「警察に捕まるような事だけはしないで」と真顔で妻に言われた。
「俺」が恐妻に責められる様をご覧ください。
「ただい…ま…」
玄関を開けたら笑顔の妻が仁王立ちで待ち構えていた。愛する夫の帰りが待ち遠しくてこんな所にいるわけではなさそうだ。俺が惚れた可憐な笑顔は、今や怒りを表現するときぐらいにしか俺に向けられることは無い。
「お帰り、かなめちゃん。」
「おう…ただいま。」
何か俺はしでかしただろうか?朝起きて寝間着はちゃんと洗濯機に入れたし、座って用を足したし、朝食は極力くちゃくちゃという音を立てずに食べたし、食器は妻の分も洗ったし、洗濯物も干したし、ゴミも出したし…。強いて言うならトイレのスリッパを揃えずに出た事ぐらいだ。
だが、その程度の事ならこんな場所で待ち構えているほど怒りはしない。何かもっと駄目な事、浮気とか借金とか喫煙とか飲酒とかギャンブルとか、それくらいの理由の怒り方だ。
「かなめちゃん、何故私がこんな暑い所でかなめちゃんの帰りを待っていたか分かるかな?」
「えーっと…トイレのスリッパを……」
「ほう!何かね、かなめちゃん。旦那がスリッパを左右揃えず、次に入る人がすぐに履けないように放置して行っただけで怒る怖い嫁だと、そう私をなじるのかね?」
どうやらスリッパの件では無さそうだ。十分根に持ってはいるが。必死に考えを巡らせるがどうも思い当たる節がない。
「………」
「はい!時間切れ!…全く、この私が惚れた男とは思えない頭の回転速度の遅さだよ。」
「す…みません……」
「正解は、ろくに仕事も探さずに公園で一日中ぼーーーっと過ごしている事が私の耳に入ってしまったからでした!」
そっちだったか…。妻には毎朝ハローワークへ行くと嘘をついて家を出ていた。妻は嘘をつくことそのものには非常に寛容な女だ。嘘をつくのは良い。だが、嘘をつくからには絶対にバレないようにつけ。それが10年前、俺と彼女が結婚する際に交わした十ヶ条の誓約のうちの一つだ。
「かなめちゃんがね、もう働きたくない!って言うならそれで良いんだよ?私たちの間には子どももいないし、私の稼ぎだけでも節約していけば暮らせないこともない。でも、バレる嘘は駄目でしょ?」
「…仕事をしたいって気持ちはあるさ。だがな、目立った資格もない四十路の男が職を探そうにも、今のご時世、中々難しいんだよ。」
「それは重々承知だよ。かなめちゃんが辛いのはよく分かってるつもりだよ。でも、」
「嘘がバレちゃ駄目なんだろ。悪かった。今度からバレないように嘘をつきます。」
うんうん、と妻は頷いた。約束を破っても心から謝ればしつこく咎めない。それも十ヶ条の中にある。
さて、暑い廊下から冷房が効いているであろうリビングへ入るか。と、妻の前まで来たところ、通せんぼされた。顔にはまだあの笑みが貼り付けられたままだ。
「え、何何?もう話は終わったと思っているのかな?」
「え?」
「もう一つあるよ?はい。そこに座って。」
両肩を押さえられて固い廊下に正座させられる。何だ?もう一つだと!?
「話によるとね、かなめちゃんが公園で時間を潰してたのは今日に限った事じゃ無いらしいんだよね?でも、何故今日私にその話が伝わったかと言うと、今日はいつもと違うことが起こって、そっちの方を私に報告したかったらしいんだよね。情報提供者は。」
昨日までは起こらなくて、今日起こったこと。そんなこと、一つしか思い当たらない。
「あのガキ……」
「そう!いたいけな小学生高学年くらいの女の子!」
あのやり取りを近所の人に聞かれてしまったのか。そういえば、アイツも声が大きかったし、あまりに突拍子もないお願いだったので、こちらも声を荒げてしまった。むしろよくまぁ、警察に通報されなかったものだ。我が家の女性警察官には通報されたが。
「何を聞いたんだ?」
「女の子が売春を持ちかけてきたのを、かなめちゃんが此処では駄目だとたしなめてたって。」
そりゃまたド派手な尾ひれが付いたな。
「ん?その顔は否認かな?釈明の余地を与えよう。ほれ、全部洗いざらい吐いちゃいなよ?」
捜査官の尋問に大人しく公園であったことを全て話す。数日前、あの公園でぼーっとしていたら女の子数人にはやし立てられて渋々鬼ごっこに付き合ってやった事、あの少女はその内の一人である事、今日公園へ行ったら突然襲えと迫られた事、もちろん丁重に断った事、そして
「おまじない?」
「そう。おまじない。何のおまじないだか知らないが、その効果の程を俺で確かめたかったんだと。」
「おまじないの効果…?」
流石に妻も子どもの可愛い遊びに付き合わされたと分かってくれたらしい。笑顔が綻び、真顔に少し近くなる。
「なーんだ、そういう事か。不倫じゃ無いんだね?」
「四十過ぎたオッサンが小学生の女の子と不倫なんてするわけねーだろうが!犯罪だわっ!というか、俺はお前以外の女に興味はない!」
おっと、口が滑った。
「んふふ~。嬉しいこと言ってくれるじゃない。」
喜んでる。口角以外の部分は最早笑ってない。
「でも、もし次に会ったら、遊びでも自分を襲えなんて他の人に言わないように注意しといてね。本当に最近、児童を狙った犯罪が多いんだから。」
「注意したさ。聞き入れるかどうかは定かではないがな。
…そう言ゃあ、アイツもそんなこと言ってたな。連続児童誘拐死亡事件。」
俺の話にほとんど興味を失いかかっていた妻の眉がピクッと動いた。
「その子が事件の事で何か言ってたの?」
「いや、何でもそのおまじないってのは、そういった事件に巻き込まれたとき用の守護まじないだとか何とか言ってたぜ。オカルト好きな年代なんだろうなぁ。」
笑えないけど可愛いもんだと膝を打って立ち上がる。今度はリビングへ行くことを止めはしなかったが、妻は何か引っ掛かっているようだ。腕組みをして考え込んでいる。
「どうした?」
「…かなめちゃん。明日、その子を家まで連れてきてくれないかな?」
「はぁ!?」
あくまで真面目な表情の妻。自分でお説教でもたれるつもりか?
「ちょっとその子と話したいの。」
「まぁ…構わないが……」
「あ、でも、警察に捕まるような事だけはしないでね。かなめちゃん。」
女子小学生を家に連れて来い、なんて通報されそうなことを指示しておきながら、この上ないほどの真顔でそう言い放った。