「威張るな、最底辺」と美少女に侮辱された
「…なぁ、海を見に行かないか?」
病院を出てからもずっと無言のアリアが駅の方向へ向かおうとするのを止め、できるだけ明るい声で提案した。
こんな頭と心がぐちゃぐちゃな状態で妻の元へは帰れない。少しだけ自分の中で気持ちを整理する時間がほしかった。
アリアは相変わらず無言だが、踵を返して俺の後に続く。
湾の内側だから、海といっても波はさほど無い。海辺の遊歩道の海に突き出した場所でアリアと二人、柵に寄りかかってチャポチャポという音を聞いていた。茶色に濁った水が、飛沫と共に塩と化学物質の臭いを跳ねあげる。
「…アケミさんの意識空間に広がっていた海は、もっと綺麗だった。」
きっとあれは、心がとても清んでいる、という意味なのだろう。世界の在り方を変えてしまう恐ろしい『おまじない』を作り出した張本人だと言うのに。
「誰よりも博愛で、誰よりも綺麗な心を持っていたから、大昔の人が作った世界の秩序が許せなかったんだと思う。」
アリアの言う通り、彼女は時代にそぐわない古い薬に絶望していた。そして思い付いてしまった。
世界に悪意を抱かせない薬が効かないなら、悪意そのものを殺す毒を作れば良い。
「…もう、誰にも止められないんだな。」
「…だね。」
俺たちの後ろで太陽が沈んでいく。慣れ親しんだ病んだ世界は黄昏を迎え、毒が蔓延する新しい世界がやってくる。前に進むしかない、か。
「ふむ。帰るか!」
「え、何の報酬もくれないわけ?フカヒレとか蟹とか北京ダックとか。」
「そんな高級料理連れていけるわけないだろ。こちとら無職だぞ?」
肺の空気を全て排出するようなため息をつき、
「威張るな、最底辺ヒモ甲斐性無し!」
不名誉な肩書きを一つ付け足すアリアであった。
家に帰る勇気が沸いたところで振り返ると、服装は土日のお父さんといった感じだが、見るからに異様な雰囲気を持った男たちが俺たちの行方を塞いでいた。5人のうち、一番歳がいった眼鏡の男が絵に描いた営業スマイルで話しかけてくる。
「少々、お時間よろしいでしょうか?」
アリアが俺の後ろに隠れる。
それが正しい。コイツら、多分真っ当な世界に住む人間ではない。記者時代に何度か遭遇しかけた、決して踏み込んではいけない領域の、出会ってはいけない存在だろう。
「いえ、急いでますので。」
アリアを隠すように抱え込んで横を足早に通りすぎる。早歩きが小走りになり、全力疾走になった。
きっとあいつらは教授殿の研究を狙う奴らだ。捕まる訳にはいかない。俺とアリアの身の安全のためでもあるし、罰を受けながらひっそりと暮らす教授夫婦のためでもある。そして……
「スズ…っ!」
鈍い衝撃が走り、視界が眩む直前。帰るべき場所の名を俺は口走っていたような気がする。




