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うわさ

 千香はスーパーの棚の前でしばし考え込んだ。


「私はトマトソースが好きなんだけどなぁ」


 ホールトマトの缶詰に手を伸ばし、躊躇する。結局そのまま手に取ることなく、千香は腕組みをして考えた。

 実家暮らしの時にはあまり考えなかったのだが、翔真と暮らすようになって味の好みの違いというのは同居する上でとても大事だと知った。

 実家では千香の好みに合わせるうちに、元々和食党だった父さえも最近では洋食に慣れてしまったような気がする。


(昔から煮込みハンバーグとかグラタンが大好きだったからなぁ……)


 思えば小さな頃から千香は和食が苦手だった。

 特に魚の脂がダメで、食後にこみ上げてくるなんともいえない苦さに苦しむことになり、手をつけなくなってしまったのだ。

 それからは和食の日でも、ほかに必ず千香の食べられるものがある。

 小さな頃、家の食事は和食中心だったが、両親も姉も苦手な食べ物がなかったので、その内洋食にシフトしていったようだ。

 甘やかされてここまで来ちゃったんだなぁ……。

 それを実感したのが家を出てからというのは、なんだか両親に申し訳ない感じがした。


(一人暮らしだったら気づかなかったかも)


 意外なことに、同居人の翔真はお醤油の味付けが大好きだった。

 ヨーロッパアンティークの家具がしっくりとくる風情のある洋館に暮らし、母親がイギリス人という先入観から、てっきり翔真は洋食派だと思っていた。

 パスタも醤油味がいいと言うのだから、その思いは千香の食へのこだわりよりも強そうだ。


(ん~、まぁいいか。私もお醤油味のパスタは嫌いじゃないしな)


 結局、何も手にすることなく別の棚の前を離れ、そのまま野菜コーナーに移動する。

 醤油味のパスタといえば和風スパ。きのこは欠かせないという単純な考えだ。

 刻みのりってあったかな……声をかけられたのはそんなことを考えていた時だ。


「こんにちは!」

「あ、のんたん」


 視線の先ではカフェの常連の女子高生の小鳥遊たかなしのどかが買い物カゴを片手に立っている。

 カゴの中には卵のパックと玉ねぎが入っていた。


「買い物?」

「はい。ママに頼まれてたの忘れて……。えっと、後は……牛乳とイチゴと食パン買ったら終わりです」


 手にしたスマホを見ながら答える。買い物メモが紙ではないところはさすが現代っ子というところだろうか。

 するとのどかは、画面から視線を千香に戻し、何やら楽しそうに話し出した。


「千香さん、お家遠くありませんでした?」

「え? 少し前にこの辺に引っ越してきたの」

「てことは、あの噂は本当なんですね?」

「噂?」


 驚き目を丸くした千香に、彼女は驚くべき言葉を口にした。


「翔真さんを射止めたって噂ですよ! 今まで誰にもなびかなかった彼に同棲相手がー! って、うちの学園でも噂がもちきりですよ! そのお相手が千香さんだったなんて、私嬉しくて!」


「……は?」



 * * *



 どうやって買い物を終えたのか覚えていないが、家に向かう千香の手にはしめじと刻みのり、そしてカップアイスが入ったエコバッグがあった。

 動揺したわりには、ちゃんと翔真用に抹茶あずきのカップアイスを買ったことを褒めたいくらいだ。

 のどかの話はこうだった。


 翔真はあのルックスから、この辺りでは有名人らしい。

 翔真が務めるアクセサリーショップにも、彼目的の客は多く、半ストーカーのようにつきまとう女性も後を絶たなかった。

 これは千香も母親から聞いて知っている。それが原因で千香に同居の話が来たのだから。

 驚いたのはこの続きだ。

 女性からのアプローチは絶えなかったが、翔真が曖昧な態度で女性たちをやきもきさせていたわけではないらしい。どちらかというと、少しの隙も見せずバッサリと切り捨てていたというのだ。それはもう、小指ほどの希望も見いだせない程。

 そして、ついたあだ名が『シルバー・プリンス』

 それを聞いた時、ネーミングのサムさに腕がざわざわとしたが、のどかはいたって真面目だったので千香はなんとか我慢した。

 その近寄る女には笑顔すら見せないというシルバー・プリンスの様子が最近変わったのだという。

 つきまとう女性たちに辟易した翔真は、とうとうセキュリティ抜群の高級マンションに引っ越した。これでドア前での待ち伏せなどはなくなったが、そこに住めるだけの経済力があるのだと、逆に熱くなった人々もいたらしい。手を変え品を変え女性たちは彼の前に現れる。偶然を装う人、彼のデザインしたアクセサリーだけを購入して客から知り合いになろうと目論む人。だが、彼の部屋に入れた者はいない。

 その翔真の城に、招き入れられた女性がいるらしいという噂は瞬く間に広がった。

 一体誰がそんなことを言い出したのかとのどかを問い詰めると、なんと翔真が自分から話しているというではないか。


 一体どういうことだろう?


 千香の足は無意識に家路を急いだ。


「おかえりなさいませ」

「あ、ただいま……」


 エントランスに入るとコンシェルジュに笑顔で迎えられることに、千香はなかなか慣れない。

 へらっと笑顔を向け、そのまま通り過ぎようとしたが、後に続いた言葉に足を止めた。


「八重樫様は既にお戻りでございます」

「えっ。そうなんですか? ありがとうございます」


 役割分担を明確に決めたわけではないけれど、決まった時間にカフェの仕事が終わる千香と勤務時間が不規則なデザイナーの翔真では、 自然と千香が食事を用意するようになっていた。

 そんなに買い物に時間がかかったわけではないが、翔真を待たせているかもしれないと思うと少し焦る。


「翔真。ごめん、今ごはん……」

「おかえり」


 急いでリビングダイニングへのドアを開けた千香の鼻を濃厚なデミグラスソースの香りがくすぐった。


「ごはんなら、今できたよ。いいタイミングだったね」

「煮込みハンバーグ! これ、翔真が作ったの?」

「他に誰が作るの。中にチーズも入れたよ。千香好きだったでしょ」

「うん! 大好き!」


 嬉しそうに答える千香に、翔真は満足げだ。

 自分の好きなメニューを覚えていて、作ってくれていた。千香は自然と頬が緩む。

 翔真は濃い味が得意じゃなかったはずなのに……千香が喜ぶと思って作ってくれたのだろうか? その気持ちがまた嬉しかった。


「すぐ食べる? あとテーブルに出すだけだから」

「うん! おなか空いちゃった! あ、あのね。アイス買って来たんだ」

「いいね。じゃあ食後に食べよう」


 千香は冷凍庫にアイスを入れると、いそいそとイスに座った。


 翔真が作ったハンバーグは表面が少し焦げていたけれど、とても美味しかった。

 ハンバーグもふんわりとしていて、分厚さの割にはしっかりと中まで火が通っている。


「美味しい! 翔真って料理も上手なんだね」

「そんなことない。煮込みにしたから中まで火が通ったんだよ。それだけ」


 濃厚なソースに肉汁が少し混ざり、そこに少し温めたパンを浸すとじんわりと染み込んでいくらでも食べられる。

 バタールを買ってきていたことからして、今日の夕食は『ただ先に帰って来たから』というだけの理由ではないことが分かった。


「……今日、なんかあったっけ?」


 記憶している翔真の誕生日でもないし、当然自分の誕生日でもない。

 翔真が慣れないハンバーグを作ろうと準備していたその理由はなんだろう?

 千香は何も思い当たらず、首をひねった。


「……1ヶ月だろ」

「1ヶ月?」

「千香がこの家に引っ越してきて、1ヶ月だろう」

「えー。もうそんなに経つ? ん? もしかして、それで作ってくれたの?」

「……なんていうの……ちゃんとした歓迎会、みたいなの、してなかったじゃん」


 いつもスラスラとよどみなく話す翔真がなぜか口ごもっている。

 歓迎会だなんて、何人もの人間が一緒に暮らすシェアハウスでもないのに。しかも、初日に「よろしくね」と握手も交わしたし……同居の始まりってこういうものなんだな、と考えていた千香は驚いた。


「そういえば、今日のんたんに会ってね」

「……のんたんって誰」


 話を逸らされたと思っているのか、翔真は少し不機嫌だ。


「ええと、職場の常連さん。でね、彼女が言うには、私が翔真の家で暮らしてるのが噂になってるんだって。翔真が近寄ってくる女の子に、私のこと話してるって言ってたんだけど」

「……ほ、本当のことなんだからいいだろう」

「……そうだけど」

「け、けど……何?」


 いつも穏やかな翔真の顔が少し険しい。なんだか耳が赤くなっているように見えるのは、煮込みハンバーグが熱かったからだろうか?


「翔真、耳赤いよ」

「……っ! ちょっと暑いだけだよ」

「アイス食べる?」


 棚からデザートスプーンと、冷凍庫からカップアイスを2つ取り出した千香は1つを翔真の前に置く。

 翔真は千香をチラリと見ると、小さく息を吐いた。


「え? 抹茶あずき、好きだったよね」


 不満だったのかと聞いた千香に、翔真は短く「ああ」と返した。


「……それ、何」

「え? 何って?」

「ちぃが食べてるの、俺のと違う」

「コレ? これはアーモンドクラッシュキャラメルソースだよ」

「ふぅん……」

「うん」

「うまい?」

「うん。……翔真もコレが良かった?」


 気を使って翔真の好きそうなアイスを選んだつもりだったが、翔真はなんだか不服そうだ。

 好みが変わったのかと思い尋ねても、好きだと言うが、機嫌は直らない。


「せっかく一緒なんだから……同じものがいい」

「え?」

「それぞれがそれぞれの好きな物食べるなら、ただの我儘だ。一緒に暮らすなら、相手の好みも知りたいし普段食べないものだって食べたいだろう」


 千香はさっぱり意味が分からなかった。

 普段食べないものも食べたい? 見ていて美味しそうに思えたのだろうか。でも我儘って? 家族以外とは一緒に暮らしたことのない千香は面食らった。

 でも考えてみればそうかもしれない。人を思いやり、相手に合わせるというのもまた共同生活の良いところなのだろう。そう解釈した千香は次からは同じデザートを買ってくることを約束し、結局カップアイスは半分こにした。


「……思ったより甘くない」

「たぶん、アーモンドが多いからじゃない?」


 千香が色味から食べようとしていなかった抹茶のアイスも、思ったより美味しかった。少しの苦味はあるものの、あずきと一緒に食べるとまた別の味わいがあってクセになりそうだ。これまで食わず嫌いだった自分を叱ってやりたい。


(翔真が言いたいのって、こういうことなのかな?)


 明日こそ、翔真の好きな醤油味のパスタを作ろう、千香はそう心に誓った。

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