もっとも未来では毒の部分がやたら発達してしまっているが。
美しい薔薇には棘があるらしい。
「お、おう、それほどでもねーよ」
頭をかきながら我が子に照れる父である。
この親子、なかなかどうして仲は悪くない。
「はいは~い、じゃれるの終わり。今日も父さんの負けでしょ?」
「俺は負けたことはねえよ!?」
道場の入り口にもたれ掛って核心をついたのは姉、本条一華18歳。
この春地元の高校を卒業し、上京を控える本条家の愛娘である。
人に懐かない猫のような、鋭い視線を携えた少女だ。
「一華ぁ! 都会なんて行くのやめて父さんとずっと一緒に暮らそうや!」
「ナナ、あんた身体冷えてるでしょ? さっさと風呂入るよ」
団十郎、華麗に無視される。
年頃の娘を持つ父親には避けて通れぬ試練だ。
とりわけ団十郎、その試練が大きいようである。
「ああ、だが一姉、私ももう中学生だ。いつまでも男が姉と風呂に入っていたら笑われてしまう」
「世間は世間、うちはうち。かてーよ、ナナ。こうして風呂に入るのもこの春が最後かもしれないんだぞ?」
世間は世間、うちはうち。
一理ある。
七希は勉強になったと深く頷いた。
本条七希、基本家族が大好きである。
思い直した七希は一華と連れだって道場を後にした。
「……あれ? 俺、忘れられてね?」
道場の真ん中で理不尽を嘆く大黒柱。
その日も本条家は通常運転だった。
――その時までは。
◇■◇■◇
さっさと服を脱いで一華はお風呂に入って行ったが、事ここに至り、七希も明らかな変化を感じ取っていた。
生まれてこのかた、あまり記憶にないほど動悸が乱れていた。
それは朝、ベッドで起きた瞬間から感じていた違和感を明確にした瞬間だ。
この一大事を自分の中で処理できなかった七希はひとまず服を全部脱いで、お風呂場に入った。
姉に助けを求めるためだ。
「大変だ一姉、胸がある気がする」
本条家のお風呂は檜風呂、木の香りを楽しめる心落ち着く空間だ。
その場にらしくなく心乱した七希が飛び込んだ。
「大丈夫大丈夫、何かあんたくらいの年ごろになると、男の子も胸が張る事があるらしいよ」
振り向きもせずに桶を使って湯浴びする一華を眺めながら、今一つ納得いかぬと七希は首を傾げた。
ふにふにする胸を自分で触ってみると、何かいけない事をしているかのような背徳感に襲われるのだ。
「ん~? あんたリップクリームでもぬった? 唇ぷりんぷりんじゃない」
一華も何で後ろに突っ立ってんの? とばかりに振り向いて見ると、普段と違う違和感に気付いた。
弟が可愛い。
いや、いつも可愛いと思っているのでおかしくないのか、いやしかし。
一華も若干混乱した。
「残念だが一姉、私はプリンは食べてない」
「知らねーよ。それになんか華奢になってるような、こんなもんだったっけ?」
「いや、自分でも少し頼りない身体つきだなと思っていた」
不思議そうな顔で七希は自分の身体を弄っていた。
どこか顔が赤い気がするのは熱でも出たのか、と一華も訝んだ。
「何? 昨日絶食でもした? 断食?」
「していない。六花の食事はいつも美味い」
湯煙漂うお風呂場で、二人は何だ何だと見つめ合う。
このままでは埒が明かない。
七希は意を決して尋ねる事にした。
「一姉、質問がある」
「……どした?」
「何というか、下もつるんつるんになったんだが、これは普通の事か?」
「あんたは昨日も一昨日もその前も、ずっとつるんつるんだったでしょーが」
「そうじゃない」
どういえば伝わるのだろうか。
七希は唸った。
「男のって、もげることはあるのか?」
「はぁ? そりゃぁ世界に何人男がいると思ってんのよ。もげる奴もいるでしょうよ」
髪の事である。
「なん、だと……?」
もげる?
もげるだと?
一華の軽い返答に、七希は衝撃を受けた。
「重ねて質問するが、一姉……もげたものは、戻るのか?」
「はあ? もげたら終わりでしょ。戻る訳ねーでしょ」
本条七希、貧血気味によろめいた。
それを慌てて一華が受け止める。
「ちょ、何してんのよナナ、あぶねーなぁ」
抱き留めた弟の身体に、何か一華も違和感を感じた。
「……いや、まだ結論を出すのは早い。何事もまず試してみない事には始まらない」
「どした?」
「布団に落としたかもしれない、探してくる」
「おねしょでもしたか? もう母さんが干してるんじゃない?」
それはまずい、地面に転げ落ちているかもしれないではないか。
想像すると七希は顔が青ざめた。
「一姉、私は私を諦めたくない」
「お、おう。相変わらず深い事を言う弟だな」
実態は深い上に斜め上だった。
事態は一刻を争う、と思われた。
七希は裸で走り出した。
脇目も振らず、走り出した。
呼び止める一華の声も振り切って、お風呂場を、脱衣所を、廊下を、走り抜けた。
本条家の敷地は広い。
離れにある道場からは未だ団十郎の奇声が聞こえている。
そこから遠ざかり、自分の部屋に向かって全力疾走。
天地神明に祈りながら、千里を駆けたかのような思いで辿り着いた部屋の扉を開け放つ。
「あらぁ、七希さん? んん? 七希、さん? おはよう?」
「六花!!」
本条六花、おっとりマイペースの母が布団を抱えていた。
七希を見てやたら不思議そうな顔をしている。
自分が裸で飛び込んできた事に驚いているんだと七希は理解していたが、もちろん違う。
「寒くなぁい、七希さん?」
「そ、そんなことより六花……落ちてなかったか?」
下手をすれば一華より年下に見られそうな可愛らしい顔をして、六花は首を捻った。
「落ちて……? ああ、落ちてましたよ」
「なに!? やはりか! それは何処に!?」
「もう虹になって、消えましたよぉ? とても綺麗でした」
「き、消え……虹……?」
そこで遂に精神の限界を迎え、七希は大の字になって失神した。
しかし明らかに大分前から七希は正常な判断力を欠いていたのは言うまでもない。
もげたものが虹になって消える訳は無いのだ。
この時六花が言ったのは、窓の外に朝露が落ちて、その雫が僅かばかりの虹になって儚く消えたということだった。
儚く消えたのは虹ばかりではなかったが。
そう、この日、本条七希は運命に出会ったのだ――
◇■◇■◇
ガチャリとマンションの鍵を開けた七希はふと振り向いて夕焼け空を眺めた。
すっかり膨らんだ胸にこみ上げてくる数々の思い出を噛みしめる。
「もげる訳ないだろ、馬鹿野郎どもが」
あれから3年、本条七希はすっかりやさぐれていた。