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影の姫と光の雫

古代オリエントからローマ帝国に至るまでの長編を連載していますが、個人的には古事記に代表される日本神話の方が好きなため、古事記に関する短編のシリーズ物を少しずつ投稿していこうと思います。シリーズを構成する各話は、3-5話程度で構成される短編集にしようと思っていますので、日本神話好きの方、是非お楽しみください。今回の話は5話構成の、古事記の神代を舞台とした架空冒険譚です。

空が開いた。


厚く閉ざされていた天の岩戸が、ついに開かれたその瞬間、高天原(たかまがはら)を覆っていた長き闇は払われ、再び神々の国に光が差し込んだ。


天照大御神(あまてらすおおみかみ)が姿を現された。


その光は、神々の顔を照らし、天の道を満たし、万象を再び正しき場所へと導くような輝きだった。八百万(やおよろず)の神々はこれを喜び、歌い、舞い、宴を開く。神鼓は鳴り、祝詞は風に乗って天に昇り、空は色彩に染まっていた。


だが――その歓喜の輪の、遠い外れ。誰にも見送られることなく、その光からそっと背を向ける影があった。


白い衣をまとう一人の少女。

背中で揺れる長い黒髪が、風に乗って静かに舞う。

目元に浮かぶのは涙ではなく、ただ、祈りにも似た静けさ。


彼女の名は、御影姫命(みかげひめ)


アマテラスが岩戸に籠もったあの混乱の中、天の秩序を保つため、仮初(かりそめ)の光を受け止める影として、神々によって生み出された存在。


「アマテラスの御影(みかげ)にして、その器となるもの」


そう呼ばれ、祈りとともに座にあり、ただ沈黙を守り続けていた。


光を照らすことはない。ただ、光が戻るまでの間、天の空席を満たしているように見せるための影として生きた。それが彼女の“存在意義”だった。


そして今、真の光が戻った。


彼女の役割は終わり、誰からも名前を呼ばれることなく、その身は、神々の記憶からさえ徐々に薄れていこうとしていた。ミカゲは、祭の喧騒に背を向け、誰にも気づかれぬように歩く。


目指すは、高天原(たかまがはら)の果て――


かつて“記録されなかった神々”が姿を消したという場所。天と地の境界にある、祈られることのない、静かなる終わりの地。


「無名の泉」。


それは、役目を終えた神が、自らの神格を解いて還る場所。宴の音も、神々の歓声も、すでに彼女の耳には届かない。ただ静かに、まっすぐに、彼女はその終わりの地を目指していた。足元に漂う雲を見下ろしながら、ミカゲは静かに目を閉じた。


心の奥で、過去の光景がゆっくりと浮かび上がる。


それは――光が失われた、あの日の記憶。


天照大御神(あまてらすおおみかみ)が岩戸に籠もり、高天原(たかまがはら)が闇に包まれたとき、八百万の神々は、天と地の秩序の崩壊におののいていた。神の声は届かず、祈りも迷い、風は止み、星の瞬きさえ沈黙した。誰もが“光の不在”に耐えられず、しかし誰も、“真の光”の代わりにはなれなかった。


そのとき――


「せめて、空位の座が、空でないように見せよ」


そう語ったのは、天の智を司る高御産巣日神(たかみむすびのかみ)であったという。祭祀(さいし)の智と技の神々が集い、遠い時の名もなき霊泉から、白き雫を掬い取り、祈りと共にそれを形とした。


光の仮初め。

まことの輝きではなく、ただ”灯りがあるようにそこに在る影”というだけの存在。そうして生まれたのが、ミカゲだった。


彼女は、アマテラスの御姿に似せられ、その座に静かに据えられた。祭事では神官たちが遠巻きに祝詞を捧げ、誰も近くで言葉を交わさず、彼女もまた、何も語らぬまま、ただ座にあることを許されていた。


その日々は――


長く、寒く、しかし、否定はできぬほどに、彼女にとって“役割”そのものであった。ミカゲは知っていた。自分は真の光ではないことを。誰かの代わりでしかなく、この姿さえも仮のものだということを。


けれど、それでも――


「誰かが、この座にいなければならなかったのでしょう」


だから彼女は、沈黙のまま在り続けた。神々が光の再来を祈る中、誰にも感謝されずとも、彼女は一日一日を、神として、器として、正しく生きようとした。


そして今。


本物の光が戻った今、

その「仮の器」は、もう不要なのだ。


誰も彼女の名を呼ばない。

彼女の在った座は、もとの神に返された。

その存在は、“なかったこと”になる。


――誰も、私のことを惜しまない。


それは、悲しみでも、怒りでもない。

ただ、事実として、静かに胸に落ちる感情だった。


それでも。


「よかったのです。…あの座が空のままでなくて」


そう言って、ミカゲは足を止めた。

雲の切れ間から覗く、下界の青に目を細める。


高天原に背を向けたその瞳に、寂しさと誇りが同時に宿っていた。


自分は、器だった。

けれど、その器が満たしていたのは、誰かの祈りだったのだ。


だからこそ、静かに終わることを、彼女は選んだ。


再び歩み始める足音が、雲の上に消えていく。


雲を越え、風のない空を渡り、

ミカゲは一歩ずつ、世界の終わりに近づいていた。


その先に広がるのは、どこまでも静かな空間だった。


草は生えず、花も咲かない。ただ、白く滑らかな岩肌と、淡い光に包まれた透明な水面が広がっている。それが――無名の泉。


高天原の果て。天と地の狭間にして、名を失い、記録から消えた神々が最後に訪れる場所。ここには、祈りも、記憶も届かない。声は響かず、時は流れず、ただ「終わり」だけが滲んでいるような、異質な静けさ。泉の水面には、空も雲も映らず、覗き込めば、そこに自分が消えていく感覚さえ覚える。


――この泉に身を沈めれば、神は神ではなくなる。


神格は解かれ、名は忘れられ、やがて存在そのものが溶けてゆく。それが、この地に与えられた意味。役目を終えた神が、“なかったこと”として世界から消滅するための、最果ての場所。


ミカゲは泉の縁に立ち、その水面を静かに見下ろした。そこには、自分の姿さえ映らない。まるで、ここにいることすら許されていないような、無の透明さがあった。足を踏み出そうとした――けれど、その先に待つものを、彼女は知っていた。身を沈めれば、もう戻れない。祈りも、記憶も、自分という存在も、誰かの中からそっと消えていく。


「私は、そうして終わるために創られた。…そのはずだったのに」


つぶやいた言葉は、風もない空間に溶けて、ただ無音の波紋を落とすだけ。ミカゲはそっと片膝をつき、泉の傍らに手を置いた。水に触れはしない。ただ、そっと、近くにいるだけ。それでも、その静けさは、心の奥に染み入るようだった。


だがそのとき――


泉の奥深く、光がひとすじ、静かにきらめいた。それは、まるで水底から這い上がるように、柔らかな光の粒がふわりと浮かび、そのまま、水面の上へ、音もなく滲み出てくる。


「……?」


ミカゲの目がわずかに見開かれる。波紋の中心が、ほんのりと光を帯び始める。水がわずかに揺れ、泉の中心に――何かが現れようとしていた。


それは、神とも人とも異なる、未知の輝き。ミカゲは、手を止めたまま、身じろぎもせず、その光を見つめた。何かが、この泉に落ちてきた。彼女の中で、確信にも似た直感が膨らんでいく。そして次の瞬間、泉の水面が――静かに、確かに、開かれた。泉の水面が、ふたたび揺れた。


風はない。水を打つものも、周囲に影を落とす存在もない。だが、そこには確かに、何かが降りてきた痕跡があった。


ミカゲは身を伏せ、泉の中心を凝視する。そこに、淡い光の粒が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってくるのが見えた。それは、まるで鏡の裏側からこぼれ落ちた光。八咫鏡(やたのかがみ)がその奥に秘めた写しきれぬ真実が、雫となって流れ落ちたかのような――


そして、その光の粒が集まり、

ゆっくりと、人の形を成していく。


水面が淡く輝き、

そこに現れたのは――ひとりの少年だった。


まだ幼さの残る、十と数年ほどの齢。

その身を包む衣はなく、ただ黒い髪が肩にかかり、

肌は淡く透けるような光を帯びていた。


まるで神の気配を纏いながらも、まだ名を与えられていない、この世に属さぬ存在そのものだった。彼の目は、ぼんやりと揺れていた。何も知らず、誰にも教わらず、ただ世界を初めて目にした者のまなざし。言葉を持たず、感情の輪郭も曖昧で、その動きひとつひとつが、まるで空気に溶けてしまいそうに危うい。


だが、ミカゲは、彼を見ていた。

ただ見つめ、目を逸らさずにいた。


恐れも、警戒もなかった。

むしろ、その姿に、心のどこかが強く引き寄せられていくのを感じていた。


この子は――


「……どこから、来たのですか?」


呟いたその声は、少年には届かない。


だが、彼は微かに、ミカゲの方へと視線を向けた。

その動きだけで、泉の水面が淡く揺れる。


ミカゲは、ゆっくりと立ち上がると、

一歩、泉の縁に近づいた。


決して水には触れぬように。

けれど、彼に向けて、距離を詰める。


心の奥で、なにかが(ささや)いていた。


この子は、誰にも求められず、誰にも気づかれず、ただここに落ちてきた。


そして、今――

私の前に、現れた。


彼の瞳の奥には、微かに煌めく“光”があった。それは、生まれたばかりの意思。かすかな疑問と、小さな呼吸と、これから何かを始めようとする“目覚め”の兆し。


「……あなたは、“光の雫”ですね」


ミカゲは、静かに微笑んだ。


そこにあったのは、共鳴だった。誰にも必要とされず、記録にも残されず、それでも確かにこの世に在るという事実を、お互いの存在が証明していた。泉の水面が、静かに落ち着きを取り戻す。そして少年は、わずかに首を傾け、ミカゲの方へと一歩、踏み出した。


それは、古事記にも記されぬ、

影と光の出会いの一歩だった。


少年は、泉の中心からゆっくりと歩を進めた。


その動きは、まだおぼつかず、どこか夢の中を歩いているようだった。だが、確かにミカゲに向かって、近づいてきている。水面に立っているようでいて、その足元には波紋も生まれない。まるで、泉の光そのものが少年の姿を保っているかのようだった。


やがて彼は、泉の縁に辿り着き、ミカゲと向かい合うように立ち止まった。


近くで見ると、その瞳には不思議な深さがあった。それは、まだ何も知らぬ者の無垢さでありながら、どこか“知ってはならぬことを知ってしまった”ような光を含んでいた。


ミカゲは、そっと息を呑む。


「あなたは……神ではない。けれど、神よりも清らかな」


彼の身からは、明確な神気は感じられなかった。だが、(まが)でもない。むしろ、存在そのものが光でありながら、まだ言葉も形も知らぬ“生まれたての魂”。


「……あなたには、名前があるの?」


問いかけるように言ってみたが、少年はただ小さく首を傾げた。やはり、言葉を知らないのだ。けれど、その反応にどこか愛おしさを覚え、ミカゲは微かに微笑む。


「そう……まだ、名もないのね」


名がないということは、この世界に記されていないということ。神であれ、人であれ、名を持たぬものは、世界と関われない。祈られることも、語られることも、叶わない。それは、ミカゲが痛いほど知っていることだった。しばしの沈黙ののち、彼女は目を伏せ、そして、ゆっくりと口を開いた。


「では、私が名を授けましょう」


泉の空気が微かに震えた。


「――秋津彦命(あきつひこ)


その名は、(いにしえ)の言葉。“秋津”は、瑞穂の国の古名。“彦”は、神の御子(みこ)、あるいは若き尊き者への敬称。


秋津洲(あきつしま)に生まれ落ちた、明き光の御子――そういう意味を込めました」


名を授けるという行為は、存在に意味を与えること。その瞬間、少年の瞳に――はっきりと光が宿った。それは、まるで彼自身が“自分がこの世にいる”ことを理解し始めたような眼差しだった。


ミカゲは、その反応を静かに受け止めながら、心のどこかで、小さな痛みのようなものが芽生えるのを感じた。彼は、私と似ている。名もなく生まれ、記録にも残らず、ただ誰かの代わりとして、この世に現れた。


けれど――


「あなたは、私よりずっと……純粋なのですね」


そう呟いた言葉に、アキツヒコはまた、首を傾げる。言葉の意味は通じなくとも、そこに込められた温もりだけは、届いたようだった。この日、無名の泉にて、二つの存在が交わった。


一つは、役目を終えた影の器。

一つは、意味も知らずに生まれ落ちた光の雫。


どちらも、記されぬ存在。

だが、今ここに、小さな絆の輪郭が、確かに芽生えはじめていた。


名を得たばかりの少年――アキツヒコは、

まだ何も知らぬまま、ミカゲの言葉に耳を傾けていた。


だがその穏やかな時は、長くは続かなかった。ふいに、風のない泉に、ひやりとした空気の揺らぎが走る。ミカゲが顔を上げると、辺りの光がわずかに鈍くなっていた。淡く輝いていたはずの泉の水面が、濁り始めている。


「……これは」


空気が歪んでいた。耳元ではないどこかで、確かに(ささや)きが響く。意味を成さぬ言葉。言葉にならぬ想念。記録に残ることを拒むような、この世の外の気配。


ミカゲの胸に、じわりと冷たいものが広がっていく。


ここは「無名の泉」。高天原(たかまがはら)現世(うつしよ)の狭間にして、神々の記録にも、人々の祈りにも触れぬ、“境界”の地。その特異な性質は、あらゆる法則の外にあるがゆえに、時として、忘れられたもの、祈られぬもの、意味を与えられなかったものが、ふとした拍子に入り込んでしまうことがある。


今、まさに――その歪みが、起ころうとしていた。


「境界が、揺れている……」


囁くようにミカゲが言ったとき、泉の中央が一気に濁った。その濁流は、泡立つこともなく、ただどろりと黒いものが混じり、空気が震え、視界が微かに傾いて見えるような錯覚を与える。それはまるで、存在そのものの基準が崩れていくようだった。


アキツヒコが、ミカゲの袖を軽く掴んだ。怯えている――わけではない。むしろ、その瞳には、明らかな“反応”があった。


「……下がって」


ミカゲが一歩、前に出た瞬間だった。泉の中心から、黒い瘴気(しょうき)のような影が、ぶわりと噴き出した。形を持たない。だがそこに確かに“意思”のようなものがあり、それは光を嫌い、名前を憎み、祈りを嘲る。


「まがつ……神……」


かつて、神々の記録からも抹消された“災い”の残滓。名を与えられぬまま、記録されぬまま消された存在たちの、怨嗟(えんさ)の集合。


それが、今――この泉に滲み出している。


アキツヒコが一歩前に出た。無意識のうちに、手を差し出す。その手に、ふいに、光が集まり始めた。


「……っ!」


ミカゲが目を見開く。


その光は――穢れを祓うような、澄んだ力。

けれど、まだ彼にはそれを制御する術がない。


力が暴れ出す。

空間が軋む。

泉の水が跳ね上がり、周囲の白岩に霜のような光のひびが走る。


「アキツヒコ、やめて!」


叫んだその声に、アキツヒコがはっとしたように手を引いた。


光は霧のように消え、黒き瘴気も、音もなく泉の底へと吸い込まれていく。空気が、ようやく元の静寂を取り戻した。


ミカゲは肩で息をしながら、アキツヒコの方へと駆け寄る。


「……あなたの力、まだ安定していないのですね」


アキツヒコは俯いたまま、小さく震えていた。その手のひらに残る光の名残が、淡く消えていく。ミカゲはその手をそっと取って、包み込むように握った。


「大丈夫。……いずれ、あなたの力は、誰かを守るために在れるようになります」


その声は、静かに泉の上に漂い、水面は、再び鏡のように平らな光を湛えていた。境界の水面が静まり、アキツヒコの力も収まったその夜――まだ誰も気づかぬまま、ひと筋の影が、泉の底から漏れ出ていた。それは声もなく、姿もなく、ただ、気配だけを染み込ませるもの。


その影は、境界の揺らぎの隙間を通って、地上へと、じわじわと、滲み出していった。


**


東の山裾(やますそ)に抱かれた小さな村では、秋の終わりに実りを迎えるはずの稲穂が、一夜にして黒く枯れた。水も日照も十分で、虫の被害もない。なのに、ただ根から崩れるように、しゅうと音を立てて倒れていく。


「これは……ただの病ではなかろう」


古老は田の端にしゃがみ込み、葉先に残る霜のようなものを見て、唇を引き結んだ。


(ほこら)の神棚には、代々(まつ)られてきた鏡がある。その鏡に、微かなヒビが入っていた。まるで、何かが中から抜け出していったかのような割れ方だった。


**


山中の社では、ひとりの巫女がふと目を覚ます。焚かれた香の気配が微かに重くなっていた。


「……誰?」


そう問うた声に返事はない。だが、床に残った足跡が、雨も泥も知らぬはずの拝殿を静かに濡らしていた。それは人ではない“気配”だった。血の匂いもしなければ、獣の体温もない。ただ、“神に祈られず、忘れられたまま怒りだけを残したもの”の気配。


巫女は、震える声で祝詞(のりと)を唱えながら、その影がまだ社の奥に残っていることを、感じ取っていた。


**


さらに遠く、北の村では――


生まれたばかりの赤子が、夜通し言葉を囁いていた。言葉にならない音。意味を持たぬ音。誰にも聞き取れず、だが、聞いている者の背筋を冷たくするような響き。


「まるで、呪いみてぇだ……」


父親がそう言って震える横で、赤子の瞳は虚空を見つめたまま、動かなかった。


**


人々はまだ知らない。


世界に満ちていた神々の加護が、

少しずつ、確かに退き始めていることを。


神話の時代が終わりを告げ、人の世が自らの手で秩序を築かなければならない時代が、すぐそこに来ていることを。だが、その移ろいの狭間――いまだ神が半ば関わり、人がまだ自らを信じきれぬ時の隙間には、必ず“何か”が入り込む。


それが“(まが)”である。


姿を持たず、名を呼ばれず、祈りを拒み、記録を忌み嫌い、ただ、すべてを曖昧にし、濁らせ、この世の底から静かに広がっていくもの。それは今、確かに地上に――名もなき侵蝕(しんしょく)として根を張り始めていた。無名の泉のほとり。その水面は平らに静まり返っていたが、空気の色だけがどこか重たくなっていた。


御影は泉の縁に腰を下ろし、遠くを見つめていた。

秋津彦はその横で、じっと膝を抱えていた。


先ほどの(まが)の気配――それが地上へ滲み出た事を、ミカゲは感じ取っていた。


「私たちが……原因なのかもしれません」


言葉は、泉に溶けるように沈んでいく。


アキツヒコが小さく顔を上げた。彼はまだ言葉を十分に使えない。けれど、ミカゲの言葉が自分に向けられたものだということは、理解していた。


「あなたがこの泉に生まれ落ちたことも。私が、この場所に留まってしまったことも。記録にも、祈りにも属さぬ存在が、ここに“二つ”並び立ってしまったことで……境界の均衡が、崩れたのかもしれません」


声には責めはない。だが、それ以上に、自分自身に向けた苦さがにじんでいた。


「でも……私たちは、もう役目を終えた存在なのです。忘れられ、祀られず、ただ静かに(かえ)るべき者――」


ミカゲは唇を噛む。


「今さら……何を守れるというの」


彼女の中に、ほんの微かな怒りのようなものが生まれていた。それは、誰に向けることもできぬ感情。ただ、“意味を終えた存在”がなおも在ることへの、世界の無言の拒絶に対する、細く鈍い抵抗。


アキツヒコは、そんな彼女の横顔を、黙って見つめていた。


彼自身も、胸の奥で同じ問いを抱えていた。自分には、確かに「力」がある。先ほど、それを使いかけた。けれど――その力を、使ってよいのだろうか。自分はまだ、生まれて間もない。神々に名を授けられたわけでもなく、祈られたこともない。


そんな自分が、誰かを救うために力を振るう資格などあるのか。言葉にならぬ想いが胸の奥で絡まり、彼の指先は知らぬうちに、震えていた。


そのとき――


「……!」


空が、わずかに揺れた。高天原(たかまがはら)の端。まだ夜にも昼にも染まりきらぬ、境界の空。そこに、一筋の影が走った。まばゆい白羽の影――翼は三本。その姿は神使(しんし)として知られる八咫烏(やたがらす)、あるいはタカミムスビの御使(みつかい)ともいわれる、“天の導きの者”。それは光の尾を引きながら、無名の泉の上空にふわりと舞い降り、やがて、音もなく地に降り立った。


その羽からは、神々の気配がほのかに滲んでいた。ミカゲとアキツヒコは同時に顔を上げた。“忘れられた者たち”に向けて、神々はなお――何かを託そうとしているのか。それは、次に始まる物語の啓示であった。無名の泉の畔にて、神使は翼をたたみ、二人をじっと見つめていた。


その姿はどこか人にも獣にも似ていながら、言葉では言い表せぬ“別の理”に属するものだった。そして、ふいに――その(くちばし)から、重く、けれど澄んだ声が落ちる。


「記録に残らぬ者でなければ、記されぬ(まが)には触れられぬ」


その言葉に、ミカゲの瞳が揺れた。


「……私たちが、だから選ばれたというのですか?」


返された言葉はない。ただ、神使の背後の空間がわずかに滲み、その中に、確かな“神威”が立ちのぼる。天上より遥かに遠く、けれどこの泉を注視している気配。それは――高御産巣日神(たかみむすび)の気配であった。


造化の神にして、高天原の根源を統べる神のひと柱。その姿は現れずとも、神気が二人を静かに包む。神々の座に連なる御目が、確かにここに注がれている。ミカゲは、かつて自身が影として生み出されたときよりも、ずっと深く、胸の奥が熱を帯びるのを感じた。


「……責を果たすべき時が来たというのなら」


その声は、自らに向けた誓いだった。彼女はアキツヒコの方を向き、柔らかな声で問いかけた。


「あなたは、私と一緒に――歩みますか?」


アキツヒコは、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に、初めて明確な意志の光が宿っていた。彼は、迷わず、はっきりと頷いた。言葉はまだ持たない。だが、その首の動きひとつが、何より確かに“覚悟”を示していた。


ミカゲは微笑む。それは、使命に殉じる笑みではなく、共に歩む者を得た者の微かな安堵だった。


「ならば、行きましょう。私たちにしか踏み込めぬ地――(まが)の兆しが生まれる現世(うつしよ)の境へ」


かくして――


誰にも記されず、祈られることもない二つの存在が、人の世のために歩み始めた。


影と光。

忘れられた姫と、名もなき御子。


その足は、

やがて(まが)が広がり始めた村の地へと向かっていた。

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