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ありのままになれない僕ら




 その日は、大嫌いな雨の日だった。早めに部活の練習を切り上げ、日が浅いうちに野球部仲間は群れをなして帰っていった。ある者は傘をささず、ある者は相合傘。僕は、折り畳み傘が消えていることに気づいて、急いで教室に戻った。ぐしょぐしょのユニフォームや、雨水が浸食してきた生温かい靴下が、やけに僕の体の動きを鈍くさせていた。

校庭から校舎に向けての長いコンクリートの地面を、早歩きで進んだ。しかし、僕の足は校舎玄関前でピタリと止まった。


「あ、八嶋君。お疲れ様」

「……木村」

僕は大概馬鹿だとは自負していたけれど、たかがここで学校一のアイドル木村那耶子に話しかけられたというだけで、さっきまで最悪だと思っていた日が、とびっきりの最高の日に変わってしまっていた。僕は、マヌケ面でその場に突っ立っていた。

「八嶋……君?」

木村の綺麗な瞳が、僕のマヌケ面を映している。僕は自然に俯いていた。前髪から雫が一滴、二滴と落ちていく。

「あ、いや……」

雨の音が、僕たちの無言の時間をかき消してくれた。そういえば、こんなところで一人、木村は何をしているのだろうか。傘を忘れたのだろうか。それとも、誰かを待っているのだろうか。

「あぁ、雨強くなってきちゃったね……」

「うん」

ただ雨が強くなっていくのを眺めていた僕に、木村は不思議そうな眼差しで見ていた。背中でツーっと汗が走ったのが分かった。そういえば僕の用は、折り畳み傘を持ってくること、ただ単にそれだけだったはずだ。

「木村、ちょっと待ってて」

「え?」


走った。

信じられないくらい体が軽くなっていた。階段を駆け上がるとともに、途中に飾られている今まで何の関心も無かった絵が、今はひとつひとつが七色に光り輝いて見える。

「乙女の主人公か俺は!」

と、一人で突っ込んでも今日は虚しくならない。断言しよう。僕は今、完全に浮かれている。だって、木村は僕の名前を知っていた。学年が一つ上に上がって、同じクラスになってたった三日だというのに。僕はまるで、野獣のようにゴミ溜めロッカーを漁った。

「無い。中か?」


勢いよく閉めたら、ロッカーのバンッという大きな音と共に、教室の中から雑誌が落ちるような音が聞こえた。

何故か僕はふいにこう思った。この中にいる人は、もしや“木村の待ち人”ではないかと。おそるおそる入ると、今にも帰りかけの、二年になり初めて知った一度も話したことが無い、日野という男だった。どうやら、ロッカーの閉める音に驚いて、読んでいた本を落としてしまったらしい。

「あ、ごめん」

僕はごく自然に日野という男に駆け寄っていた。

「せっかく途中まで読んでたのに、悪い」

「別に。どこまで読んだか覚えてるし」

「あ……そう」

日野は早々と立ち去ろうとしたので、僕は肘を掴んで彼の足を止めた。何故そんなことをしたのか自分でもよく分からないが、行かせたらまずいと思ったんだと思う。

「なに?」

「え? あ、あぁ。えーっと……、せっかくだし途中まで一緒に帰ろう、な!」

「は? なんで」

「いいじゃん。十秒、あと十秒で用事済ませるから」

廊下側の後ろから二番目が僕の机だ。中を覗くと、置き勉の教科書や渡されたばかりの三者面談のプリントなどが乱雑に突っ込まれている。手探りで探したりもしたが、それらしきものが見当たらない。

すると、

「8……9……」


「待て! あった!」

適当に探って、ランダムに選ばれたのは……。


「……あった、あったぁ……」

「……用事ってそれ……もしかして、古典的な嫌がらせか」

「あははは、そうそう、このバナナの皮でツルっと……ってするかぁー!!!」

しまった、ボケツッコミなんてしている場合じゃなかった。

どうする、バナナ傘……なんて、もっとマシなことを考えろ!っと、こんなこと考えている暇があるなら傘を探せ八嶋良太!バナナは一先ず置いておくんだ。


「9.1……9.2……9.3……」


「……ん? おい、数えんのやめんな。いえ、やめないで下さい」

「もしかして、おまえが探してるのって、青い傘?」

「……あぁ。なんで分かった」

「うしろ、ポケット」

「は?」


上半身だけ振りかえると、尻のポケットに深くそれは突っ込まれていた。そういえば今思い出すと、この傘はある野球部員から今日返してもらったばかりで、そいつはちょっと変わったやつだった。歪んだあいつの顔が今、ハッキリと思い浮かべられる。


「じゃあ俺はこれで」

「待てよ!」

「なんだよ。悪いけど、人を待たせてるから、早くしてくれないか」

「あ……」

「じゃ」

「東階段は雨に濡れてて滑りやすいぞ、西階段から行った方が良い」

「手すりにつかまっていくから平気」

「それに電灯が切れてる」 

「なんだよ。要するに、どうしても遠回りの西階段に行かせたいのか。僕が人を待たせていると言っているのにも関わらず」

こいつは眼鏡だし、休み時間でも本読んでいるし、誰かと話してるところさえも見たことが無くて、ただ、いけすかないヤツだと思って距離を置いていたけれど、案外結構良いヤツなのかもしれない。

急に恥ずかしくなってきた。こいつに嘘をついて遠回りをさせ、早回りした俺が先に木村と上手くいけばなんて。俺は、最低なヤツじゃないか。そもそも木村は日野を待っているんだし。俺は、単なるお門違いってヤツだ。

「これ、使えよ」

「は?」

「馬鹿の上に最低なやつになりたくない」


「……分かった」


「ちゃんと返せよ!」

「さあ」

日野は東階段を下りて行った。階段はどこも雨になど全く濡れてはいなかった。

何故あいつは嘘をついてまで、西階段へ行かせたかったのだろうか。日野は、柄にもなく他人のことについて考えている自分に、少し驚いていた。そしてまだ、素直にはなれなかった。

階段を下り切ると、昇降口の靴箱ロッカーの前に木村が立っていた。


「あ、やっと来た」

「もしかしてずっとここで待ってたの? 教室に来れば良かったのに」

「なによ、読書中に話しかけたらすっごい怒るくせに」

「……ごめん」

「素直でよろしい! ね、傘忘れたから入れて」

「……あぁ、そういうことか」

そういえばあいつ、もの凄い勢いで傘を探していた。なるほどな、これでやっと腑に落ちる。

「そういうことって?」

「これ使え」

おもむろに鞄の中を漁り、先程渡されたあの青い傘を木村に渡した。そして自分の傘を静かに開き、玄関の階段を下りた。雨がよりいっそう激しさを増す。

「珍しい、圭祐が傘を二本も持ってるなんて」

木村は嬉しそうな表情を隠しきれなかった。

留め具のボタンを外し、はじきを押して手元を持ちながらゆっくりとろくろをおろした。すると、金属の棒のだいたい真ん中あたりに“中嶋良太”と油性ペンででっかく書いてあるのがすぐ目に入った。


「あ……」


木村は忘れていた。中嶋が、“待ってて”と行って立ち去っていったのを。木村は、自分のスクールバッグをぎゅっと握りしめた。

「圭祐、ごめん。先行ってて」

日野は遠くを見つめながら、全てを見透かしているような面持ちで言った。

「俺は先に帰る。じゃ、またな」

「あ……圭祐……」

木村は、更にバッグをぎゅっと握りしめた。


 僕は大変後悔していた。

もしかしたら、いや、もしかしなくってもこんなチャンス、もう二度と無いかもしれなかったのに。どこからともなく、深い溜め息が漏れる。あれから、十分経過していた。もうとっくに出ていっただろうと思い、東階段を下りていった。先程の七色の絵には目も暮れず、ただ通り過ぎていく。ところが、

「八嶋君」


目の前には、もういないはずの彼女が、まだ僕の傘をさしながら立っていた。

「なんで?」

「なんでって、八嶋君、待っててって言ったじゃない。それに傘、これしかないでしょ?」

「い、いや、教室にもう一本ある」

僕は急いで踵を返したが、歩きだすよりも早く彼女の口が開いた。

「また教室に戻るの?」

「いや、その……それは」

と言って、振り返った瞬間だった。


「いいじゃん。一緒に帰ろう」


「……あ、うん」


本当にマヌケとも言えるくらい、あっさりと覆されてしまった。頭で考える前に勝手にもう言葉が出てしまっていた。どうしてかなんて、考えることさえも今はどうでもいい。


 雨と泥と汗に塗れた僕のユニフォームの隣には、真っ白なセーラー服を着た憧れの女性。印象に残る一点の曇りもない瞳、筋の通った小さい鼻、薄紅色の唇、柑橘系の甘い香り、黒くて長いストレートの髪。

突然木村は口を開き、こう呟いた。


「意外だな」


「え?」

「八嶋君は意外に、静かだね」

「静か?」

「うん。八嶋君ってクラスの人気者だから、もう少しお喋りな人なのかなって思ってた」

「あぁ、それは……」

「あ、いやな意味じゃないよ。ただ意外だっただけ」

「それなら木村だって意外だよ」

「何が?」


「意外に、ノリが軽かった」


「え? それはどういう意味?」

「いやな意味じゃない、ただ意外だっただけ」


「ふ~ん。なんか、今日は意外な発見の多い日だなぁ」

「え?」

「だって八嶋君、圭祐と物を貸し借りするような仲なんでしょ。この傘とか。圭祐、他人にわざと距離置いているから、私以外にも物を貸し借り出来る人がいたなんて、ちょっと、意外」

「……そんなんじゃないよ、たまたま今日は理由があって……」

「他人の物には触りもしない男だよ。どうでもいい人には耳さえ傾けない。そんな風に結構露骨に酷いことやってるから、いじめられたりもしてた」

「……へぇ。よく分かってるんだね、あいつのこと」

「ううん。こんなこと、一緒に居れば誰だって気づくことだよ。圭祐には、長年一緒にいたとしても届かない、大きな壁があるみたいなの」


そうか。僕らには、大きな壁があった。日野を想う木村、そして僕は、そんな木村に。


「私の家、ここ曲がってすぐだから。傘、ありがとう」

「いいよ、使って」

「ありがとう。でも、本当にすぐ近くだから、大丈夫。じゃあ、また明日ね」

「あ、うん。また明日」


角を曲がって、すぐ木村の姿は見えなくなった。

なんであの時、あんなことを言ってしまったんだろう。“意外に、ノリが軽かった”だなんて。本当は、そんなこと言うつもりはなかった。本当は、“君は、こんなに自然に笑える人だったんだな”って、言いたかったんだ。

僕たちは、初めてこんなに話して、初めてこんなに体が寄り添ったのに、まるで、前よりも遠くにいる感じがする。いや、違うか。前は遠すぎて、その自覚さえも無かったんだ。僕は、その事実に目を向けることが出来ず、木村が去っていった方向をただじっと見つめていた。


 一方木村は、八嶋と別れた後すぐにバスの停留所の待合室へと入って行った。向き合わせの木製ベンチの一番奥の隅に座って、ゆっくりと鞄を開けた。中にはハンカチと、その下にはオレンジの折り畳み傘があった。


「……私って、馬鹿」


雨は、まだまだ止みそうにない。


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