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鏡と勾玉の覚醒

旅の朝は、思いのほかやわらかな風で始まった。


アキツヒコとミカゲは、野を抜け、小道をたどり、山のふもとにある静かな里へと足を運んでいた。そこは地図にも記されていない、ひっそりとした集落。だが、どこか祈りの香りが残っている場所だった。


「……この地、かつては巫女の里だったのかもしれません」


ミカゲがふとつぶやいた。風に揺れる草の音、石積みの古道、そして山に向かって並ぶ朽ちた鳥居。すべてが、そう語っているように思えた。そこへ、ひとりの老婆が現れた。背は小さく、腰は曲がっていたが、瞳はまるで泉の底のように深く澄んでいる。


「……影の御子と、光の御子。ようやく、来たのですね」


老婆はまるで、二人が来ることを知っていたかのように語り、ゆっくりと歩き出した。言葉もなく、ミカゲとアキツヒコはその背を追った。案内された先は、森の奥にひっそりと隠された霊泉だった。水は底が見えるほど透き通り、泉の周囲には無数の石碑が並んでいた。祈りを刻んだ古の神々への供物の跡だろう。


老婆が泉の縁に立ち、手を合わせる。


「ここは、神と人が魂を交わした場所。水の巫女たちは、ここで祈り、願い、時に涙した。そして、その想いの結晶が、いまも泉の奥に眠っておる」


ミカゲは泉を見つめた。そこに広がっていたのは、静けさ――しかし、ただの静寂ではない。語られぬ想い、捧げられた願い、時を超えた魂の声が、確かに水面に漂っていた。


そのとき、泉の底から、ひとつの光が立ち上がるように浮かんできた。


それは、小さな勾玉(まがたま)だった。


淡い光を帯び、ミカゲの前に、まるで「あなたのもとへ」と言わんばかりに浮かび上がってくる。アキツヒコが無言で一歩引いた。ミカゲは胸に手を当てて、泉に歩み寄る。


「……私の声が、あなたに届いたのでしょうか」


そうささやきながら手を伸ばすと、勾玉はすっと彼女の掌に収まった。冷たく、そしてほんのり温かい。


――魂が、触れた。


そんな感覚だった。


老婆は微笑んだ。


「その勾玉は、祈りの象徴。影として生まれしあなたが、それを持つことに、意味があるのでしょう」


ミカゲは静かに頷き、胸元に勾玉を納めた。風が、泉の上を吹き抜け、ひとつの祈りが形となって旅立ったようだった。


そしてふたりの旅も、再び歩みを始める。

勾玉はまだ、すべてを語らない。

だがそれは、魂と魂をつなぐ“鍵”になるだろう――

そう、ミカゲは感じていた。


勾玉を得てから、ふたりの足取りはどこか軽やかだった。


泉の祈りが胸に宿ったからか、それとも、霊泉に込められた想いが背中を押してくれているのか。小高い丘を越え、木々の合間に細い道を見つけたとき、ミカゲの足がふと止まる。


「……この道、妙に懐かしい気がします」


アキツヒコも小さく頷く。何かに導かれるように、ふたりは無言でその小径(こみち)を進んだ。道の終わりに現れたのは、ひとつの(やしろ)。とはいえ、それはもう社と呼ぶにはあまりに崩れ、朽ちていた。柱は倒れ、屋根は半ば落ち、草が祠の奥まで生い茂っている。だが、奇妙なことに――この地には、一切の“光”が射し込んでいなかった。


雲間から差す陽光さえも、社の敷地を避けるようにして届かない。まるでここだけ、夜の(とばり)に覆われたような世界。


「……ここは、“影の神”を祀った社かもしれない」


ミカゲはつぶやいた。確信のように、懐かしさのように。


その言葉に、アキツヒコが静かに頷く。


「影……?」


「光がなければ、影もない。でも、光が強ければ強いほど、影も深くなる。きっと、この場所は……そんな存在を、誰かが忘れずに祀った場所」


ふたりは静かに社の奥、本殿へと足を踏み入れた。


中は、想像以上に冷たく、しんとした空気が漂っていた。誰も祈らず、誰にも触れられず、ただただそこに在り続けてきた気配。ミカゲは、本殿の奥――石の台座に目を留めた。


そこに、ひとつの鏡が置かれていた。


土と埃に埋もれていたが、手を伸ばし、ゆっくりと拭うと――鏡面が、わずかに光を返す。写ったのは、自分自身の顔。けれど、その鏡に映る自分は、どこか違って見えた。目元の揺らぎ、口元の微笑。まるで本当の自分が、そこにだけ映っているようだった。


アキツヒコがそっと近づくと、鏡がふっと淡く光を帯び始める。それは、眩しさではなく――まるで月明かりのような、柔らかで静かな光だった。


「……これは、私の影を映す鏡。でも、影の中にも……光はあるのね」


ミカゲはその光に手を重ねた。鏡の中の自分が、彼女に微笑んだ気がした。


――影が光を支える。


そう思えた瞬間、鏡の中でまた光が揺れた。


「ミカゲ」


名を呼んだのは、アキツヒコ。だがその声は、不安でも問いでもなく――信じるという温かさを帯びていた。ミカゲは小さく笑い、鏡をそっと抱えた。


「この鏡、きっと私の道を照らしてくれる。……影としてじゃなく、影だからこそ」


そう告げた彼女の横顔に、確かに微かな光が差していた。


**


ふたりは、再び同じ道を戻っていた。


それは、以前に立ち寄った小さな山あいの村――水の巫女の霊泉へと向かう前、彼らがひとときの休息を取った、穏やかな集落だった。その村へ足を運んだのは、何かが引き寄せているような感覚があったから。けれど、村の空気は――以前とはまるで違っていた。


風が、止まっていた。


鳥も虫も鳴かず、畑の作物は萎れていた。空は灰色に濁り、雲は蠢くように低く垂れ込めている。


「……これは、(まが)の気配」


ミカゲの声は、わずかに震えていた。アキツヒコも唇を噛みしめながら、無言で頷く。村に入ってすぐ、彼らはそれを目にした。


社の前、割れた石の鳥居の根元に、黒く脈打つ影があった。それは人の形でも、獣の姿でもない。何か“意思を持った瘴気”のような存在。地を這い、空を裂き、そして――声を発した。


「……やっと、見つけた」


低く、濁った声が、空気を震わせた。


「光の雫。影の器。おまえたちが滲ませたこの隙間から……私は生まれた」


その瞬間、空が割れた。雷でも風でもない、“黒い裂け目”のようなものが村の空に現れ、そこから(まが)が姿を現した。それは、触れるものすべてを穢すような存在。人でも神でもなく、ただ存在してはならぬもの。


アキツヒコが剣を構え、ミカゲは鏡を握りしめた。


「……これが(まが)の核。私たちが止めなければ」


「うん」


返事をしたアキツヒコの声は、確かに強かった。けれどその背中には、微かに迷いの影が揺れていた。そしてここには――まだ、村人の気配があった。


このままでは、誰も無事ではいられない。


「影も、光も……役目を終えた者のはずだった。けれど――」


ミカゲが囁いた。


「それでも、私たちがここにいるなら――」


その言葉に導かれるように、禍の核が、笑った。


「では――証明してみろ。おまえたちが“不要ではない”ということをな」


地が震え、(まが)瘴気(しょうき)が村を包み込んだ。


戦いの幕が、静かに上がる。


今や禍の核はその全貌を現わしていた。その姿は漆黒の憤怒。空気が震え、地が畏縮するような重圧に、村の人々は小径(こみち)の奥へと逃げ込んでいく。


アキツヒコは、剣の柄に手をかけた。光を反映し、震えるその刃の先にある物は、かつて自分が生み出してしまったもの――それが、迷いとなって重くのしかかる。ミカゲは鏡をしっかりと握り、勾玉を胸に収めた。その眼差しには、不安と共に覚悟が浮かぶ。だが、心のどこかで、まだ信じきれていない自分もいた。


「行くよ、アキツヒコ……」


ミカゲの声は静かだったが、一緒に立つことを伝える強い決意が込められていた。


アキツヒコは少し俯いた後、ただ一言だけ――


「うん」


その短い返事が、彼らの戦線を固めた。禍の核は、黒煙のように空間に広がり、禍々しい腕を伸ばしてくる。アキツヒコが剣を振り下ろす。刃は風を切るが、禍の核には跳ね返され、衝撃波となって彼を押し返す。


同時に、ミカゲが鏡を掲げて祈りを込める。光は出る――けれど、ほんの一瞬の輝きだった。鏡は白く霞み、反射は闇に溶けていく。


「……まだ、届かない」


そう、ミカゲはつぶやいた。その胸には、無力感と焦燥が押し寄せる。アキツヒコは再び剣を構えたが、刃が震える。力はあるが、それは制御するものではなく、暴走を待つ爆弾のように自分の手の中で暴れそうだった。


「……アキツヒコ、だいじょうぶ?」


ミカゲの声に、彼は応えなかった。ただ、深く息を吸い、震える肩を震わせている。禍の核はゆっくりと近づく――そこには勝算が見えない。二人の武具は、切り崩すどころか、禍の忌まわしい力を深めるばかりに感じられた。


剣も鏡も、光も影も、すべてがむなしい跡のように思われた――

その時。


アキツヒコの胸の奥で、何かが震えた。それは、まだ言葉にはならないけれど、確かに何かが解放されようとしていた。だがその力は、まだ制御できない。それが暴走すれば、すべては崩壊する――。ふたりの世界が、今まさに、崩れ落ちようとしていた。


禍との激しい衝突のさなか、アキツヒコの意識は静かに引き裂かれた。


刃を握る手の震え。鏡と勾玉の光は揺らぎ、二人の周囲には、終わりを告げるような重い沈黙が広がる。その瞬間――音ではなく、声があった。広く、深い暗闇の奥から、夜そのものが告げるような、低く穏やかな響きだった。


「おまえは、創られし光…しかし、滅びの光ではない。」


その声に、アキツヒコの剣が光を帯び、刃先に月の静かな気配が宿る。口を開くことも忘れていただろう。だが、彼の奥底に確かな真実が触れたのがわかった。


声は再びざわめくように続いた。


「おまえは、失われたものの代替ではない。やがて、本来の光となる存在だ。」


闇が震え、空が揺れた気がした。それはまるで、夜の主――が語りかけているかのようだった。アキツヒコの胸には、迷いでも恐れでもない――覚悟という光が、静かに灯っていた。


その光は、ミカゲの鏡にも反射し、二人の神具を淡く照らす。


一瞬の沈黙の後、アキツヒコは口を開いた。


「…私は……“光”なのですね?」


声は震えていたが、そこに戸惑いはなかった。

その瞳には、やっと気づいた自分自身を受け入れる強さが宿っていた。


ミカゲはアキツヒコの変化を感じながら、ゆっくりと頷いた。


夜の闇は一層深くなったが、二人の間には確かな導きが満ちていた。


そして、その導きを送ったのは――遠く夜空に輝くだけでなく、この世界を静かに見つめ、触れることなく守る存在、月詠命(ツクヨミ)だったのだった。


アキツヒコの中で、何かが目覚めたようだった。その瞬間、剣の刃が月光を宿すかのごとく鮮やかに輝き出す。漆黒の闇を切り裂くような、清廉で、凛とした光だった。ミカゲはその光に照らされ、鏡と勾玉を掲げた。鏡は闇の中の真実を映し出す灯台となり、勾玉は水のように広く深く力を共鳴させた。


(闇に焦らず、光を見据えて――)


アキツヒコは一瞬、意識を研ぎ澄ませた。

そして――剣を振り下ろす。


一閃(いっせん)は凍るほどの冷たさを持って禍の核にぶつかった。“禍の意志”は光の直撃を受けて砕かれ、漆黒の瘴気が砕け散る。その衝撃で空気が激しく震動し、闇が割け、禍の核はまるで雲のように消えていった。


ミカゲの鏡は、禍の本質を映し出したまま、崩れゆく影を静かに見送る。そこに残ったのは、村を覆いし黒い魂の欠片――それすらも、光の確かさに溶けていった。アキツヒコは剣を杖のようにして膝から崩れ落ちそうになったが、ミカゲが体を支え、二人は互いに視線を交わした。


(今の光は、ただの力じゃない……共鳴だ)


その瞬間、闇を断っただけの勝利ではなく、二人が“共に立つ覚悟”を得たのだと、ミカゲもまた感じていた。ふたりの目には、もはや迷いや疑いはなかった。


アキツヒコとミカゲが力を収めた刹那、夜空全体がざらりと震えた。二人の一撃で禍の核は消え去った――かに見えた。しかし、闇が完全に消えたわけではなかった。 (まが)(あと)が、最後の声を吐き出すように響いた。


「我のような小物に夢中になるとは……人の世は、もう終わりだ」


その声音は、消えかけた影の奥から湧いてきたようにかすれ、まるで夜風に(つぶや)かれる呪詛(じゅそ)のようだった。アキツヒコは剣を鞘に収めようとしたが、手が震えてままならない。ミカゲの鏡は、膝の上で淡く光を帯びたまま、情景を映し出し続けている。


ふたりの瞳が夜空を見上げた。そこには、裂け目のような黒い(かげ)が浮かび上がり、世界のしわを()いた。


「なに……あの巨大な(まが)の気配…」


ミカゲの唇が震える。だが、その瞳には、更なる戦いを覚悟した決意の火が灯っていた。


空に開いた闇は、禍の核以上に根深く太い影を帯びていた。地上へ、もっと深く、もっと恐ろしい禍が侵食しつつあることを、ふたりの心は直感で感じていた。


その時、風が止み、月明かりがわずかに陽炎のように揺れた。その一瞬、周囲の世界に余韻のような静けさが満ちた。そして不意に、夜空が裂けるかのようにひらいた。裂け目からは鮮やかな月光の道が空へと延び、漆黒にまみれた世界が一瞬にして透き通ったように見えた。周囲の闇がその光にひれ伏すように揺れ、夜の静寂に、遠い歌声のような呼び声が響いた。


「来たれ、夜の奥底へ――」


その声は耳には残らなかった。だが、心の奥深くに直接触れるような確かな軌跡を刻んでいった。アキツヒコがミカゲの肩に静かに手を置く。わずかに震えるその手には、迷いではなく、共に進む覚悟が宿っていた。


ミカゲはその手に微笑みながら手を重ねる。

そして囁いた。


「私たち、行きましょう。この光が示した道へ。」


澄んだ月光が二人を包む。

空に開いた道は、そのまま夜の世界へと誘う門のようだった。


戦いはいま終わったばかりだ。しかし、真の試練はこれから。“禍の影”の核心へと近づくための、新たな旅が幕を開けようとしていた。


そう……二人は再び歩き始める。

今度は夜の世界へと──。

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