「ちょっとアンタうるさい!」と母に叱られた。
何も考えられない。考えたくない。この状況を理解したくない。
いくら揺さぶっても目覚めない。どんなに強く押さえても血が止めどなく流れ出る。あのたくましい妻が死ぬ?そんなわけがない。
ずっとお袋が何か言ってる。自分が封筒を早く渡していたら、とか、私のせいだ、とか。よく分からない。何を言っているのか分からない。
受け入れたくない現実から目を背けるために視線を上に向ける。妻じゃない人間たちが妻じゃない人間を取り押さえている。足元にはナイフ。何か赤い液体に濡れている。何かは分からない。
「スズ…」
思えば俺は最後まで妻に何もしてやれなかった。プレゼントも結婚指輪以外したことが無いし、外食に連れていった事だって数回しかない。結婚当初、妻が強く望んでいた子を成すことだって、俺の子ども嫌いのせいで諦めさせてしまった。
ヒカリと楽しげに話す昨日の妻の笑みが鮮明に思い出される。俺も、何だかんだ言って餓鬼たちと遊んだり話したりするのを楽しんでいたじゃないか。子ども嫌いなんて嘘だ。責任が増えることを恐れていただけだ。そんな餓鬼のような俺のワガママに妻を付き合わせて…。
またあの笑顔が見られないかと無駄な期待をして、妻の顔を見る。
「!?」
現実から逃げ、思い出と想像の世界に溺れようとしていた俺の意識が一瞬にして覚醒する。妻の頭を、手が掴んでいる。赤いその手は人間の物ではない。ワニかトカゲか、爬虫類のような鱗を持った大きな手。手の主を知ろうと付け根へ辿るも、腕の先はない。身体があるべきあたりに視線を泳がせるも、何も見えない。
いや、あった。取り押さえられ、うなだれる若い男の頭にも腕と手が触れている。妻の方は右手、男の方は左手だ。だが胴体は無い。気持ちが悪い。何だこれ?
ギョッとして動けずにいると、妻の頭から何か光るものが赤い手に移った。光は手を伝わって一瞬消え、左手側にまた現れて男の頭に入っていった。背筋が凍る。何が起こったのかはもちろん分からないが、おぞましい光景を目にした気分だ。普通ではないことが起ころうとしている。そう、直感した。
途端に腕の中で妻が身じろぎした。思わず叫んでしまう。
「うわぁっ!!!?」
「うわっ!?何何?耳元で大声出さないでよ!」
肘がみぞおちにえぐりこむ。しかし、あまりの驚きで痛みなど何処かへ行ってしまった。お袋や、イマイたち捜査員たちも口をぽかんと開けている。
「…ちょっ、苦しいんだけど。放してよ!」
脇腹を押さえつけたままだった手をほどく。服に穴が開いているだけで、傷口も、あんなに流れ出ていた血も消えていた。どうなっている?俺は夢でも見ているのか?
「何その阿呆な顔?そういえば、背中大丈夫?」
「え?…背中?」
指摘されて思い出した。思い出してしまった。俺は背中を切りつけられたんだった。意識してしまった途端に今まで忘れていた痛みがどっと押し寄せる。傷口を自分で見ることはできないが、尻の下に血だまりができている。
「スズさんこそ…大丈夫なの?…ちょっとアンタうるさい!」
ようやく声が出せるようになったお袋は、怪我の痛みにのたうち回っている実の息子よりも妻を心配した。確かに妻の方が重傷だったのだから仕方ないが。
「?私は何とも…あれ?こんな所に穴があいてる!何だこれ!?」
お袋に言われて自分の体を見回して初めて妻は服の脇腹部分が切れていることに気付いた。まさか、刺されたことを覚えてないのか?
「どうした!?」
「おい!しっかりしろ!」
状況が理解できずに固まっていた捜査員たちがにわかに騒ぎだした。両手を拘束されている受け子の男が喘ぎながら玄関に膝から崩れ落ちる。灰色のスーツの左脇腹に赤黒い染みがじわじわと広がる。血だ。捜査員が慌ててスーツとシャツをめくると、驚くべきことに、さっきまで妻の腹にあった刺し傷が男のものとなっていた。