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 入場してすぐに雲上院礼香が立ち止まった。


「どうかしましたか?」


 と、様子を窺う。


「えっと……、なんでもありませんわ」


 そうは言うが、一歩も進もうとしない。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


「問題ありません!」


 黒服さんにも心配される雲上院礼香。


 なぜ立ち止まったのだろうかと様子を窺えば、震えているのが分かった。


 さっきまではドキドキワクワクといった感じだったのに、今は真っ青な顔をしている。


 必死に隠そうとしているが、手を強く握りしめ、歯を食い縛っている。


 力んで震えをこらえようとしている感じだ。


 進みたいのに、進めない、そんな印象を受ける。


 今まで普通に歩いていた場所と、立ち止まった先にある場所で、何か違いなんてあるかな?


 雲上院礼香の反応を見ながら原因を探る。匂い? 音? 苦手な人がいるとか?


 ――いや、違う。明るさだ。


 水族館は薄暗い。


 人がいる館内の照明は絞られ、逆に魚のいる水槽の照明は日が降り注ぐように明るい。


 それは、明暗差で人を見えにくくし、魚へのストレスを軽減する為だ。


 そのため入り口から内部を見ると、かなり暗く見えた。


 彼女は暗い場所を怖がっているんだ……。それにしても異常な恐れ方だ。


 もしかすると、誘拐された時の事を思い出してしまうのかもしれない。


 予測の上の予測だから、さすがに違うかもしれないが、何かしらストレスを感じているのは確かだ。


「気分が優れないなら、外で休憩しますか?」


「な、何ともありませんわ!」


 強情である。


 黒服さんに言えば、無理にでも外へ連れ出してもらうことはできる。


 ――でも、外で休ませることが正解だろうか。


 彼女は一歩も下がろうとしていない。恐怖に抗おうとしているように見える。


 すごく頑張っているように見えるのだ。


 それなのに安易に逃げ道を用意するのもどうかと思う。


 う〜ん……、ここは一つ、前みたいに言い方を変えて誘ってみるか。


 それでダメなら、撤退プランを採用しよう。


 無理せず、外で楽しい場所でも探せばいいのだ。うん、そうしよう。


 ――では実行だ。


 さて、何て言おうか……。


「あの……恥ずかしい話なんですが、私、暗い場所が苦手で。もし雲上院さんさえ良ければ、水族館にいる間は手を握っていてもらえませんか?」


「手、ですか?」


「はい、こんな感じで。そうすると落ち着くんです。お願いできないでしょうか」


 そう言って、ちょっと強引な流れで手を繋ぐ。


 初めこそガシッと力強く握られたが、段々と力が緩んでいくのを感じた。


 それに伴って、身体の緊張も幾分か和らいだように見える。


「に、苦手なら、仕方ありませんわね! 水族館の中だけですわよ? 見かけによらず、九白さんは怖がりなんですのね」


「今は怖くないですよ? 雲上院さんが手を握ってくれているので。とっても心強いし、安心です」


「そ、そう! それは良かったですわ! それじゃあ行きますわよ!」


 そう言って、彼女は言葉の勢いに任せて一歩踏み出した。


 その後は、流れに任されるように、二歩、三歩と中へ進んで行く。


 もう、ためらって止まることはない。


「綺麗な魚が一杯ですね」


 私は、暗闇を意識させないよう、展示されている魚へ視線を誘導する。


「どれも見た事がない魚ばかりですわ。九白さん! あの魚、光ってますわ!」


「本当ですね。近くで見てみましょうか」


 などと二人で話しながら、順に見て回る。


 それぞれのテーマにそった様々な展示。トンネル状など、工夫を凝らした水槽。


 細部までこだわった作りは、主役の水生生物を際立たせる演出となり、見る者の好奇心を刺激した。


 楽しそうに笑顔を振りまく雲上院礼香にグイグイと手を引かれ、奥へ奥へと進んで行く。


 水族館にいるというワクワク感が打ち勝ち、暗い所に対する忌避感が薄れたように感じる。


 今の彼女は、水族館を心から楽しんでいるように見えた。


 二人で順路を進んで行くと、巨大な水槽にたどり着いた。


 水槽内では、多種多様な魚が群れを成して泳いでおり、海の中を擬似的に再現したかのような場所だった。


 じっと見ていると、吸い込まれてしまいそうな錯覚を受ける。


 まるで、海底に沈んでしまったかのようだ。


 これは素晴らしい。私は言葉を失い、水槽に見入っていた。


「あの……、九白さん……」


 不意に、雲上院礼香に声を掛けられる。


「はい」


「こ、この間…………」


 と、途中まで言いかけて、口をつぐむ。そしてそのまま、数秒の沈黙。


 先を促すべきか、待つべきか――。


 表情を窺うと、今にも言葉を発しそうな雰囲気だ。


 まあ急ぐわけでもないし、ゆっくり待ちますか。


 周囲の喧噪が遠ざかり、無言の時間が過ぎていく。私は魚群を観賞し、のんびり過ごす。


 すると、その沈黙を破るように、水槽の前にマンタが近づいて来た。


 圧倒される大きさだ。


 束の間、二人でマンタを目で追う。


 照明を覆うほど大きなマンタが通り過ぎると、水槽が再び明るさを取り戻す。


 魚群の鱗が反射し、キラキラと光って見えた。なんとも幻想的だ。


 次の瞬間、雲上院礼香の手を握る力が強まった。


「――こ、この間は、お、おかしなことを言って、ごめんなさい!」


「この間?」


 なんだっけ? そもそも、そんなに会話してないんだけど。


 金曜に初めて会って、土日が休み。


 会話なんて、今日の予定を決めた位なんだけどな……。


 私がピンと来ていない様子を見て、彼女はオロオロし始める。


「その……、貴方に対して、付き従えなんて、とても失礼なことを言ってしまいましたわ」


「ああ〜……」


 そういえば、そんなことを言われたっけ。


 死亡フラグとか思い出してて、すっかり忘れてしまっていた。


「あの日、夕食の時に学校での出来事をお父様にお話したんですの。そしたら……、叱られてしまいました……。わたくし、お父様をとても落胆させてしまいましたわ……」


 へぇ、てっきり親子揃って傲慢で人を見下す偏見持ち、みたいなのを想像していたんだけど。


 父親は普通の人っぽいし、雲上院礼香も反省して謝ってきたよ。


 あの雲上院礼香が謝るなんて、意外だな。


 マンガでは、頭を下げるシーンなんて一度もなかったような……。


 う、――だめだ。この考え方はいけない。


 これでは、偏見を持っているのは私の方だ。


 マンガの知識で人を見てしまう。


 記憶を元に予防線を張るのはいい。


 マンガの知識があるから、先入観を持ってしまうのも仕方がない。


 だけど今は。


 ――今は、目の前にいるこの子を見ないと。


「そんなひどい事を言ったのに、水族館に誘ってくれるなんて、普通はあり得ない。その人にちゃんと謝罪しなさいと言われたんですの。わ、わたくしも、あんな風に言うつもりは、なくて……。いえ! 言い訳しているとか、そういうことじゃないんです!」


「そうなんですか?」


「は、はい……。何て言えばいいのか分からなくなってしまって……。舞鶴さんたちといる時も、そうなんです……。普通に楽しくお話ししたかっただけなんですが、気がつくと……いつも……。今日だって、本当は車の中で謝るつもりだったんです……。だけど、言い出せなくて。気がついたら水族館まで来てしまって……。中に入ってから、言えばいいと先延ばしにして。でも、入れなくて……。このままじゃ、終わりになってしまうと思ったから……!」


 俯いた彼女は、言葉を詰まらせ、目には薄っすら涙が浮かんでいた。


 ――雲上院礼香には、多分トラウマがある。


 それを振り切り、普通に振舞おうとするには、勢いをつけねばならない。


 勢いを付けた結果、勢い任せのちぐはぐな言動になり、周囲の誤解を生む。


 でもそれは、前に向かって進もうとする結果、生じたこと。


 積極的に自ら変わろうと、もがいているのだ。


 そう考えると、彼女はとても強いと思う。


 今日も、暗闇を前に一歩も引かなかった。


 その理由は、私に謝るため。


 私が同じ立場だったとして、果たして立ち向かえるだろうか。


 緊張と重圧に耐えられるだろうか。


 凄い子だな、と素直に思う。


 母に連れられ、色々な所を回ったから分かる。


 年齢に関係なく、こういう行動をとれる人は多くない。


 とても興味を引かれる、魅力的な性格の持ち主だ。


「大丈夫、気にしていませんよ。水族館が楽しくて、そんな事は忘れていました。それより、私から一つお願いがあるんですけど、聞いてもらえませんか?」


「……お願い、ですか?」


 彼女は顔を上げ、首を傾げた。


「はい。その……、私とお友達になってもらえませんか?」


 う、ちょっと照れてしまった。


 ――こうやって話してみて、考えを改めた。


 彼女の持つ、敵わないと感じるものと正面から向き合う力、自分の弱い部分を打ち明ける力。


 どちらも、私が身に付けたいと思っても、そう簡単には真似できないものだ。


 心から尊敬する。


 そんな彼女が前へ進むため、少しでも力になりたい。


 そう思った。


 やんちゃな発言は、本人も直したいみたいだし、きっと変わることができる。


 だから――


「お友達……、わたくしと……ですか?」


「はい、ダメですか?」


「だ、駄目ではありません!」


「なら決まりですね。ついでに名前で呼び合うようにしましょう。初めは苗字で呼び合って、途中から名前に変更するのって、タイミングが凄く難しいので。雲上院さんは、礼香ちゃんとレイちゃん、どっちがいいですか?」


 私は両手で彼女の手を握り、グッと顔を近づけてスマイル。


 逃がさんぞ。


「え? あ、えっと……、レイちゃん?」


 雲上院礼香こと、レイちゃんは、顔を真っ赤にしながら小声で答えてくれた。


「じゃあ、私はマオちゃんで。マッちゃんは嫌だからね」


 二文字の名前なので、余り選択肢がない。いや、あだ名が安定するから嬉しいけど。


 マッちゃんも、オッちゃんも、却下だ。


「わ、わかりましたわ。………………マオちゃん」


 誰かを名前で呼ぶことに慣れていないのか、凄く間があった。


「ん。じゃあ、改めてよろしく。続きを見て回ろ」


「は、はい!」


 という訳で、水族館巡りを再開。


 魚だけでなく、ペンギン、ラッコ、アザラシなども観賞。


 最後はお土産コーナーで締め。


 お土産コーナーでは、お揃いのぬいぐるみを買って退館となった。


 外の明るさが差し込んでくる場所まで移動したので、繋いでいた手を離す。


「あっ」


 丁度その時、レイちゃんが何かに気づいたようで、急に駆け出した。


 走って行く先には、スーツを着た高齢の女性が立っていた。


 髪は白く、顔にはしっかりと皺が刻まれ、目元にある大きな傷痕が特徴的な人だ。


 それなりの年齢のはずだが、背筋はしっかりと伸び、目がギラギラとしている。


 漲った力が全身から溢れ出してくるかのような錯覚を受けてしまう。


 発せられる雰囲気が、母と似ている気がしないでもない。


 ひと言で言えば、厳ついんだよね……。


「外に出られるようになったのですね」


「はい! お祖母様!」


 どうやら、女性はレイちゃんの祖母らしい。


 二人の雰囲気から、久しぶりに会ったように感じるけど、家が遠いのかな。


「返事も元気だ。何か困っていることはありませんか?」


 そう言いながら、レイちゃんの頭を撫で、柔らかく目を細める。


「大丈夫ですわ。聞いてください、お祖母様! わたくし、今日、初めてお友達ができたんですの!」


「それはよかった。あの子がそうなのですか?」


「はい。九白真緒ちゃんですわ」


 と、二人の視線がこちらに向いた。お祖母さんに向け、ペコリと頭を下げる。


「初めまして、九白真緒です。礼香さんとは最近知り合って、今日お友達になりました」


「そうですか。仲良くしてあげてください」


「お祖母様、どうしてこちらに?」


「時間が取れたから、家の方に顔を出したんだけど、こっちだと言われましてね。こんな所に出て来られるなんて想像していなかったから、驚きました。本当に元気になったのですね」


「去年から学校も通っているんですのよ! えっと、他にもお話したいことが沢山あって……。今日は泊まっていかれるのですか?」


「残念だけど、仕事です。また顔を出すから許してください」


「……はい」


「九白さん、礼香さんをよろしくね。それじゃあ失礼しますね」


「……あ、いえ、こちらこそ」


「もう行ってしまわれるのですか?」


「ごめんね。今度は昭一郎さんも一緒に食事でもしましょう。それじゃあ、元気でね」


 レイちゃんのお祖母さんは、ほんの少し話すと、すぐにどこかへ行ってしまった。


 きっと、忙しい方なんだろう。それでも、時間を作って会いに来たって感じだ。


 お祖母さんが乗る車に、力いっぱい手を振るレイちゃん。


 見送りを終えると、私の方へ振り返った。


「今日は……、いろんなことがありましたわ。初めて水族館に行って、ペンギンを見て、ラッコを見て。最後にはお祖母様にも会えました……。マオちゃん……、わたくし、今日はとても楽しかったですの!」


 レイちゃんは、満面の笑顔だった。


「じゃあ、今度予定が空いた日は、二人で映画に行きましょうか」


「っ! そ、そうですわね。映画も行ってみたいです!」


 映画も舞鶴さんたちとは行けてなかったし、次の予定は決まりだな。


「あ、でもレイちゃんの家のホームシアターで見る?」


 凄く広いらしいし、そっちの方がリラックスして見れるんじゃないだろうか。


「映画館がいいです! 行った事がないので、マオちゃんと行ってみたいですの!」


 ブンブンと、首を横に振るレイちゃん。


 なるほど。そう言われたら行くしかない。映画館で決定だ。


 早速帰りの車内で、上映中の映画をチェック。


 何を観に行くかで盛り上がった。


 これは、来週の日曜日の予定が決まっちゃったかもしれない。





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