インテリア
合鍵は渡されたものの、実際に引っ越しの話が具体化したのはゴールデンウィークが終わって日常に静けさが戻った5月中旬のことだった。
翔真の住むシェアハウスに部屋を借りることになったと話すと、お世話になっている姉夫婦は少し戸惑ったようだった。
姉夫婦が営むくまのカフェは、都市開発が進む駅の東側に比べ、昔ながらの商店街を中心にのんびりとした時間が流れる西口の一角にある倉庫を改装した大きな空間だ。
「東口にシェアハウスなんてあったかな」
「私も聞いたことないわー。でも、最近は古い一軒家を業者が買い取ってシェアハウスにするなんて話も聞くし……」
「そうそう。それかなって思って」
「もっとよく話を聞いた方がいいんじゃないか? いくら近くてご両親も信頼してる人とは言ってもなぁ」
「大丈夫ですよ。今日、下見に行くことになってますし、それからでも遅くはないと思うんです」
難しい顔を見せる義兄の熊埜御堂雅也の話を笑って受け流し、千香は家具のカタログに目を落とした。
そこには憧れの北欧家具が載っている。使い勝手が良さそうで、でも綺麗な色合いで決して実用的なだけではない。
実家の砂壁と畳の自室には似合わないため、ただただ想像しているだけだった世界を、やっと作れる。本来ならばなかなか手が出せるものではないが、提示された家賃が思った以上に安かったため、この家具たちに囲まれる日もぐんと近づいたのだ。千香はそれだけで楽しくて仕方がなかった。
壁の色や天井の高さ、備え付けの照明なんかで部屋の雰囲気はガラリと変わる。この家具たちを迎え入れられる場所かどうか、色々見てみなくちゃ。そんな風に考えていた千香は、仕事帰りに向かった先で口をあんぐり開けていた。
「お、おかしいな……」
手にしていたスマホの地図アプリに再び目をやるが、相変わらずここが目的地であることを指している。だが、目の前にあるのは思い描いていたような一軒家ではない。見上げるほどに背の高いマンションがそびえたっていたのだ。
そのマンションは一見して普通のマンションではないことが分かる。熊埜御堂はセキュリティを心配していたが、ここに関してはそれは問題ないだろう。何しろ、一つ目の自動ドアを抜けた先の風除室のような空間が軽く十畳はある。片側に警備員室があり、中央のドアの前にタッチパネルが見える。これはきっと認証システムというものだろう。そのドアをはさんで警備員室と反対側には、様々な大きさの宅配ボックスと、隅には透明なドアのついたシャワーブースのようなものがあった。
その空間の先にはホテルのフロントのようなカウンターがある。これが住居施設だとは、千香には思えなかった。
「なにこれ……」
不審人物にでも見えたのだろうか。
警備員室から制服姿の男性が現れると、まっすぐ千香に近づいてきた。その顔は笑顔だが、目が笑ってない。千香は思わず背筋を伸ばした。
「失礼ですが、こちらに何かご用ですか?」
「はっ……は、はい。今日、部屋の下見をさせていただくことに……ええと……でも、こちらではないようです。すみません出直し……」
「失礼ですが、お名前を頂戴できますか?」
「み、三上です……」
思わず小さくなった声に、警備員は苦笑すると声色を和らげた。怖がらせるつもりはなかったが、職業上仕方のないことだ。ニコニコ温和な態度では余計なトラブルを招きかねない。
「失礼いたしました。お話は八重樫様より伺っております。ですが、セキュリティの都合上、身分証明書の提示をお願いしております。ご協力いただけますか?」
「は、はい……」
千香は言われるがまま、財布を取り出す。人通りも多い公道であまりに素直な千香の様子に、警備員は慌てて制止した。
「いえ。中のカウンターでコンシェルジュに見せていただければ大丈夫です。そこまで私が同行いたしますが、ご了承くださいませ」
「は、はい。あのぅ……こ、コンシェルジュって……ここはシェアハウスじゃないんですか?」
「は? あ、申し訳ありません。こちらはマンションでございますよ。八重樫様はこちらのお部屋にお住まいでございます」
こんなにも厳重なマンションなど、初めて見た。
たまに行く友人のマンションはせいぜいセキュリティと言っても階下でインターフォンを押し、中から開錠してもらうような設備だった。ここは世界が違う。まるで木造の三上家を見下ろす八重樫家の洋館のような。だが、一言断って出直す勇気も、千香にはなかった。
「あ、あの……あれは何ですか?」
「どれでしょう?」
「あの透明の電話ボックスのような……」
「ああ。あれはエアシャワーです。お部屋に入る前、花粉を飛ばすことができます」
「は、はあ……」
花粉さえも寄せ付けない高級マンション。ここに自分が住むというのか……千香はポケットに手を入れ、鍵に触れた。
合鍵が作れないという電子キー。これを使用するということ自体、セキュリティがしっかりしている場所ということだ。気づく時間はあったのに。
(北欧家具に心が奪われていたからだ……)
二重の入口を入ると、かっちりとしたスーツ姿の男性に迎えられた。
「はじめまして。三上様。お部屋のご案内をさせていただきます、沢井でございます。電子キーは既にお持ちだと八重樫様より伺っておりますが……」
「は、はい。持ってます」
「かしこまりました」
にっこりとほほ笑んだ沢井と名乗った男性に身分証明書を提示すると、沢井はさっさと歩きだした。
断るタイミングをまたしても逸してしまった……千香は大人しく沢井の後について行った。
(こんな場所だと思わなかった。翔ってほんとにセレブなんだ。さすがにここに月5万で住むのは心が痛む)
それに千香には気になることがあった。
一緒に住む、という話だったけど……ここはとてもシェアハウスには見えない。個々のセキュリティがしっかりとした高級マンションだ。ここに、翔真と一緒に暮らすということなのだろうか?
いやそれはまずいだろう。お互いもういい大人なのに……。
と、思っていたのに……。
「はぁー! 届いた! こっち! こっちにお願いします!」
「ハイっ」
チェストにベッド、丸いサイドテーブルに大き目ソファ。
ベッドはホワイト。チェストは枠がオフホワイトで引き出しが淡いパープルとブルーの交互になっている。サイドテーブルは黒の猫足の上にすりガラス製の天板が乗っている。ゆったりソファはパッと目を引くオレンジ。
運んできてくれた業者さんがテキパキを家具を配置していくのを千香は目を輝かせて見ていた。
「色合いがバラバラ」
「いいの! だいたい、翔の部屋は色がなさすぎ。あそこまでモノトーンだと気持ちまで暗くなっちゃう……あ! カーテンつけよう!」
翔真の言葉など気にもとめず、千香は大きな包みをバリバリと破った。中から出てきたのは、グリーンのグラデーション。広げてみると、上部分が薄いグリーンでところどころに白や黄色の蝶が飛んでいる。下には色とりどりの花々が咲いていた。
「落ち着かないデザイン」
千香は翔真の言葉が聞こえていないのか、いそいそと白い木製の脚立を使ってカーテンを取り付けた。
「ほら! 意外とまとまるでしょ」
得意げに振り返った千香の言葉を翔真は認めるしかなかった。
何もなかった白い部屋にひとつ、ふたつと色合いもデザインもバラバラの家具が配置され、最後に草原のカーテンで包まれるとなぜかしっくりとまとまって見えた。
色があふれてうるさく感じてもおかしくないのに、なぜか落ち着く。
「……ま、これはちぃの部屋だからいいけど」
「ふっふっふー。これで夢が叶ったー!」
満面の笑みで脚立から下りた千香に、翔真が手を差し出した。
小さな頃はこの手を握るのは当たり前のことだった。
いつもふたり手を繋いで幼稚園に行った。小学生になってからかわれることもあったけれど、それでも時々翔真はこうして手を差し出してくれたっけ。
そんなことを思いながら、千香は翔真の手を握った。
「今日からルームメイトだな」
「そうだね、よろしくね」




