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記憶拾い

作者: 村崎羯諦

 砂浜には、誰かが落とした色んな記憶が散らばっている。


 私はそれら一つ一つの記憶を拾い上げては、砂を払い、太陽にかざしてみるのが好きだった。半透明の記憶の向こうには、絵の具のような混じり気のない水色の空が透けて見えて、太陽の周りには光の筋が浮かんでいる。誰かが落とした記憶はどれもが同じような色と形をしているけれど、手首を捻っていろんな角度から光を当ててみると、どれもが違った色で光り輝いて見える。


 光を反射して瞬く記憶を眺めていると、その記憶の中身がまるで映画のように頭の中で再生される。拾った記憶を通して見える風景はいつだって、些細な日常の一コマに過ぎない。それでも、目線の動きや話し方、じっと観察していないとわからないような細部から、この記憶を落とした人が一体どんな人なのかを考えるのはとても楽しかった。


 せっかちな人だろうか、優しい人だろうか、真面目な人だろうか。街中に流れる音楽に合わせて、思わずハミングを口ずさんでしまうようなお茶目な人だろうか。もちろん答えはわからない。だけど、この世界のどこかには私が追体験している記憶の持ち主が生きていて、今も笑ったり、喜んだり、悲しんだりしているんだと考える度に、私はその人と繋がっているような、そんな気持ちになる。


 そんなことをして遊んでいるうちに夕暮れになり、空が茜色に染まっていく。そしたらリザが私を迎えにきてくれる。リザは深い茶色の長髪を後ろできっちり結び、いつもオフホワイトのワンピースを着ている。


「帰りましょう」


 リザはそう言って、手を差し出す。私は差し出された手を握り、私たちが住む高台の家へと歩いて帰る。だけど私は時々途中で振り返って、砂浜にできた二人分の足跡を確認する。歩幅も大きさも違う二つの足跡は、まるで別々の生き物が残したもののように見えた。リザが私の手を握る力を強める。私はその手を握り返し、再び歩き出す。


 夜は一人分の狭いベッドで身を寄せ合って眠りにつく。リザは私と頬をくっつけながら、遠い世界の御伽話を聞かせてくれる。リザの声は波の音に似ている。その声に耳を澄ませていると、私の意識は波に運ばれるように、寄せては返すを繰り返しながら少しずつ眠りの世界へと入っていく。


「今日もあなたの夢が幸せな夢でありますように」


 そう言ってリザは私の額にキスをし、私は眠りに落ちていく。私はリザのことが好き。リザも多分、私のことが好き。


 だけど、私はリザが何者なのかを知らない。知らない、というより覚えていない。なぜなら、私のリザに関する記憶は、ずっと前にこの砂浜のどこかで落としてしまったから。











 いつものように私が砂浜で記憶拾いをしていると、後ろから声をかけられた。声をかけてきたのは、二十代から三十代くらいの女性で、砂浜には似つかわしくない紺のスーツを着ていた。


 先週、この砂浜で大事な記憶を落としてしまったみたいなの。彼女は本当に困り果てた表情で私にそう言った。心当たりがないかと聞かれたので、私は首を横に振る。彼女はありがとうとお礼を言いながらも、その顔には明らかに失望が浮かんでいた。私はそんな彼女が不憫に思って、一緒に記憶を探してあげると提案する。それから私たちは二手に分かれ、彼女が昨日歩いていた場所を中心に記憶を探しだす。


 本当に大事な記憶なの。彼女は拾い上げた誰かの記憶を確認しながら、独り言のように呟いた。落としてしまったから、どれがどういう記憶なのかはわからない。でも、それが私にとってはとても大事で、忘れてはいけないものだっていうことだけはわかってる。


 上着のボタンはいつの間にか外れていて、ズボンの膝は砂がついてうっすらと白くなっている。首には朝露のような汗が浮かんでいて、時折思い出したようにハンドタオルを取り出し、その汗を拭った。おもむろに彼女は履いていた革靴を脱ぎ、それを両手でひっくり返す。靴からはおもちゃ箱をひっくり返したみたいに砂が流れ落ち、砂埃を立てる。私と彼女はその砂埃越しに見つめ合い、同じタイミングで笑う。それから再び私たちは砂浜に落ちた記憶を拾い始める。彼女が落とした大事な記憶を見つけるために。


 砂浜に落ちているのは、取るに足らないような記憶ばかり。散歩の途中で道端の花を見るためにしゃがみ込んだ時の記憶とか、たまたま作ったパスタが予想以上に美味しかった時の記憶とか。あってもなくても、困らないような、そんな記憶。それもその人を構成する大事な記憶の一つではあるけれど、人間だから、ぼーっとしているときなんかにうっかり記憶を落としてしまうことがある。磯の匂いをたっぷり含んだ海風を頬で感じている時とか、太陽の光を反射してきらめく水平線を眺めている時とか、砂浜の感触と温もりを足の裏で確かめている時とか。


 だけど、どんなにぼーっとしている時でも、本当に大事な記憶をうっかり落とすことはない。大事な記憶はいつだって強く握りしめ、自分から離れないようにしているから。そんな記憶を落とす時というのは、いつだって、なくなってしまえと思いながら自分の手でそれを捨てた時だけ。だから、私が拾った記憶を抱きしめたまま彼女がうずくまり、静かに泣いている姿を見つけた時も、私は決して驚かなかった。私は彼女のそばに近づき、そっと丸まった背中に手を当てた。白い砂浜の上に、ポツリと水滴が落ちて、黒く滲んでいく。顔を伏せていたから、その雫が汗なのか、涙なのか、私にはわからなかった。


「妹がいたの」


 絞り出すように、彼女は呟いた。


「頑固で生意気で負けず嫌いで、だけど、いつもお姉ちゃんお姉ちゃんって言って後ろをついてくるような甘えん坊で。だけど、私が悲しそうにしていると、何も言わずにずっとそばにいてくれるような、そんな優しい妹だった」


 彼女は立ち上がり、記憶を握りしめた手を大きく振り上げる。だけど、振り上げた腕は空を向いたまま動かなくなり、そのまま彼女は再びしゃがみ込む。あの子じゃなくて、私が死ぬべきだった。かすれるようなその言葉は波の音にさらわれ、消えていく。もう一度捨ててしまうのだろうか。私はそう思って見つめていたけれど、彼女は決してそんなことはせず、無くさないようにその記憶を強く強く胸に抱きしめていた。この記憶を捨てた時の私の気持ちはわかるし、このまま思い出さないほうがきっと幸せなんだと思う。彼女は私の方を見ないまま、自分に言い聞かせるように話し始めた。自分に言い聞かせるように、ここにはいない誰かに話しかけるように。


「でもこの記憶はきっと、私が幸せになるよりもずっと大事なものだから」


 彼女はそう言って、立ち上がる。日が傾き始め、空は眠りにつく準備を始めていた。うっすらと茜色に染まった彼女はあちこちが砂で汚れ、汗と涙でメイクが崩れていた。そして、彼女の瞳は濡れていた。彼女はその瞳で水平線をじっと見つめていた。それから思い出したように私の方を見て、手伝ってくれてありがとうとお礼を言った。それから彼女は砂にまみれた格好のまま砂浜を去っていく。私は彼女の背中が見えなくなるまで見つめ続けた。最後に砂浜から道路にあがるための階段の頂上で彼女は振り返り、私に気がつく。彼女は手を振り、私も手を振りかえす。そして彼女は再び歩きだし、姿が見えなくなる。


 それと入れ替わるようにリザが私を迎えに砂浜に姿を現した。いつものようにリザは手を差し伸べ、私はその手を握り返す。帰りましょう。リザがそう言って、私が頷く。砂浜を歩きながら、私は隣を歩くリザを見上げた。リザは私の視線に気がつくと、少しだけ不思議そうな表情を浮かべてどうしたの?と聴いてきた。私はリザにどうして私はリザの記憶を捨ててしまったのと聴いてみる。リザは立ち止まり、私を見つめ返す。リザはその場にしゃがみ込み、私と同じ高さになって私の目を覗き込む。


 知らないほうが幸せなこともあるの。


 リザはそう言って、私を抱きしめる。私は両手をリザの背中に回しながら、顔をリザの右肩に埋めた。リザの身体からは、清潔な白いシャツを朝の光で乾かしたような、石鹸の香りがした。











 私は私が落とした記憶の内容は知らないけれど、その記憶がどこにあるのかは知っていた。


 リザが静かな寝息を立てながら眠りに落ちたのを確認してから、私はそっとベッドから抜け出し、リザの書斎へと忍び込む。そして、リザのキーケースから鍵を取り出して、机に横付けされた引き出しの一番下の段を開ける。引き出しの奥。そこに私の記憶があった。リザはもうどこにもないと言っていた、私の記憶が。


 記憶の場所を知ってから私は何度もこうして自分の記憶を確認し、それから勇気が出なくて記憶を元の場所に戻すことを繰り返していた。私はいつものように記憶を手にし、それを引き出しに戻そうとする。だけど、そのタイミングで私は今日出会ったあの女性のことを思い出した。


 暗い書斎の中で私は立ちつくす。耳を澄ますと、崖に打ち寄せる波の音が聞こえるような気がした。











 寝室に戻った時、リザは起きていて、ネグリジェのままベッドの縁に腰掛けていた。それから寝室に戻ってきた私を見て、何かを察したように力なく微笑んだ。


「ねえ、リザ」

「なあに?」

「私、ママとパパのところに帰りたい」


 私の言葉にリザは頷いた。リザは泣かなかった。泣いていたのは私だけだった。リザが立ち上がり、私の身体を優しく抱きしめてくれる。ママとパパのことも、リザのことも私は思い出していた。それでも私はリザのことが大好きだった。私たちはそれから同じベッドで横になり、遠くから聞こえる波の音に耳を澄ませながら手を握りあった。微睡へと落ちていく中でも、リザの冷たい手を離すことはなかった。おやすみなさいとリザが私の頭を撫でながら、耳元で囁く。そして眠りに落ちる寸前に聞こえてきたのはリザのこんな言葉だった。


 あなたの涙が必要ないような、幸せな夢を見れますように。


 次の日、私はリザと朝から荷物をまとめ始めた。私が持って帰るものは小さなキャリーケースに収まるくらいに少なくて、その事実が私をさらに悲しくさせた。荷造りが終わったあと、私たちは砂浜へ向かった。毎日を過ごしていた砂浜を私たちは手を繋いで歩いて行く。二人分の足跡はきっと明日には消えてしまい、私たちがそこを歩いていたということを知る人はいなくなる。


「でも、私は覚えてる」


 私は立ち止まり、そう言いながらリザを見上げる。リザは私の目をじっと見つめ、私もよと答えてくれた。


 帰りましょう。リザが私に語りかける。私は手を強く握り返しながら頷くことしかできなかった。


 それから私たちはリザの車に乗った。後部座席には私の荷物を詰め込んだキャリーケースが置かれていて、角を曲がるたびに右へ左へとずり動いていた。


 私の家は車で2時間もかからない場所にあった。私がいた場所が私の家から2時間もかからない場所にあったと言った方ががいいかもしれない。見覚えのある建物がちらほらと見え始めたあたりで私はここでいいよとリザに伝えた。リザが車を誰もいない歩道に寄せ、停車する。リザはハンドルを握ったまま、私にさようならと言った。それはリザの精一杯のお別れの言葉だってわかったから、私も同じようにさよならとだけ言って車にドアを開ける。


「どうしてリザは私を誘拐したの?」


 私は車の外に降り後部座席から私の荷物を取り出した後に尋ねた。リザが私の方を見て、優しく微笑み返す。


「一人ぼっちで泣いていたあなたの姿が、亡くなった私の娘にあまりにも似てたから」


 ありがとう。そう言って私は車の扉を閉める。私はキャリーケースを引きずりながら一歩ずつ自分の家へと歩いて行く。途中何度も振り返りそうになったけれど、私はグッと堪えて歩き続けた。


 いつか私は忘れたままでいた方がよかったと思う日が来るのだろうか。私はふとそんなことを考える。


 私がリザや、ママとパパの記憶を捨てたわけを今ではもうわかっている。ママとパパのことは好きだ。好きじゃなかったら、きっと私はあんなに悲しい気持ちになることはなかったし、あの日あの場所で一人ぼっちで泣くこともなかったんだと思う。


 私は、記憶を捨ててでもリザと一緒にいることを望んだ。記憶を捨てたのは、そのことが私にとってもそしてリザにとってもダメなことなんだって頭の片隅で理解していたから。


 私は耐え切れなくなって振り返る。リザの車はまだそこにいた。リザは私の方はみていなかった。代わりにリザはハンドルに頭を突っ伏して震えていた。


 私はぐっと涙を堪える。そしてもう一度歩き出す。舗装された道から、昨日の雨で少しぬかるんだ草の上を歩く。そして自分の家が見えたあたりで私はもう一度振り返る。もうリザの車はなかった。そこにあったのはただ、私一人分の小さな足跡だけだった。

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