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黄泉の闇、イザナミとの決戦

東の里は、朝を迎えるはずだった。だが、陽は昇らず、空は濁った黒に覆われていた。


畑は一夜にして枯れ果て、稲は根から腐り落ちた。泉は澱み、漂う空気には死肉のような匂いが満ちていた。生まれたばかりの赤子が呻き声をあげ、老人は胸を押さえて倒れ伏す。――そこにあったのは、生の匂いではなく、黄泉(よみ)の気配そのものだった。


「……イザナミの干渉だわ」


ミカゲは眉をひそめ、胸元に常世鏡(とこよのかがみ)を抱いた。隣でアキツヒコが剣を握りしめる。だが彼の瞳は恐れではなく、決意に揺れていた。


二人は村の中央に進み出る。村人たちは影のようにすがりつき、祈りとも呻きともつかぬ声をもらしていた。


「大丈夫……私たちが来たから」


ミカゲは膝をつき、老人の手を取り、静かに息を合わせる。彼女の呼吸は、村人の乱れた息を落ち着かせるように広がった。アキツヒコも剣を地に突き、深く息を吐く。その光は柔らかく脈打ち、まるで土の底に残された命を呼び起こすようだった。


腐敗の気配が少しずつ退き、赤子の泣き声が弱まり、老人の胸も静かに上下を取り戻す。


「……秩序が戻り始めている」


ミカゲの額に汗がにじむ。アキツヒコも荒い息をつきながら頷いた。しかし、これはほんの一部にすぎなかった。村の外れにはまだ濃い瘴気が渦を巻き、さらに先の里々でも同じ禍が広がりつつある。


「行きましょう、アキツヒコ。これ以上、黄泉の闇に飲まれる前に」


「……うん」


二人は互いに目を合わせ、小さく頷いた。祈りと力をもって、一歩ずつ闇を押し返しながら――黄泉の女神が放った災厄のただ中へ、足を踏み入れていった。


二人は、幾つもの村を巡り歩いた。枯れた畑に祈りを捧げ、赤子を抱いて息を合わせ、倒れ伏した人々の手を取りながら、少しずつ秩序を取り戻していく。だが、癒やしても癒やしても、次の村にはさらに濃い瘴気が待っていた。


「……止まらない。黄泉からの干渉が、日ごとに強くなっている」


ミカゲの声は低く沈んでいた。アキツヒコは剣を杖のように突き立て、息を整えながらも頷いた。彼の剣先に残る光は、まるで瘴気に削られたかのように揺らいでいる。


村人たちの中には、古くから伝わる伝承を語る者もいた。


「山の奥の社が……黒く染まっておる……」

(まつ)りも絶え、誰も近づかなくなった。あれが“(まが)の巣”に違いない」


その言葉に導かれるように、二人は山道を進んだ。


鬱蒼(うっそう)とした木々の間を抜けると、ひっそりと崩れかけた社が姿を現した。鳥居は傾き、石段には苔と黒いしみが絡みついている。境内を覆う空気は異様に重く、風ひとつ吹かぬはずなのに、衣の裾が冷たく揺れる。


「……ここが、瘴気の中心……」


ミカゲは胸に勾玉を押し当て、震えを抑えた。アキツヒコもまた、剣の柄を握る手に力を込める。その瞳には恐怖もあったが、決して退かぬ意志が光っていた。


社の奥からは、低く響く呻きのような音が聞こえてきた。人の声ではない。獣の唸りでもない。それは、黄泉から滲み出した生きてはならぬものの息づかいだった。


「……行きましょう、アキツヒコ」

「うん」


二人は互いに目を合わせ、小さく頷く。背筋を凍らせる気配を押しのけるように、一歩ずつ社の奥へと進み――ついに、禍の心臓へと向かう決意を固めた。


社の奥は、まるで別の世界だった。


石畳は黒くひび割れ、灯火もないのに壁や柱の影が脈打つように揺れている。奥へ進むほど、空気は濃く淀み、吐く息が白く凍るのに、肌は焼けるように熱かった。


「……ここが、黄泉の口か……」


ミカゲは鏡を胸に抱え、声を震わせながらも視線を逸らさなかった。アキツヒコも剣を構え、足を止めずに進む。彼の背筋には冷たい汗が流れていたが、その瞳はただ一つの存在を捉えていた。


やがて、最奥に辿り着いた時――


そこには、瘴気の海が渦を巻いていた。赤黒く濁った霧が渦を作り、その中心に、ひとりの影が浮かび上がる。白く長い髪は途切れ途切れに乱れ、衣は朽ち果てて地に垂れ下がっている。しかし、その顔立ちだけは、かつて神であった威容をかすかに留めていた。だが、その目は――もはや人も神も映さない。ただ、尽きぬ憤怒と、黄泉に沈んだ死者の怨念を湛えていた。


「……イザナミ……」


ミカゲが呟いたその名は、空気に溶けて掻き消えた。


彼女は応えない。

ただ、その眼差しだけで二人を射抜いた。


その瞬間、空気が砕けるような圧が襲いかかる。

言葉は届かない。祈りも届かない。


ただそこに在るだけで、存在そのものが呪詛(じゅそ)となる圧倒的な力――かつて「母なる神」と呼ばれたはずの姿は、いまや“死と憤怒の化身”に変わり果てていた。アキツヒコは思わず剣を強く握りしめる。だがその手の震えを、力で押さえ込むことしかできなかった。


「……っ……」


二人は声も出せず、ただ息を飲み込んだ。


黄泉の君――イザナミ。


その存在感は、光も影も拒むように社の奥を満たし、二人の前に立ちはだかっていた。イザナミの影が、赤黒い瘴気をまとい、(うごめ)く腕を伸ばしてきた。それは実体を持たぬはずなのに、振り下ろされれば空気そのものが裂け、地を抉る。


「うああああっ!」


アキツヒコは叫び、剣を振り抜いた。


月光命剣(げっこうのつるぎ)の刃は確かに輝きを放ち、霧を裂く。だが、その先には厚く淀んだ霊瘴(れいしょう)の壁があった。刃は触れるたびに火花のような光を散らしながらも、核心には届かない。振るえば振るほど、剣は空を切り、力は削がれていく。


「くっ……!」


膝を崩しそうになる身体を、アキツヒコは必死に踏みとどめた。その瞬間、頭上から黒い瘴気の奔流が襲いかかる。まるで天井そのものが落ちてくるかのような圧力。


「アキツヒコ!」


ミカゲの声が響く。彼女は咄嗟に鏡を掲げた。常世鏡の表面に白光が走り、迫り来る闇を受け止める。だが、鏡は悲鳴をあげるように震え、裂け目が走りかけた。


「……もって……!」


ミカゲは歯を食いしばり、さらに胸の月陰勾玉(つきかげのまがたま)に祈りを込める。淡い光が彼女の掌から流れ、鏡の亀裂を一瞬だけ覆った。光と影が重なり、辛うじて瘴気の奔流を受け流す。


「助かった……!」


アキツヒコは叫び、再び剣を振り上げる。彼はイザナミの腕へと突撃した。刃は光を撒き散らしながら、虚空を斬り裂く。しかし、影の身体は斬られても再び集い、まるで嘲笑うように形を保ち続ける。


「なんで……届かないんだ!」


叫びと共に剣を振るい続けるが、その度に霊瘴の反撃が襲い、彼の身体は削られていく。


ミカゲも必死に援護を続けた。鏡で闇を反射させ、勾玉からは祈りの波紋を広げて、アキツヒコの足場を支える。しかし、その光はことごとく濁流に呑まれ、瞬く間に霞んでいった。イザナミの目が、ふたりを射抜く。その視線ひとつで、血が凍りつくような圧が全身を貫いた。


「ぐっ……!」


アキツヒコは胸を押さえ、膝をつきかける。ミカゲもまた、鏡を抱えながら地に倒れ込みそうになる。瘴気は止まらない。押し寄せる波はさらに濃く、重く、息を吸うことすら困難にしていく。


「まだ……だ……!」


アキツヒコは歯を食いしばり、地を蹴って立ち上がった。その姿は震えていたが、瞳だけは燃えるように光を宿していた。


「諦めない……!」


ミカゲもまた、鏡を掲げて彼の背を照らす。その声はかすれていたが、確かな意志の響きを持っていた。


――だが、二人の力は、なおも圧倒的な闇を持つイザナミの前に届かない。


次の瞬間、瘴気の奔流がふたりを押し潰すように襲いかかり、二人はついに地に膝をついた。赤黒い瘴気が渦を巻き、二人を呑み込もうと迫った。その濁流は、もはや大地そのものを飲み崩すかのような圧力だった。


「……ここまでなの……?」


ミカゲは胸に抱いた勾玉を強く握りしめる。刹那、イザナミの影が腕を振り下ろした。


「ミカゲ!」


アキツヒコが叫び、剣を構える。

だがその刃が触れるよりも早く、瘴気の奔流が襲いかかる。


ミカゲは祈るように勾玉を掲げた。

光の波紋が広がり、闇と衝突する。


――砕け散る音がした。


「……っ!」


勾玉に走った(ひび)が、一瞬で全体を覆う。

次の瞬間、月陰勾玉は粉々に砕け散り、白い光の粒となって消え去った。


「ミカゲ!」


アキツヒコが駆け寄る。彼女の手の中にはもう、ツクヨミの力を宿した勾玉はない。ただ砕けた欠片が指先を滑り落ちていくばかりだった。


「……これ以上は、防げない……」


ミカゲの唇が震える。残された鏡ひとつでは、イザナミの猛攻を受け止めることは叶わない。瘴気が再び迫る。二人の視界を黒が覆い尽くし、もはや光の欠片すら残らぬかと思えたその時――


天空が裂けた。


凄烈な閃光が降り注ぎ、闇を押し返す。その輝きは、昼の太陽すら掻き消すほどの強大な光だった。


「……アマテラス様……!」


ミカゲが息を呑む。眩い女神の姿が降臨した。黄金の衣をまとい、その手に持つ光は瘴気を裂き、イザナミの影をひるませる。


「退きなさい、黄泉の君よ。ここはまだ生の世です」


その声は雷鳴のように響き渡り、闇を一瞬震えさせた。だが、イザナミは(うめ)くように笑った。


「……光よ。おまえに拒まれたこの身、いまさら退(しりぞ)けることはできぬ……」


光と闇が激突し、社の奥が震動する。その隙間を裂くように、轟音が轟いた。嵐をまとい、荒ぶる神が降り立つ。


「やれやれ、間に合ったか。姉上だけでは荷が重いだろう?」


乱れた髪を(ひるがえ)し、剛剣を肩に担ぐのは、荒神スサノオ。大地を揺るがす一閃が振るわれる。吹き荒れる嵐が瘴気を切り裂き、イザナミの影を後退させた。


「……スサノオ様……!」


アキツヒコは目を見開く。アマテラスの光とスサノオの嵐――二柱の力が合わさり、イザナミの猛攻は一時的に封じられた。しかし、黄泉の君は決して退かない。崩れ落ちたはずの瘴気が再び渦を巻き、赤黒い影となって立ち上がる。


「……まだ、終わらぬ……」


アマテラスとスサノオの力をもってしても、イザナミへの決定打には至らない。逆にイザナミの瘴気が、アマテラスとスサノオを捉え始めていた。そして光と嵐に守られながら、アキツヒコとミカゲは息を荒げ、再び立ち上がり、互いの瞳を見つめた。絶体絶命の戦場に――まだ終わらぬ決戦の気配が渦巻いていた。


「……ミカゲ」

「……アキツヒコ」


呼びかけただけで、互いの胸に去来(きょらい)するものは伝わっていた。これまで旅の中で積み重ねてきた祈りと誓い。剣と鏡に宿る思念。すべてが、今この瞬間のためにあった。


常世鏡は淡く揺らぎ、月陰勾玉を失った胸に残された光を呼び覚ます。月光命剣は、刃の奥から静かに脈動し、持ち主の覚悟を待っているかのように震えていた。


「ここで終わらせる」


アキツヒコの声は震えていたが、そこに迷いはなかった。ミカゲも深くうなずく。


「私たちのすべてを、この一瞬に込めましょう」


その二人の決意を見て、アマテラスが眉を曇らせる。


「……そんなことをすれば、あなたたちは本当に消え去ってしまいますよ」


警告の声は、母のように優しく、それでいて必死だった。スサノオも、剛腕を振るいながら叫ぶ。


「お前たちはよくやった!もう十分だ!後は俺様に任せろ!お前らだけに責任を押し付ける気はねぇよ!」


だが二人は、その言葉に揺らがなかった。彼らの視線は、光と嵐をもってしても削られ、苦悶の影を帯びつつある二柱の姿を映していた。


「……アマテラス様も、スサノオ様も……このままではもちません」


ミカゲの声は震えながらも、静かな確信を帯びていた。アキツヒコもまた、剣を握りしめ、必死に立ち上がる。


「ここが……僕たちが生まれた意味なんです。“代わり”としてじゃない……“ここで終わらせるため”に」


アマテラスの目が揺れ、スサノオは歯を食いしばった。それでも二人の決意は揺るがず、むしろ炎のように強く燃え上がっていく。


「……行こう、ミカゲ」

「ええ、アキツヒコ」


互いの瞳を見つめ合い、静かに頷いた瞬間――神具はまばゆい光を帯び、二人の命と祈りを吸い上げるように輝きを増していった。この身が消えようとも構わない。すべてを賭して、黄泉の闇を押し返す。その覚悟を胸に、二人は最後の一歩を踏み出した。


アキツヒコの手に握られた月光命剣が、淡い蒼白の輝きを放つ。その刃は、持ち主の命を糧にするかのように脈動し、次の一撃を求めていた。


ミカゲの胸元に抱かれる常世鏡もまた、砕けた勾玉の残光を吸い込み、かつてない光を宿していく。それはただの神具の輝きではない――ふたりの祈り、絆、そしてすべてを賭ける覚悟が込められた光だった。


「……今だ、ミカゲ!」

「ええ――!」


アキツヒコは全身の力を込め、剣を振り下ろす。

同時にミカゲは鏡を天に掲げ、封印の光を放つ。

その瞬間、剣と鏡の輝きが重なり合った。


二つの力は渦を巻き、やがて一条の巨大な閃光となって闇を貫いた。

光は社を震わせ、黄泉の瘴気を裂き、イザナミの影を直撃する。


「……――ッ!」


イザナミが呻き声をあげる。

その身を覆う死と怨念の瘴気が、光に焼かれ、崩れていく。


閃光はただの斬撃ではなかった。

それは封印の結界――黄泉への帰還を促す、最後の鎖だった。


赤黒い霧が千々(ちぢ)に裂け、影は抗いながらも後退する。

足元からは次々と光の鎖が伸び、イザナミを絡め取っていく。


「やめよ……我は……まだ……!」


その声は、かつての女神のものではなかった。

怨念に濁り、ただ恐怖と憎悪に満ちた叫びだった。


「――還ってください。黄泉の国へ」


ミカゲの祈りが重なり、アキツヒコの剣が最後の一閃を放つ。光は奔流となってイザナミを包み込み、社の奥へ、黄泉の深淵へと押し返していった。やがて響く轟音と共に、結界は閉ざされた。闇は散り、空気を覆っていた瘴気も、嘘のように静かに消えていく。


――残されたのは、荒い息を吐く二人の姿だけ。


アキツヒコは膝をつき、剣を支えにして倒れ込む。

ミカゲもまた、鏡を抱えながら地に座り込み、息を切らしていた。


その光景を見て、アマテラスは深く頷いた。


「……よく、やり遂げました」


その声は涙を含んだように震えていた。


隣でスサノオも、肩で息をしながら笑う。


「お前ら……立派な神だぜ。俺様が認めてやる」


二柱の大神(おおかみ)すら満身創痍。だが、確かにイザナミの影は封じられ、今は静かな安らぎが社に戻っていた。黄泉の闇は退き、空は静かに凪いでいた。夜のように覆っていた瘴気は晴れ、遠い山並みを越えて、淡い朝の光が差し込んでくる。冷え切っていた大地も、少しずつ温もりを取り戻していた。


アキツヒコの手にあった月光命剣は、白い灰となって崩れ落ちた。ミカゲの胸に抱かれていた常世鏡も、ふっと光を失い、ただの曇った鏡へと変わった。


「……これで、終わったんだな」


アキツヒコが震える声で呟く。ミカゲは静かに頷き、だがその瞳は哀しげだった。神具の輝きが消えたということは――彼ら自身の神性もまた、尽き果てていくことを意味していたからだ。


二人は(おもむろ)に手を伸ばし、互いの指先に触れる。その瞬間、体から光が零れ、意識が遠のいていくのを感じた。


――消える。


だが、その時。アマテラスが両の手を差し伸べ、柔らかな光で二人を包み込んだ。


「あなたたちは本来、ここで消え去るはずでした……けれど、あまりに哀れです」


その声は優しく、涙を含んでいた。


スサノオも、肩を揺らしながら苦く笑った。


「よくやったじゃねぇか。これで全部忘れちまうなんて、もったいねぇ話だ」


アマテラスは光を強める。


「神としての記憶は戻らぬでしょう。それでも――人としてなら、生き続けられます」


二人の身体を包んでいた神性の光が、静かに変質していく。鋭い輝きは淡く溶け、血肉と鼓動を持つ温かな人の形へと再び編まれていった。やがて光が消え、そこに残されたのは、ただの一組の若者。互いに寄り添い、息を合わせ、目を開いたとき――もう神としての記憶はなかった。


ただ、心の奥に残る温もりだけが、二人を結んでいた。


アマテラスはその姿を見届け、微笑む。


「イザナミが関わった件……この出来事は神話に記すことはできません。けれど――私たちは決して、あなたたちの活躍を忘れません」


スサノオも大きく頷いた。


「お前らは立派だった。これから先も胸を張って生きていけ…人としてな。……じゃあな」


二柱の姿は、朝の光に溶けるように消えていった。残されたのは、柔らかな風と、新しい朝。アキツヒコとミカゲは互いに肩を寄せ合い、ただ人として、その光を受け止めた。


そして二人とも、徐々に意識が遠のいていった。


****


目を開けると、木の天井があった。かすかな藁の匂いと、焚き火の温もりが漂っている。アキツヒコはしばらく瞬きを繰り返し、自分がどこにいるのかを確かめようとした。身体は鉛のように重く、胸の奥には言葉にできない空白が広がっている。


隣から、柔らかな息遣いが聞こえた。視線を向ければ、布団に横たわるミカゲの姿がある。頬は少し青ざめていたが、その胸は静かに上下していた。


戸口のほうから足音がして、村の女が木椀を手に入ってきた。


「気がついたのね。もう三日も眠り続けていたのよ」


その声は安堵を帯びていた。差し出された水を口に含むと、冷たさが喉を滑り落ちていった。確かな生の感触――だが、自分が何者だったかは、どうしても思い出せない。ふと、胸の奥に微かな響きがよぎる。名も形も持たぬ、けれど確かに「大切なものを果たした」という感覚。それは夢のように曖昧で、しかし心の奥を温める火のように消えなかった。


アキツヒコは隣に眠るミカゲの手をそっと握った。彼女もまた薄く瞼を開き、弱々しくも微笑んだ。互いに名前を呼び合う。それだけで、何かが確かに繋がっていると感じられた。神であった記憶は、もうどこにも残されていない。それでも――二人の心に残る温もりだけが、確かな答えとして息づいていた。


村に留まることを許された二人は、ほどなくして人々の暮らしに加わった。最初はぎこちなかった。鍬を握る手に豆をつくり、水を汲む桶の重さに肩を落とす。けれど、日々を重ねるごとに動作は馴染み、土の匂いと汗のしずくは彼らの肌に新しい記憶を刻んでいった。


春には畑を耕し、夏には水を引き、秋には稲穂を束ねる。冬の夜は囲炉裏を囲み、村人と共に歌を口ずさんだ。互いに支え合う姿は自然で、いつしかアキツヒコはミカゲを伴侶として迎え入れられることとなった。


やがて子が生まれた。小さな命を抱くと、胸の奥に言葉にできぬ温もりが広がった。揺り籠の中で眠る顔を見つめながら、二人は無意識のうちに微笑みを交わした。


季節が巡るうちに、村にはひとつの物語が語り継がれるようになった。――昔、この地に「光」と「影」の二柱の神が現れ、黄泉の闇を退け、村を護ったのだと。けれど、その名を知る者はいない。どのような姿であったかも定かではない。ただ人々は「光と影」という言葉を象徴として受け継ぎ、祈りの折に口にするようになった。


山裾の祠には、古びた石碑がひっそりと立っている。苔に覆われたその面には、淡く「光」と「影」を象るような文様が刻まれていた。誰が彫ったのかも知られず、ただ村人たちはそこに供物を捧げ、静かに手を合わせる。


また、村祭りで子どもたちが歌う古い唄には、わずかな名残が宿っていた。「光は種を育み、影は休息を与える」――素朴な旋律とともに繰り返されるその言葉は、神の名を忘れた世においても、なお確かな温もりを響かせていた。


**


ある夏の夜。虫の声が響く縁側で、子どもたちが寝物語をしていた。その中のひとりが、不意に声をあげる。


「ねぇ、ぼく、夢で光と影の神さまに会ったんだ」


幼い声に、大人たちは顔を見合わせ、やがてくすりと笑った。


「きっとご先祖さまが守ってくれているんだろうな」

「そうそう。畑が実り、みんな元気でいられるのも、そのおかげさ」


笑い混じりの言葉に、子どもも一緒になって頷いた。

けれど、その瞳の奥には、まだ消えない光が宿っていた。


夢の中で見たのは、眩しい光と、優しい影。

名前も声も思い出せないけれど、確かに寄り添って立つ二つの姿。


その気配は、朝露のように淡くとも、子どもの心にいつまでも残っていた。


夜明けの光が山を越え、村を淡く照らし始める。小鳥のさえずりとともに、眠りから目覚めた大地は、ゆるやかな息吹を返していた。アキツヒコとミカゲは、家の前に並び立ち、畑を見つめていた。霧が薄らぎ、若い苗が朝露を抱いて輝いている。二人は言葉もなく、その光景を分かち合った。


やがてアキツヒコが鍬を担ぎ、ミカゲは袖をまくる。

その背に、柔らかな朝日が差し込んだ。


誰も知らない。彼らがかつて神であったことを。

村に残るのは、ただ「光と影」の伝承だけ。


だが、手を取り合い、生きる喜びを重ねていけるなら――それで充分なのだ。


語りの声が、朝の風に溶けていく。


――神であったことなど、もう誰も知らない。

だが、それで良いのだ。


「影より生まれし光」の最終話までお付き合いいただきありがとうございました。この話は、古事記 異譚記シリーズの最初の話になります。このシリーズは、このような短編を幾つか投稿する予定ですので(不定期な投稿になると思いますが)、他の話が投稿された際は、またお楽しみいただけると幸いです。


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