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◆雲上院礼香
礼香は深く呼吸をした後、改めて相手の顔を見た。
眼前に立つ人物は、気が急いているのか、体が小刻みに震えていた。
「……お披露目会といい、成人の儀といい、いつも私の邪魔をしてぇ!」
「そんなつもりはありません」
礼香からすれば、邪魔をしてきたのは相手の方だ。
こちらから積極的に何かをした覚えはなかった。
余りの言いがかりに、今が戦闘中という事も忘れ呆れてしまう。
そんな礼香の仕草が気に食わなかったのか、紫前が大声で喚き叫ぶ。
「なんだその目はぁっ! 前に誘拐した時はブルブル震えて、怯えた目をしていたくせに!」
「……前に誘拐した時は?」
聞き捨てなら無い言葉だった。
それは一体、どういう意味で言ったのか。
「そうよ! あの時誘拐したのは私たちよ! 前は大人しく身代金を払ったくせに、なんで今度は契約しないのよ!」
「するわけないでしょう。それより、犯罪の自白なんてしてもよろしいのですか?」
本当にワケが分からない。
なぜそう考えるのか、なぜそう行動するのか。
礼香には、目の前の人物の思考が全く理解できずにいた。
「いいに決まっているでしょう! これだけの場面を見て生きて帰れるとでも思っているの!? お前たちはここで死ぬのよ!」
まるで自分に言い聞かせるように叫んだ紫前が霊装の剣を抜いた。
そして、怒りに任せ、無造作に剣を振り回す。
礼香は咄嗟に紫前との間合いを空け、刃に当たらないようにする。
なんと乱暴で力任せな太刀筋か。美しさは微塵もないが、明確な殺意を感じる。
だが、覚醒間際に聞いた話では、自分の身の安全と引きかえに父に不当な契約を結ばせようとしていたはず。
それなのに、生きて帰れないと言う。
普通に考えれば矛盾している。といっても相手の精神状態は正常とは思えない。
単にこちらが矛盾に感じても、相手は矛盾と感じていないだけかもしれない。
それとも、何か裏があるのだろうか。
「これだけ邪魔をして抵抗してくれたのだから、前よりもっと酷い目に遭わせてやる! すぐには殺さない! また閉じ込めてやるから覚悟しろ! あの時みたいにずっと泣き叫ぶがいいわ! 絶対に出しはしないけどね!」
「…………ッ」
紫前の威喝を聞き、当時の記憶が蘇る。
狭い空間、冷たいコンクリの床、カビの匂い、時々威嚇目的で鳴らされる打撃音。
途端、無意識に全身が強張った。首筋にじっとりと嫌な汗が滲む。
あの暗い場所が目の前に現れ、まるで自分を丸呑みにしようと迫ってきているようだ。
体に刷り込まれた恐怖が、じわじわと蘇ってくる。
――怖い。
自動的な反応のように、意思とは無関係に恐怖が膨れ上がる。
このままでは駄目だ……と思った瞬間、さっと温かい風が頬を撫でた気がした。
『今は怖くないですよ? 雲上院さんが手を握ってくれているので。とっても心強いし、安心です』
ふと、九白真緒に言われた言葉が蘇る。
あの時、手がとても温かかった。隣に真緒がいると感じられ、暗闇に対する恐怖が薄れていったのを思い出す。
途端、両手に微かなぬくもりを感じ、礼香ははっと我に返った。
顔を上げれば、紫前が霊装の剣を振り下ろす所だった。
礼香は自由になった体を動かし、自然な流れで荒々しい刃をかわす。
剣をかわされたことが癪に障ったのか、紫前は顔を歪めた。
「……こざかしい。こうやって、音を鳴らしたら泣き叫んでいたくせに!」
紫前は、剣で力任せに壁を叩いた。
ドン、ドン、ドンと、耳に覚えがあるリズムを刻む。
あれは閉じ込められた時、昼夜問わず不定期に鳴らされた音。
いつ鳴るか分からず、精神を消耗させられた。
とても怖かったことを覚えている。
音が体に沁みこみ、心に刻まれた記憶が鮮明に蘇る。
結果、自然な反応として身が竦んでしまう。
「あはは! ほらほら!」
礼香の反応に気付いたのか、紫前が嬉しそうに壁を叩きながら近づいてくる。
……早く、動かないと。
心は焦るが、体が思うように動かない。
礼香は目をきつく閉じ、刻み込まれた記憶を振り払おうとする。
だが、暗闇に呑まれ、手の感覚が薄れる。
握力がじわじわと失われ、霊装を手放しそうになる。
が、次の瞬間――、またもや手のひらに言い知れぬ温もりを感じた。
まるで自分の手を誰かが両手で包み込んでくれているかのような安心感。
それが暗闇を灯す明かりのように思えた。
『それなら一緒だね。私、どんな時もレイちゃんの味方だから』
夜に明かりをつけるようになってから初めて消灯した日に言われた言葉。
そう言われ、どんなに心強かったか。
そして、自分も相手にそう言える存在になりたいと願った。
温かさが手から全身へと広がり、冷え切って遮断された感覚を呼び戻す。
すると、じんわりと緊張が弱まり、体に柔軟さが戻る。
かっと目を見開くと、紫前が切りかかってくるところだった。
礼香は霊装の洋扇で相手の剣を捌き、攻撃を逸らした。
「生意気な!」
攻撃を捌かれて体勢を崩した紫前が、踏みとどまる。
強引な体重移動で振り返り、勢いよく剣を振り回す。
「所詮、元は無属性! 足掻いて、一属性! そんなゴミのような存在が! 三属性の私に! 何かできるとでも思ったの! 今まで通り、私のために攫われ、金を寄越していればいいのよ!」
紫前は稚拙な示威的恫喝を繰り返し、何度も何度も力任せに剣を振り下ろしてくる。
礼香はその迫力に気圧され、防戦するので精一杯になってしまう。
振るわれる一太刀が強烈な憤怒と軽蔑の情を帯び、一撃一撃が重い。
しかし、そのひと言ひと言、一太刀一太刀は一切謂れがないものだ。
ここまで身勝手な思いをぶつけられるのは初めてだった。
何を言っているのだ、この人は。
一撃一撃を防御するたびに、疑問を覚えた。
一撃一撃を防御するたびに、思い出が頭をよぎった。
霊力を得ようと、霊薬を飲み続けた日々。
霊力を手に入れ、修行に明け暮れた日々。
そんな時間を過ごしてきたことを目の前の紫前は一切知らない。
だが自分は知っている。
小さな壁を越えて、少しずつ前に進んできたことを。
修練に取り組んで得られる小さな変化に喜んだ毎日を。
――私は知っている、誰よりも。
そのことについて、他の誰かがどう思っていようが関係ない。
何を言おうと聞くに値しない。
何故ならその事に関して、自分より詳しい者などいないのだから。
そう思った瞬間、相手の言葉が薄く空虚なものに感じられた。
こんなものを重いと感じる必要は無い。そう思えた。
こんなものを重いと感じてしまうような日々を送ってきてはいない。そう再認識できた。
「わたくしが貴方の攻撃を捌けるのは、無属性であり一属性だったから。わたくしがゴミだというのなら、さっさと負かしてみせればいいのです」
あの日々を誰かが否定しようとも、自分はそうは思わないとはっきり言い返せる。
「うるさい、黙れ! 何の役にも経たない存在が! 私の汚点のくせに! お前など娘とは認めない! 今ここで殺してやる!」
紫前は言葉の一つ一つに呪詛を込めるように罵り、それにあわせて何度も剣を叩き付けて来た。
ここまで関係がこじれてしまったとはいえ、面と向かって娘である事を否定されたことには多少なりとも動揺を覚えた。
この人は一体なんなのか。礼香の常識では測れない存在だった。
そんな時、優しげな父の顔が頭に浮かんだ。
いつも自分のことを気に掛けてくれ、その言葉と行動から、とても大切にされていると実感させてくれる存在。
もし、親と呼べる存在が紫前増美だけであれば、この状況で冷静でいられなかったかもしれない。
鬼気迫る異常さに、呑まれていただろう。
そして、次に九白真緒の顔が頭に浮かぶ。
弱気になった時、いつも傍に居てくれた人。
水族館、霊薬、夜の就寝、いつも隣で応援し、真っ先に褒めてくれた人。
真緒と過ごした優しい時間が言い知れぬ温かさとなり、紫前の歪んだ顔を薄れさせる。
怖くないと思えたのは独りじゃないと思えたから。
父、真緒、それ以外にも沢山の人が自分を支えてくれた。
そんな人々の存在を心の中に確かなものとして強く感じる。
温かい気持ちが全身を満たすほど溢れてくる。
皆の存在を強く感じれば感じるほど、目の前の存在がちっぽけに思えてくる。
「貴方の役に立つ為に生きて来たわけじゃない。わたくしは……」
礼香は振り下ろされた剣を洋扇で受けた。
刃と洋扇が火花を散らしてぶつかり、鍔迫り合いとなる。
「紫前の言葉なんかに耳を貸すな! 礼香は私の大切な宝物だ! 今行くぞ、礼香!」
紫前の今までの言葉を聞いていたのか、叫んだ父が誘拐犯たちを退けながら礼香の方へ向かって来る。
「お父様……」
そんな父の必死な姿を見て、胸に熱く込み上げてくるものがあった。
膂力、霊気、共に漲り、ジリジリと刃を押し返す。
『つまり、何が言いたいかと言うと、霊力なんて、あってもなくてもレイちゃんは凄いんです!』
『そうだな。礼香は凄い。よく頑張っているよ』
それを後押しするかのように、真緒と父に言われた言葉が頭を過った。
(ありがとうございます、マオちゃん、お父様……。わたくしは……ッ!)
礼香は全身に満ちた霊気を存分に使い、紫前の剣を弾き返した。
「なっ!?」
剣は紫前の手を離れて飛んで行き、床に転がった。
「わたくしの中に貴方の居場所は無い」
全身の霊気を循環させ、瞬発力を高める。
強烈な霊気の奔流が礼香の全身をほんのりと赤く輝かせた。
「な……、なんなの、その霊気は!?」
驚愕した紫前が、じりじりと後退る。
「わたくしは雲上院礼香。雲上院に名を連ねる者として、貴方のような存在に負けはしない」
その声音は荒ぶることなく、どこまでも静穏。
礼香は紫前増美に洋扇を向け、威風漂う視線を飛ばした。
「キィイッ! お前のようなものが居ていいはずがないのよ!」
紫前が金切り声を上げて否定しながら突撃してくる
その手に剣はなく、無手。
感情に支配された理性の無い行動だった。
「…………」
礼香は冷静に紫前の拳をかわし、その手を取る。
そのまま、護身術を使って投げ飛ばした。
受け身を取れなかった紫前が地面に激突し、大きな音が鳴る。
それとほぼ同時に、父も誘拐犯の制圧を完了させていた。
そして次の瞬間――、何の前触れもなく扉が轟音と共に吹き飛んだ。
強烈な音が響き、その場にいた意識のある全員の視線が扉に集中する。




