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午後十一時のブックマーク

作者: いちた
掲載日:2025/10/18

気持ちのまま書きたくなってしまったものです( 'ω')


さらさらと読み進めてもらって明日もがんばろう


あの作品見ようかな?


なんて原動力の1部にでもなれたら嬉しい。。かも


ーー午前六時半。



設定した携帯のアラームが鳴る五分前に、目が覚めてしまう。



そういう癖がついたのはいつからだったか。



窓の外はまだ薄暗く、白み始めた空気が部屋のレースカーテンをぼんやりと照らしている。




佐藤さとう あおい、二十五歳。独身。都内の中堅商社で、事務職として働いている。

これは私の日常の話。



ベッドからゆっくりと身を起こす。九月に買ったばかりのラグが、素足に柔らかい感触を返してきた。


フローリングの冷たさを直接感じずに済むのは、小さな進歩だ。

「……ん」

誰に言うでもない声を漏らし、大きく伸びをする。



静かなワンルーム。




エアコンの暖房をつけるにはまだ早い。



電気代もバカにならない。とりあえずモコモコした素材のルームソックスを履き、クローゼットからカーディガンを羽織ってキッチンに向かった。




電気ケトルでお湯を沸かしながら、テレビのスイッチを入れる。昨夜のタイマーが作動しなかったようだ。




『――昨夜未明、〇〇国で大規模な軍事衝突が発生し、多数の死傷者が出ている模様です。政府は在留邦人の安全確認を急いでいますが――』



『――人気俳優の〇〇さんに、新たなスキャンダルが発覚しました。お相手は人気アイドルの――』



『――今日の関東地方は、日中は二十度前後と過ごしやすい陽気となりますが、朝晩の冷え込みにご注意ください。マフラーやストールなど、調節しやすい服装がおすすめです――』



けたたましいニュースと、どうでもいいゴシップと、当たり障りのない天気予報。




葵は、沸騰したお湯でインスタントのドリップコーヒーを淹れながら、それらの音をBGMのように聞き流していた。



遠い国で誰が死のうと、有名な誰かが誰とスキャンダルを起こそうと、私の生活には一ミリも関係がない。



今日の気温くらいだ、私に直接関係があるのは。

(……不謹慎、なのかな)




そう思う時もある。



けれど、実感の湧かないことに心を痛めたり、激しく憤ったりするほどの熱量は、今の自分にはなかった。



自分の一日を無事に終えることで、精一杯だ。

冷凍しておいた食パンを一枚、トースターに入れる。




チーン、という軽い音。焦げ目がつく前に取り出すのが私のこだわりだ。



マーガリンを塗り、昨日スーパーで買ったカット野菜に、買い置きのドレッシングをかける。タンパク質も摂らないと。



冷蔵庫から卵を取り出し、目玉焼きを作った。




それが彼女の、平日の朝食。

インスタ映えするようなお洒落なものではない。けれど、栄養バランスは(たぶん)悪くない。




贅沢ではない。



けれど、食パン一枚とコーヒーだけで済ませるほど、質素でもない。私らしい、ちょうどいいライン。




コーヒーを一口すする。苦味と酸味が、まだ覚醒しきっていない脳を静かに揺らす。



仕事は、嫌いじゃない。



特に情熱を燃やすほどの「やりがい」があるわけでも、バリキャリとして出世したいわけでもないけれど、任されたタスクはきっちりこなしているつもりだ。



エクセルでのデータ集計、契約書のフォーマット作成、電話応対。誰にでもできる仕事かもしれないけれど、私がやらなければ回らない部分も、確かにある。




上司や同僚との関係も良好だ。



たまにランチに行く同期もいるし、理不尽な残業を強いられることも(最近は)ない。




手取りは二十三万。


家賃と光熱費、食費と奨学金の返済、それから積み立てNISAを引いて、月に三、四万は自由に使えるお金が残る。




それでたまに好きな服を買ったり、友人と少し良いディナーに行ったり、美容院でトリートメントをしたりする。

(……これで、いいんだよね?)

漠然とした問いが、朝食のトーストみたいに、胸のあたりを塞ぐ。




何かが足りない気は、ずっとしている。




けれど、何が足りないのかが、具体的に分からない。




ドラマみたいな劇的な恋? 宝くじが当たるような幸運?

そんな非現実的なことを望んでいるわけじゃない。それは分かっている。




(たぶん、ちょっと疲れてるだけ。週末にゆっくり寝れば治る)




いつもの結論に無理やり着地させる。




時計は七時十五分を回った。

テレビを消し、食器を洗い、歯を磨く。




クローゼットから選んだのは、先週買ったばかりの、くすみブルーのニットと、定番の黒いワイドパンツ。オフィスカジュアルの無難な正解。派手すぎず、地味すぎず。




メイクも、マニュアル通り。



下地を丁寧に叩き込み、ファンデーションを薄く伸ばす。眉は平行気味に、でも少しだけ角度をつけて。アイシャドウはブラウン系でグラデーション。マスカラはダマにならないように。



鏡の中の自分は、可もなく不可もない「二十五歳の会社員」の顔をしていた。



昨日とあまり代わり映えのしない顔。

「いってきます」




誰もいない部屋に声をかけ、玄関のドアを開ける。


ひんやりとした朝の空気が、頬を撫でた。


いつもの道を歩き、いつもの駅の、いつもの車両に乗る。


午前七時五十分の電車。



座れはしないが、ぎゅうぎゅう詰めというほどでもない、微妙な混み具合。スマホを操作するくらいのスペースはある。



吊革を握り、スマホを取り出す。



朝チェックするアプリは決まっている。ニュースアプリ、LINE、それから天気予報の詳細。



ニュースアプリを開くと、トップに表示されたのは、やはり遠い国の戦争の記事だった。



『民間人にも犠牲か』



その見出しを指でスワイプして、芸能ゴシップのタブに切り替える。

(……うん、どうでもいい)

すぐにアプリを閉じた。



(退屈、なのかな)

その感情を認めたくなくて、葵はそっと目を閉じた。



イヤホンから流れるのは、サブスクリプションサービスが「私へのおすすめ」として提示してきた、可もなく不可もないポップソング。


私の日常がそっと始まる。





***



「佐藤さん、この間の請求書の件なんだけど、取引先コード、こっちじゃなくて新しい方で入力し直しておいてくれる?」


「あ、はい、承知しました。修正します」


「あと、来週の会議室、午後三時から二時間で押さえておいて」


「はい、押さえておきます」


カチカチ、とキーボードを叩く音だけが響くオフィス。




私の仕事は、こういう細かいタスクの積み重ねだ。大きなミスはないけれど、大きな成果もない。




営業部のエースみたいに表彰されることもなければ、新人のように叱られることもない。




安定した、中間地点。




ランチは、同期の美咲と二人でオフィスの近くのパスタ屋に行った。



「ねえ、聞いた? 営業部の鈴木さん、また今月のトップだって」


「へえ、すごいね」


「この間、ちょっと飲み会で一緒になったんだけど、やっぱり話面白いし、モテるの分かるわー。彼女いるのかな」


「さあ、どうだろうね」


美咲の恋愛ゴシップに、適当な相槌を打つ。




私が注文したのは、今週のランチパスタ。キノコとベーコンのクリームソース。美味しい。普通に美味しい。




「葵はさ、最近どうなの? いい人いないの?」


「うーん、別に。出会いもないし」


「えー、アプリとかやってみなよ。私、今週末アポあるんだ」


「すごいね。頑張って」

(アプリか……)



昔一度だけ登録したことがある。

けれど、知らない人と当たり障りのないメッセージを延々と続けることに疲れて、一ヶ月もしないうちにアンインストールしてしまった。



私には、ああいうマメなことは向いていない。


午後の業務も、淡々とこなす。


データの入力、修正、確認。会議室の予約。お茶くみ。

時計の針が、やけにゆっくりと進む。


定時は午後六時。


今日は特に急ぎの仕事もなく、六時十分にはタイムカードを切ることができた。




「お先に失礼します」


「お疲れ様でした」


「佐藤さん、お疲れー」


オフィス街のビル風は、朝よりも冷たくなっていた。




マフラーを持ってきて正解だったな、と天気予報に少しだけ感謝する。



空はすっかり暗くなり、オフィス街のビル群が、疲れた人々を飲み込んだり吐き出したりしながら、無機質な光を放っている。




「お疲れ様です」


「お疲れー」


会社の先輩と駅の改札で別れ、一人で電車に乗り込む。


帰りの電車は、朝より少し空いている。端の席が一つだけ空いていた。ラッキーだ。



深く腰掛けて、目を閉じる。

(今日も、終わった)

達成感、というほどのものはない。



無事に一日を終えたことへの、小さな安堵。



帰り道、駅前のスーパーに寄る。


今日の特売は卵と牛乳。それから、週末にちょっと食べたいと思っていた、ハーゲンダッツの新作。カゴに入れる。



ついでに、明日の朝のヨーグルトと、今夜のおつまみ用のチーズも。



家に帰り着いたのは、午後七時半。



鍵を開けて部屋に入ると、朝と同じ静けさが私を迎えた。


(ただいま)


心の中で呟きながら、リビングの電気をつける。



買ってきたものを冷蔵庫にしまい、窮屈なオフィスカジュアルから、着古したスウェットに着替える。



んー、解放感。



これが一日で一番「自分に帰ってきた」と感じる瞬間かもしれない。

これが幸せなのかも。



夕食は、昨日の夜に多めに作っておいた肉じゃが。レンジで温めるだけ。



それと、スーパーで買ったお惣菜のほうれん草のおひたし。


ご飯を炊くのは面倒だから、冷凍ごはんをチンする。



いただきます。


テレビはつけずに、スマホをスタンドに立てて、動画サイトを流し見する。


料理研究家が手際よくお洒落な料理を作る動画。自分ではやらないけど、見るのは好きだ。



もぐもぐと、味気なく口を動かす。



食事を終え、皿を洗い、お風呂にお湯を張る。



今日は、昨日買ったばかりのラベンダーの香りの入浴剤を入れた。




湯船に浸かると、ようやく全身の強張りが解けていくのが分かった。




「……ふぅ」




一日の疲れが、湯気に溶けていく。




仕事は、ちゃんとこなした。


家事も、最低限やった。


今日も、私は「普通」の一日を、ちゃんと終えようとしている。


困っていることは、ない。


不満も、ない。




(……本当に?)



湯船の中で、自分の膝を抱える。


何かが、ささくれのように心の端に引っかかっている。


焦り、だろうか。


それとも、諦め?



二十五歳。

世間では、もう立派な大人だ。



結婚していく友人も増えた。キャリアアップのために転職していく同僚もいる。


私は、どうだろう。


このまま、このワンルームで、この会社で、あと何年、同じような毎日を繰り返していくんだろう。




十年後、私は何をしている?




今より少し昇給して、今より少し良い部屋に住んで、それでも一人で、レンジで温めた肉じゃがを食べているんだろうか。



(……嫌だなぁ、そういうの)



ーーずしり、と。



「日常」と呼んでいたものが、急に重たい鉛のように感じられた。



お風呂から上がり、髪を丁寧に乾かす。



スキンケアも、美容液までしっかり。



明日の肌のために。未来の自分のために、できることなんて、これくらいだ。



全部終わって、ベッドに潜り込む。



時間は、午後十時四十五分。


(まだ、眠くないな)


いつものことだ。


体は疲れているはずなのに、頭が妙に冴えている。



枕元のスマホを手に取った。



充電は80%。十分だ。



動画サイトを開く。


おすすめ欄には、さっき見た料理動画の関連や、お笑い芸人のコント、動物の可愛い動画、人気のミュージックビデオが並んでいる。



それらをいくつか眺めて、少し笑って、そして、すぐに飽きた。



SNSも一通りチェックした。美咲が「今週のアポ、楽しみ!」とストーリーを上げている。同期の結婚式の二次会の写真も流れてきた。



(……もう、いいや)



指先の、義務的な「いいね」を押すのにも疲れた。



今の私を満たしてくれるのは、これじゃない。



もっと、今の自分を根こそぎ揺さぶってくれるような、どうしようもなく没頭できる何かが欲しい。



私のこの「普通」で「退屈」な日常とは、まったく関係のない世界の何かが。



指が、無意識にブックマークのフォルダを開いていた。



その中の一つ。


もうどれくらい、毎日開いているだろう。社会人になってからだから、もう三年くらいだろうか。



『小説家になろう』

そのシンプルな青いタイトルのリンクを、彼女はタップした。



指は、慣れた手つきでブックマークではなく、ジャンル別ランキングのページを開いた。



日刊、週間、月間。様々な区分で、膨大な数の作品が順位付けされている。



(さーて、今日はどうしようかな)



この瞬間はこころなしかウキウキしてくる。


どんな出会いがあるのか、どんな人がいるのか

鬱屈とした気分に比例して求めてしまう。




ベッドの上で寝返りを打ち、うつ伏せになる。



枕に顎を乗せ、スマホの画面を親指でスクロールしていく。



私の読書スタイル完成。



異世界〔恋愛〕。



最近、葵が好んで読むジャンルだ。




ランキングの上位には、似たような、しかし微妙に違うタイトルがずらりと並んでいる。



『公爵令嬢は、婚約破棄されたので辺境でスローライフを始めます』


『断罪された悪役令嬢ですが、実は私が聖女でした。今更戻ってこいと言われてももう遅い』


『転生したらヒロインではなく、悪役令嬢の取り巻きAでした。全力で破滅フラグを回避します』


(……悪役令嬢、強いな)



思わず苦笑いが漏れる。


ここ数年のトレンドだとは分かっているが、それにしてもすごい勢いだ。


どれもこれも、主人公の令嬢が理不尽な目に遭い、そこから逆転していく。


いわゆる「悪役令嬢ざまぁ」と呼ばれるジャンル。


(今の気分は、これかも)




葵は、その中でも特に評価ポイントが高く、感想も賑わっている一つの作品を選んだ。



タイトルは、『冷徹公爵様に婚約破棄された私、隣国の皇太子に溺愛されて幸せになります ~真実を知った公爵様が土下座しに来ましたが、手遅れです~』。



(……長い)



タイトルだけで、あらすじの八割くらいが分かってしまう。

こういう「分かりやすさ」が、疲れた頭にはちょうどいい。

葵は第一話の『プロローグ』をタップした。




***


『マリアンヌ・フォン・クライネル! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄させてもらう!』


(うわ、出た)


読み始めて数行。




舞台は王立学園の卒業パーティー。


きらびやかなシャンデリアの下、主人公(悪役令嬢とされている)マリアンヌが、婚約者である第一王子(と、その隣にいる可憐な男爵令嬢)から、大勢の前で糾弾されている。



これぞ、お約束。



葵は、もう何度この光景を画面越しに見たか分からない、と思いながらも、指をスライドさせる手を止めなかった。



王子の主張はこうだ。



「マリアンヌ、貴様は、私の愛するリリア(男爵令嬢)に対し、陰湿ないじめを繰り返してきた! 教科書を隠し、階段から突き落とそうとし、ドレスを汚した! その証拠は上がっている!」


「まあ、王子様……!」


リリアと呼ばれた男爵令嬢が、王子の腕の中でか弱く震えている。


(……典型的なヒロインだなあ)


葵は少し冷めた目で、その描写を追う。



主人公のマリアンヌは、銀の髪をきつく結い上げ、釣り上がった青い瞳を持つ、完璧な公爵令嬢。



対するリリアは、ふわふわの金髪に、潤んだ緑の瞳。平民上がりの特待生で、ドジだけど健気で、なぜか王宮のイケメンたちがみんな彼女に惹かれていく。



(私の職場には、こんな分かりやすい「敵」も「味方」もいないな)



ふと、現実の自分のオフィスを思い浮かべる。



ランチを一緒にする美咲は、ああやってゴシップが好きだけれど、私を陥れようとはしない。




たまに無茶振りをしてくる課長も、根は悪い人じゃないことを知っている。



私を目の敵にしてくる人もいなければ、王子様のように守ってくれる人もいない。



良くも悪くも、平坦だ。


だからこそ、かもしれない。


こういう劇薬のような「悪意」と「正義」のぶつかり合いが、今は心地よかった。


物語は進む。



マリアンヌは、王子の糾弾に対し、冷静に反論する。


『お待ちください、王子。私はそのようなこと、一切しておりません。全て、何者かの策略です』


『まだ言い逃れをするか! 見苦しいぞ、マリアンヌ!』


『証拠とは、何ですの?』


王子が突きつけてきた証拠は、どれもこれも曖昧なものばかり。「リリアが泣いているのを見た」という側近の証言。「マリアンヌがリリアを睨んでいた」という噂話。



ーーくだらない、と葵は思う。



けれど、物語の中では、それが「真実」としてまかり通ってしまう。



(分かる、かも)



葵は、先週の出来事を思い出していた。



自分が丁寧に確認して作成したはずの資料に、なぜか古いデータが混入していた。


課長から「佐藤さん、珍しくミスしたね。確認しっかり」と、軽く注意を受けた。



もちろん、すぐに修正した。誰にも迷惑はかけていない、小さなミスだ。



けれど、腑に落ちなかった。



あのデータは、確かに更新したはずなのだ。


おそらく、共有サーバーの同期ミスか、誰かが古いバージョンを上書きしたか。


でも、それを証明する手立てはない。



「すみません、以後気をつけます」と頭を下げるしかない。


(私にだって、言いたいことはある)


マリアンヌほどの理不尽ではない。婚約破棄も、断罪もされない。



けれど、日常の中の小さな「なんで私ばっかり」や「それは違うのに」というモヤモヤは、確かに蓄積されていく。



『……もう、よろしいですわ』



マリアンヌが、ふっと諦めたように微笑んだ。


そして、次の瞬間。


彼女は、きつく結い上げていた銀の髪を、さらり、と解いた。


『――この婚約、謹んでお受けいたします。いいえ、こちらから破棄させていただきますわ、愚かな王子』



(……ん?)



葵は、思わず画面をタップする指を止めた。



予想と違う。



てっきり、ここで泣き崩れるか、あるいは「覚えてなさい!」と悪役らしく退場するかと。



『なっ……愚か、だと!? この私を捕まえて!』



『ええ、愚かですわ。王子、あなたは何も見えていない』



そこからが、この物語の真骨頂だった。



マリアンヌは「悪役令嬢」の仮面を脱ぎ捨て、ここぞとばかりに証拠を突きつけ始めたのだ。



リリアが、いかに「ドジ」を装って自分に近づき、自作自演で被害者を演じていたか。



リリアが、王子の側近たちを(おそらく魔法か何かで)篭絡し、偽りの証言をさせていたか。



そして、極めつけは。


『王子、あなたが横流ししていた、王家の予算。その証拠の写しが、こちらにございますわ』


(ええええ!?)



葵は、思わずベッドの上で身を起こした。



悪役令嬢、強すぎない?


物語は、怒涛の逆転劇に突入した。


マリアンヌは、生真面目な公爵令嬢として振る舞う裏で、第一王子の不正と、リリアの不可解な行動を、ずっと密かに調査していたのだ。



すべては、腐敗した王家と、甘い汁を吸う貴族たちから、この国を守るため。



『そんな……!』


『マリアンヌ、君は……!』


顔面蒼白になる王子と、取り巻きたち。



リリアは「ひどい! そんなの嘘です!」と泣き叫ぶが、マリアンヌが突きつけた完璧な証拠の前では、もはや誰も彼女を信じない。



『すべては、この国の未来のため。……王子、あなたの「愛」ごっこに、国を付き合わせるのはおやめください』

ビシッ、と。



冷たく言い放つマリアンヌ。


ああ、なんて格好いいんだろう。


(……スッキリする)



葵は、自分の口角が上がっていることに気づいた。



そうだ、これだ。



私が求めていたのは



私の日常には、こんな劇的な逆転劇は起こらない。


「サーバーの同期ミスでした!」と高らかに宣言して、課長に「私のミスではありませんでした!」と突きつけることもない。


そんなことをしても、何の得にもならないし、職場の空気が悪くなるだけだ。



大人の対応。



それが、私たちが生きるーー「日常」ーーだ。



けれど、ここでは。


この『小説家になろう』という世界の中では、理不尽は正され、悪は裁かれ、努力は(劇的な形で)報われる。



葵は、夢中になってページをめくった。



婚約破棄を叩きつけたマリアンヌが、パーティー会場を颯爽と去っていく。



そこに、絶妙なタイミングで現れるのが、タイトルにあった



『隣国の皇太子』だ。



『見事だった、マリアンヌ嬢。私の国へ来ないか? 君のような聡明な女性こそ、私の妃にふさわしい』



『まあ、皇太子殿下……!』



(はいはい、ごちそうさまです!)



心の中でツッコミを入れながらも、ニヤニヤが止まらない。



完璧な「ざまぁ」と、完璧な「ハッピーエンド」へのレール。



分かっている。ご都合主義だ。


現実にはあり得ない。


でも、それでいいのだ。


今、この瞬間、私の心を占めていた「何かが足りない」という漠然とした焦燥感や、「今日も一日終わった」という小さな疲労感を、この物語が綺麗に洗い流してくれる。



日中の仕事で溜まった、言葉にできないものが、マリアンヌの「ざまぁ」と一緒に、浄化されていく気がした。



葵は、最新話まで一気に読み終えた。



王子とリリアがどうなったか、マリアンヌが皇太子とどうなったか。




すべて読み終えた時、時計は午前零時半を回っていた。



(あ、やばい。明日も仕事なのに)



慌ててスマホの画面を消す。



けれど、さっきまでの重たい疲労感は、不思議と軽くなっていた。



心なしか、体も温かい。


物語に興奮したせいだろうか。



(私の日常は、明日も変わらない)



明日も、午前六時半前に目が覚めて、同じような朝食をとり、同じような満員電車に乗り、同じようなデスクで、同じような事務作業をこなすのだろう。



劇的な逆転も、私をさらってくれる王子様もいない。



(でも)



葵は、布団を深くかぶり直した。



(でも、あのマリアンヌだって、不正の証拠を集めるために、きっと毎日地道な調査を続けていたんだ)



私の仕事も、あのデータ入力も、契約書の確認も、もしかしたら、どこかで何かの役に立っているのかもしれない。



マリアンヌみたいに、国を救うことはできなくても。



(明日、もし課長に何か言われたら、今度こそ「サーバーの確認、お願いできますか?」って、ちょっとだけ言ってみようかな)



(……いや、やっぱりやめておこう。面倒くさい)




(でも、もし美咲がまた鈴木さんの話をしてきたら、「美咲は鈴木さんのどこが好きなの?」って、もう一歩踏み込んで聞いてみようかな)



小さな、小さな変化。



悪役令嬢の物語が、葵の心に、ほんの少しだけ「明日へ向かうため」の小さな火を灯してくれた。



「……おやすみなさい」



今夜は、ぐっすり眠れそうだ。



スマホを充電器に差し込み、葵は静かに目を閉じた。



ーー私は、私のできることをしていこう。


そして私は明日も頑張るのだ。



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