境の地を越えて
東の空が、ゆっくりと白み始めていた。夜と朝の狭間――それは、光と影の境界にも似て、どちらにも属さない時間。無名の泉の水面は、まだ静かに眠っている。だが、そのほとりには、もう“終わり”ではなく“始まり”の気配が漂っていた。
ミカゲは、そっとその場に立ち尽くしていた。衣の裾を風が撫でる。冷たくもなく、どこか背中を押すような、柔らかな空気。
「……朝ですね」
独りごとのように呟いた声に、すぐ後ろで気配が応えた。
アキツヒコが、まだ不慣れな手つきで小さな包みを抱えていた。ミカゲが用意した、旅の道具と最低限の食糧。彼にとってはすべてが初めてのことだ。だが、その目には迷いがなかった。昨日までの“言葉なき存在”は、今では確かに“意志を持つ少年”として立っている。
ミカゲは、ふっと笑った。
「荷物を持つのも上手になりましたね」
アキツヒコは照れたようにうなずき、ほんの少し得意げに背筋を伸ばした。それを見て、ミカゲの胸の奥に、あたたかなものが灯る。この少年と共に歩むということが、もう当たり前のことのように思え始めている。神使は、泉の端に静かにまだ立っていた。その白い羽は、朝露を受けて光を弾いている。そしてミカゲに呼びかけた。
「……ここから先は、“記録の外側”です」
ミカゲが振り返り、真っ直ぐにその声に応える。
「わかっています」
目指す先は、禍の兆しが見え始めた土地――
かつて神々に祀られながら、忘れ去られた神域たち。
記されなかった祈り。
誰にも語られなくなった場所。
そして、そこに根を張り始めた“目に見えぬ禍”。
「私たちにしか踏み入れられないのなら、私たちが行くしかない」
ミカゲは静かに言った。
それは自責ではない。
ただ、そうあるべきと受け入れた者の言葉だった。
アキツヒコもまた、ゆっくりとうなずいた。
名を持たぬ存在として生まれ、
言葉も祈りも知らずに生きてきた彼が、
いま、誰かを守るために“歩き始める”決意を持っていた。
神使は、羽をふわりと揺らし、
無言のまま空へ舞い上がった。
その姿が小さくなっていくのを見送りながら、
ミカゲとアキツヒコは、ついに足を踏み出した。
神に記されず、人にも忘れられた存在が――
人の世の秩序を守るための旅を始める。
夜の名残がわずかに残る空の下、二つの影が、草を踏みしめて進んでゆく。
旅を始めて三日目の夕刻――
二人は最初の目的地、「水の巫女の霊地」へと辿り着いた。
その地は山深く、かつては神々への祈りを捧げるために人々が訪れた場所だったという。今では道も絶たれ、鳥も鳴かぬほどの静けさが森を包んでいる。
「……ここです」
ミカゲは立ち止まり、前方に目を凝らした。
苔むした石段の先に、朽ちかけた古い祠がぽつりと佇んでいた。屋根は一部崩れ、柱は苔に覆われていたが、それでもどこか神聖な空気を纏っていた。アキツヒコが石段を指さして首をかしげる。
「……オ、イノリ?」
ミカゲはふと笑い、小さくうなずいた。
「ええ。ここは昔、人々が“水の巫女”に祈りを捧げた場所。雨が欲しいとき、病が癒えることを願うとき――人は見えぬ神に、心を込めて祈ったのです」
アキツヒコはその言葉に耳を傾けながら、足元に落ちた落葉をそっと踏みしめた。
祠の奥、かつて神事が行われたであろう拝殿のさらに裏手に、ひとつの泉が眠るように湛えられていた。その水は、まるで時の流れを拒むように静まり返り、水面には一枚の枯葉すら浮かんでいない。ミカゲは泉の前に膝をつき、手を合わせた。アキツヒコも、見様見真似で手を合わせて座る。
その瞬間――
風もなく、音もなく、水面がひとしずく波紋を広げた。
「……来ましたね」
どこからともなく、声がした。
けれど、それは耳に届く音ではない。
胸の奥に、そっと触れてくるような気配の声。
泉の中央に、淡く白い光が灯った。
やがてそれは、ひとりの女性の姿を成した。
白衣をまとい、髪は長く、目元はどこか寂しげで――
それでいて、全てを包むような静かな微笑をたたえていた。
「……この地を、忘れずに訪れた者が、いたのですね」
ミカゲは、そっと息をのんだ。
「あなたが、“水の巫女”……?」
光の巫女はうなずく。
「私は、かつて祈りを受け、祈りを渡した存在。人の願いを言の葉に乗せ、天へと届ける“橋”であったもの」
その言葉は、ミカゲの胸に深く響いた。
自らもまた、アマテラスの影として創られ、祈りではなく“代替の存在”として在った自分――けれど、この巫女の言葉には、“それでも生まれた意味”を認める優しさがあった。
「祈りとは、力です。願う心は、命よりも強く、時に神すら動かす」
アキツヒコが巫女の方をじっと見つめていた。彼の胸にも、何かが伝わっていた。言葉ではない。でも確かに、泉から、巫女から、感じ取っていた。ミカゲはふとアキツヒコの手を取る。
「祈りとは、“誰かのために”願う心。あなたが持つその力は、きっと誰かの祈りに応えるもの。そう……私が、そう願っているから」
アキツヒコはその手をぎゅっと握り返した。
「……チカラ。……ヒツヨウ?」
それは、初めて自分の力に意味を問いかけた言葉だった。
巫女はうなずいた。
「祈られた者よ――祈りを返す者として、歩むがよい。あなたの手が、また誰かの心を結ぶのならば」
光がゆらりと揺れ、巫女の姿は静かに消えていった。
泉の水は再び静けさを取り戻す。けれど、その場には確かに、何かが刻まれていた。ミカゲは立ち上がり、アキツヒコの背をそっと押す。
「行きましょう。……次の神域へ」
アキツヒコはその言葉にうなずき、しっかりと前を向いた。
心の奥に、小さな種がまかれていた。
それは、“誰かを守りたい”という祈りの種。
やがて、それが花開く日が来ることを、
ミカゲは信じていた。
水の巫女の霊地を後にした二人は、山を越え、谷を抜け、さらなる奥地へと足を進めていた。行く先は、かつて神に捧げられたとされる古の神剣が眠る祠。その剣は、人の世の混乱を鎮めるために造られたと伝わり、今は不要となった力として、ひっそりと封印されているという。
数日後の夕暮れの差す頃、彼らはその祠の前に立っていた。
森の中にぽつりと佇む石造りの社殿。そこには鳥居も鈴もなく、祭りの気配すら欠片も残っていない。けれど、その場には確かに空気の緊張があり、空の色さえわずかに沈んで見える。
「……この中に、“剣”があるのですね」
ミカゲが小声で呟く。
アキツヒコは、なぜか祠の前で足を止めた。その目には、恐れでもためらいでもない――ただ、何かを知っているような静けさが宿っていた。ゆっくりと扉を押し開けると、祠の奥にはひとつの石の台座があった。
その上に――黒い布に覆われた“何か”が眠っている。
ミカゲがそっと近づこうとしたとき、台座の前に結界のような光の壁が立ちふさがった。
「……試されているのですね」
彼女は一歩退いた。アキツヒコはその前に進み出て、じっと布の奥に目を向けた。すると、不意に、光の壁がふわりと揺れた。その震えに応じるように、彼の手が静かに上がる。
「……ミ、カゲ……マモ、ル……」
彼は小さな声でそう言った。
ミカゲは息をのむ。
それは、彼が初めて自らの意思で紡いだ“誓い”だった。
祠の中に、風が吹いたように空気が動いた。
次の瞬間、結界の光がほどけ、黒い布が自らするりと落ちた。
そこにあったのは、一本の長剣。
装飾は少なく、金属の煌めきも控えめ。だがその刃は、不思議な静謐を纏い、見る者の胸に覚悟を問うような気配を放っていた。アキツヒコは台座に近づき、両手でその柄に触れた。触れた瞬間、剣はかすかに震え、光を帯びる。彼の手に吸い寄せられるように、すっと持ち上がった。その姿に、ミカゲは目を見開いた。
「……剣が、あなたを受け入れた……」
アキツヒコは剣を見つめたまま、口を開いた。
「マモル、ため……チカラ……」
それは、戦うためではなく、守るための力を願った少年の言葉だった。
剣の重さは、単なる鉄の質量ではない。そこには、人を傷つけぬための強さ、祈りを守るための意志が宿っていた。ミカゲは、そっと微笑む。
「……あなたは、もう誰かのための力を選べる人ですね」
剣はアキツヒコの背に収まり、彼の歩みは、先ほどよりもわずかに重みを持った。
“力を持つ”ということが、
“何かを背負う”ということでもあると、彼は知り始めていた。
そしてその歩みは、
次の神域――「哭く岩の森」へと続いていく。
剣を手にしたアキツヒコの歩みは、たしかに強さを帯びていた。祠を出たあとも、背中の鞘に収まるその神剣は、彼の存在に静かな重みを与えていた。ミカゲもまた、彼の成長を感じ、言葉少なにその歩みに寄り添っていた。
――けれど、それはまだ、“力の片鱗”に過ぎなかった。
祠から少し離れた森の中、
二人は焚火を囲い、夕餉の支度をしていた。
静かな森。
風はなく、星もわずかに瞬いている。
その時だった。
アキツヒコの背にある剣が、かすかに震えた。
「……アキツヒコ?」
ミカゲが呼びかけた瞬間、剣が――勝手に抜けた。
まるで何かに引き寄せられるように。
否、彼自身の内なる何かが、反応したかのように。
「アキツヒコ、やめなさい! 危ない――!」
ミカゲが叫ぶも、剣はアキツヒコの手に吸い込まれるように収まり、その瞬間、刃から奔流のような光が溢れ出した。地面が裂け、風が逆巻き、焚火がかき消える。
「っ……!」
アキツヒコの瞳は見開かれ、その中に――見たことのない“金の光”が揺らめいていた。まるで、彼自身が誰か別の存在に上書きされていくような感覚。
「……まも、る……チカラ……」
彼の口元から、誰に向けたのか分からぬ言葉が漏れる。
その刹那、剣が再び光を増し、
近くの巨木に向かって斬撃が放たれた。
――木が裂け、風が爆ぜた。
ミカゲは咄嗟に身を挺して、
その爆風から彼を庇った。
「もう、やめなさい!」
彼女の声が、はっきりと空気を裂いた。
その声に、アキツヒコの動きが止まる。
光が揺れ、剣が彼の手からぽとりと落ちた。
地面に落ちた剣は、微かに鳴いた。
その音は、悲鳴ではなく、諫めるような調べ――
アキツヒコはその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
「……ゴメ……ナサ……イ……」
震える声。
それは、彼が初めて言った“謝罪”の言葉だった。
ミカゲはそっと彼の傍に膝をついた。
「力は、暴れるものじゃないの。あなたが誰かを守りたいと思うなら……その手は、“制する”ためにあるのよ」
アキツヒコは頷き、
落ちた剣を、自分の手で拾い上げた。
その仕草には、先ほどのような衝動はなかった。
代わりにそこには――
力を抱く者の、静かな誓いが滲んでいた。
ミカゲは小さく微笑む。
「大丈夫。あなたなら、きっと乗り越えられる」
そうして二人は、再び火を灯し、
夜の静けさを取り戻した森の中で、
一歩、また一歩と歩みを進めていく。
その先には、感情という名の“地霊”が呻く、
「哭く岩の森」が待っている――
その森に足を踏み入れた瞬間、空気の重さが変わった。
深く深く、まるで大地の底から這い上がってくるような、鈍い圧力。風は吹いているはずなのに、枝葉は揺れず、鳥の声ひとつ響かない。ただ、どこかで――「呻き」が聞こえるような気がした。
「ここが……“哭く岩の森”」
ミカゲが足を止め、言葉を呟く。
この森は、かつて山そのものが神として祀られていた場所。だが時代の流れとともに、社は失われ、地霊は名も忘れられ、ただ「そこに在るだけ」の存在となった。そして今、神でも人でもない存在となった地霊は、名を呼ばれぬ苦しみを“呻き”として残しているという――
「アキツヒコ、くれぐれも油断しないで。ここでは、感情が揺らぐと、内から“侵される”」
彼はうなずき、剣の柄に軽く手をかけながら歩を進めた。
足元の草が、しおれたようにへたり、根の間に潜む岩々から、低く長い呻きが聞こえた。
「……う……あ……」
声とも音ともつかぬその呻きは、まるで誰かの“泣き声”のようだった。
アキツヒコが足を止め、胸を押さえる。
「……なに……この、カンジ……」
それは、彼にとって初めて触れる“感情”だった。
重く、鈍く、どこまでも深い“悲しみ”。
ミカゲもまた、眉をひそめ、近くの岩に手を置く。
そして、その手から、確かに伝わってきた。
――名前を呼ばれず
――願いも届かず
――ただここに在り続けるだけの存在
「……忘れられるって……こんなに、痛いんだ……」
思わず、そう呟いていた。
かつて自分もまた、“仮初の光”として生まれ、
アマテラスが戻った後には“誰にも呼ばれない存在”になった――
その孤独と、今この岩に宿る地霊の悲しみが、静かに重なってゆく。
「ミ、カゲ……?」
アキツヒコが彼女に近づき、そっと袖を引いた。
彼の目には、戸惑いと不安、そして――深い共感が宿っていた。
「……これ、かなしい……。ずっと……ひとり……いたんだ、ね……」
それは、今までの彼にはなかった言葉だった。“他者の感情”を自分の中で抱えるという、新たな一歩。ミカゲはその言葉に、ふっと涙をこらえて微笑む。
「……そうね。よく分かりましたね、アキツヒコ」
彼は、もう一度うなずいた。
その瞬間、森の奥で、何かが“解ける”ような気配が走った。
呻きはまだ消えぬまでも、少しだけ、静かになった気がした。
「行きましょう。……この悲しみを、“知っている者”として」
この森で、剣は抜かれなかった。戦うべき敵も、封じるべき禍もなかった。だがそれ以上に、この地には大切な“真実”が眠っていた。人も、神も、忘れられることは、何よりも深い“傷”を生む。
そしてそれを“共に感じる”ことが、
真の意味での力になる――
そう、ミカゲもアキツヒコも、初めて知ったのだった。
森の夜は、どこか湿っていた。風はなく、空には星もまばらにしか瞬かない。だが、焚火の赤が静かに揺れるその傍で、二人は互いに言葉もなく座っていた。
火のはぜる音だけが、夜を刻んでいた。
「……アキツヒコ」
ミカゲがふいに口を開いた。
彼は焚火を見つめたまま、ゆっくりと彼女を見た。
「今日の森、どう思いましたか?」
少しの沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「……こわ、かった。かなしかった……。でも……いちばん、こわいのは……」
そこで言葉が止まる。
ミカゲは急かさず、ただ焚火の光の中で、彼の横顔を見つめ続けた。
「……ぼくが、チカラ、つかって……だれか、きずつけたら……」
その声はとても小さく、風に消えそうだった。
だがその中には、確かに――“恐れ”があった。
「……それが、いちばん、こわい……」
ミカゲは、そっと火に枝を一本くべた。
ぱち、と乾いた音がして、火が少しだけ強くなった。
「あなたは、もう“守るための力”を選んだのですよね」
アキツヒコは、うつむいたまま、うなずく。
「だからこそ、怖いのです。それは、とても正しいこと。――自分の力が、誰かを傷つけるかもしれないと考えられるあなたは、きっと、どんな神よりも優しい」
その言葉に、アキツヒコの目が揺れた。
「……ぼく、“ひかりのしずく”……なのに……こわがりで……うまく、しゃべれなくて……
ミカゲのほうが、すごい……」
ミカゲは、目を細めて笑った。
「私だって、“影の姫”ですよ。“仮初の光”――役目が終われば、忘れられる存在です。……でも、そんな私がこうしてあなたと一緒に旅をしてる。それって、すごく“不思議”じゃないですか?」
アキツヒコは、ぽかんと彼女を見つめた。
「不思議だけど……でも、うれしい……」
その声は、心からの言葉だった。
「私もです。あなたがいてくれるから、私は進める。だから、あなたも自分を“弱い”なんて、言わないで」
ミカゲは、そっと手を差し出した。
アキツヒコがそれを見つめ、ゆっくりと重ねる。
小さな手。
けれど、そのぬくもりは確かで、焚火よりもあたたかく感じた。
「……ありがと……ミカゲ」
「ふふっ、ようやくちゃんと名前を呼べましたね」
そう言って笑う彼女の頬にも、ほんのわずかに火の赤が滲んでいた。
森の夜は、まだ深い。
だがその深さの中で、
二つの光が、確かに結びついた瞬間だった。
森を抜けた道すがら、二人は小さな山里の奥にたどり着いた。
今はもう人の気配はなく、草に覆われた小径が続くばかり。
だがその先に、ぽつりと残された石の構造物があった。
苔に包まれ、ひび割れた石の壁。その前に立つ石碑は、かつてこの地が祈りの場であったことを、静かに語っていた。
「……祠、だったのかしら」
ミカゲが呟く。アキツヒコは静かに周囲を見渡し、ひとつの石碑に目をとめた。
「……かいて、ある……けど……よめ、ない」
彼が指さす先、風化した石には、今となっては読み取れぬ神名の痕跡があった。しかし、ミカゲの目には、かすかに記憶のようなものがよぎる。
「……これ……“誰かの名”」
彼女はそっと石碑に手を置いた。
瞬間――まるで大地の奥から、微かな囁きが返ってきた。
“祈られた者よ。名を呼ばれなくとも、我らはそこに在った。”
それは、声なき声。記録されず、記憶にも残らぬ“無名の神々”の想念。
「……私と、同じ」
ミカゲは、小さく呟いた。
「私もまた、“光の代わり”として創られ、役目が終われば忘れられるはずだった。でも――ここにいる神々も、誰かの祈りに応えていた。たとえ名前が残らなくても、たしかに“誰かの想い”を受け取って、生きていた」
その言葉に、アキツヒコが目を見開いた。
「……ミカゲ……」
彼女は、石碑にそっと額を当てた。
「私は、忘れられることを恐れていた。でも今は違う。“残らない祈り”があったとしても、それが無意味だとは思わない」
ミカゲはゆっくり立ち上がり、振り返ってアキツヒコを見る。
「私たちが歩いているこの道も、記録には残らないかもしれない。けれど、それでも“誰かのため”に進むなら――それは、きっと意味のある旅になる」
その言葉は、まるで風の中に確かに響き、
古びた石碑すら、わずかに震えた気がした。
アキツヒコは、その言葉を胸に刻むように、深く頷いた。
「ミカゲ……まもる」
彼がそう言ったとき、彼女は目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。でも、私もあなたを守ります。……それが、“絆”ですから」
空はすでに傾き、夕陽が石碑に差し込んでいた。その光は、まるでかつて祀られた神々が、静かに頷いているようだった。そして二人は、またひとつ、旅の意味を胸に刻み、歩みを進めていった。
旅の道すがら、二人は山間の小さな村に立ち寄った。この地もまた、古くは神を祀っていた形跡があったが、今はその祭祀も途絶えて久しい。村の空気はどこか淀んでおり、空は薄く濁り、草木も元気を失っていた。
「……ここも、“禍”の気配があるわね」
ミカゲがそう呟いた矢先――
突如として、村の端の社が大きく軋み、ひとつの鏡が音を立てて割れた。
その瞬間、空気が凍ったように張り詰める。社の奥から、黒い瘴気のようなものがじわじわと地面を這い出し、水場へと向かって広がっていく。
「……“禍”!」
ミカゲが駆け出す。アキツヒコも剣を握りしめ、ミカゲの後を追った。村人たちは何が起きているのかも分からず、ただ家の奥に怯えて隠れていた。社の前で、ミカゲが印を切るように手をかざす。
「アキツヒコ、今はあなたの力が必要です……けれど、無理はしないで。暴走すれば、また――」
その時だった。
アキツヒコは一歩、前へ出た。
「……ミカゲ、まもる。……ひと……まもる」
その言葉と同時に、彼の剣が静かに光を帯びた。
以前のように激しく噴き出す力ではない。
それは、芯から溢れるような、柔らかな“輝き”だった。
瘴気が一気に逆巻き、彼に向かって押し寄せる。
だが、彼は剣を真っ直ぐに構え、静かに振り下ろした。
――音もなく、光が走った。
剣先から放たれたその光は、禍の瘴気を穏やかに包み込み、波紋のように弾き返した。
「……いまのは……」
ミカゲが呆然とする。
アキツヒコは少し息を切らせながらも、しっかりと立っていた。
「こわく……なかった。……ぼく、できた……」
その言葉に、ミカゲはふと微笑んだ。
「ええ。あなたは、自分の力を制した。そして“人を守るため”に使えたのです」
彼女の声は、いつになく柔らかかった。
「……ありがとう。アキツヒコ」
アキツヒコは照れたように頷きながら、ミカゲの隣に立った。そして二人は、ゆっくりと社の奥を見つめた。禍の気配は完全には消えていなかった。だが、確かに“押し返せた”――その手応えがあった。
「私たちの旅は、まだ終わりません。でも、今のあなたなら……この先にある“本当の禍”にも、きっと立ち向かえる」
ミカゲの言葉に、アキツヒコは剣を見つめながら、力強くうなずいた。
“守りたい”という祈り。
“恐れない”という決意。
“迷わない”という歩み。
彼の中で、それらがようやく一本の道に繋がり始めていた。
旅の終わりはまだ遠い。だが、その先にある“人の世を護る使命”へ向けて――二人の歩みは、確かに加速していた。月が、静かに空を渡っていた。その光は、夜の闇を優しく照らし、村の境の小道を銀色に染めていた。アキツヒコとミカゲは、その小道に並び立っていた。
後ろには、今しがた“禍”の影を退けたばかりの村――人々はまだ怯えながらも、彼らの行動に救いを見いだし始めていた。
村長は深く頭を下げ、
言葉少なにこう告げた。
「……この村を、守ってくださり、ありがとうございます。ですが、あれは……ほんの一部なのですね」
ミカゲは小さく頷いた。
「ええ。あれは、ほんの“漏れ”にすぎません。本体――“禍の核”は、まだ目覚めの途中にある。けれど、兆しは確かに、広がり始めています」
村長は沈黙し、やがて手を合わせた。
それは祈りでもあり、感謝でもあった。
そして今――
二人は、村の入り口にある古い鳥居の前に立っていた。
その鳥居は、かつてこの地が神を祀っていた名残。だが今では名も風化し、苔むした柱が辛うじて形を保っているだけだった。アキツヒコはその前に立ち、剣に手を当てた。ミカゲもその姿を見てつぶやく。
「……つぎは、“静寂の泉”」
それは、ミカゲが見つけた記録の中にかすかに残されていた、
「かつて、高天原から地上に零れ落ちた勾玉がおさめられた」とされる場所。
アキツヒコもまた、迷いのない目で頷いた。
「私たちが生まれた意味は、最初は“代わり”だったかもしれない。けれど今は違う。“選ばれた存在”としてではなく、“選んで歩む存在”として、進みましょう」
ミカゲの言葉に、アキツヒコが言葉少なく、深く頷いた。
そして二人は、足を踏み出した。
祠を過ぎ、木々の合間を抜けて、銀に染まった山道を、一歩ずつ登っていく。月明かりが、ふたりの背中を静かに押すように降り注いでいた。
禍の核が眠る地へ。
旅はまだ、続いていく。