親友の元カノ
金曜日の夜は、決まって松村の所で部屋飲みだった。
「本当は外で飲みてーけどよ、コレがな」
人さし指と親指で輪を作り、笑いながら金欠をアピール。俺達には安い缶チューハイがお似合いだった。
「課題終わった?」
「まだ、明日から本気出す」
「ホントォ? 昨日もそう言ってなかったっけ?」
「ホントホント」
松村にべったりと寄り添うように、彼女はいつもそこに居る。決まってレモンサワーを飲み、ドーナツをフォークで切ってはお互いの口に運んでいた。
「とっしーは? 会社忙しいの?」
「昨日は部長があくび24回してた」
「暇過ぎでしょー! ウケるんだけど!」
スカートの上から膝を叩き、彼女は大きく口を開けて笑っていた。
「あれ? 全部空か?」
テーブルの上には、よくもまあ空けたもんだと言わんばかりの酒の空缶がぎっしり。
「よし、じゃあジャンケンで負けた奴が買い出しな」
追加の買い出しもいつものこと。
「あ゛ーっ! また俺の負けかよ……」
「良樹弱すぎ~」
松村が買いに行くのも、いつものこと。
酒が入るとグーしか出さなくなるのだが、誰も言わないから本人だけが知らぬまま。
「ちぇっ、じゃあ行ってくるから。なんか勢いで不味そうなの買ってくるかもしれないから、敏也が飲め」
「ええっ!?」
「とっしー頑張れ♪」
ふらふらと部屋を出ると、彼女はいつもの定位置からスッと身を乗り出して、すぐに俺の隣ににじり寄る。
「ねぇ、とっしー」
「はい」
アーモンドが入ったチョコレートを口に入れながら返事を返す。俺はチョコとナッツ類を初めて組み合わせた人にノーベルおつまみ賞をあげたい。
「ねぇ、とっしー?」
「はいはい」
少し酔っているのだろうか。彼女は膝を崩し頬杖をついては、俺に笑いかけた。
「とっしー」
「はいはいはいはい」
「とっしー?」
「なんでしょう」
「……ばーか」
「ひどい!」
「クスクス」
本当にクスクスと笑いながら、彼女は俺のアーモンド入りチョコを一つ取っていった。屈託も、偏見も、何も無い真っ白な笑顔だった。
「コレ美味しいよね」
「自分の中で三種の神器の一つに認定してます」
「あと二つは?」
「イカそうめんとポテトチップ」
「あー、分かる」
二つ目のチョコを摘まみ、口へ運ぶ途中でその手が止まった。
「とっしー、目を閉じて」
「え?」
「閉じなさい。そして口を開けてなさい」
まるできつめの先生の様な口ぶり。素直に目を閉じると、自分の座っている座布団の前の方に、彼女の手で凹む感触を感じた。より近く彼女が居るのが熱を帯びた空気から感じられた。
「……上から〇〇、CCCの〇のC」
「何してるんですか」
温かい、レモンサワーの匂いがした。
「歯科検診」
「虫歯多すぎませんか?」
「ちゃんと歯磨きしてますか?」
「最近電動歯ブラシを買いました」
「どう?」
「いい感じです」
「そ」
「そろそろ目を開けてもいいですか?」
「いいよ」
目を開けると、彼女の顔が本当に目の前まで迫っていた。もう少し近づけばキスが起きてしまいそうな、僅かな距離。そして何より彼女の部屋着シャツの首元の隙間から、柔肌が見えてしまい咄嗟に顔を引っ込め目をそらした。
「……今おっぱい見たでしょ」
「見てないです」
「見たでしょ?」
「ミテナイデス」
「見たよね? 正直に言いなさい」
「不可抗力です、はい」
「どうだった?」
「!?」
彼女の意地悪そうな笑顔が、より一層強くなる。
どうだ、と言われても『はい』も『いいえ』も言えない訳で、仕方なく別な話題が無いものかと、咄嗟に置いてあったゲーム機の電源を付けた。
「ふーん……とっしーはムッツリ、と……」
「チガイマス」
「じゃあ、勝ったら見てもいいよ?」
「──ぁ!?」
使い込まれ、少し色のハゲた黒いコントローラーを手に取ると、彼女はそれをシャツの下に入れ、その上から握り締めた。滑りがうんぬんらしく、初めて会った時からそのスタイルを貫いている。
「……」
「ちょ、ちょちょちょ! とっしー本気出してない!? これがスケベパワーというやつなの!?」
「チガイマス」
元々実力に差がある。俺が彼女に負けたのは今までに二回目だけだ。
「グワー、トッシーニマケター」
そのまま後ろ向きに倒れた彼女。シャツが捲れ、コントローラーがコロリと転がった。
「……見てもいいよ?」
「ナニヲデスカ!?」
捲れたシャツ。僅かに見える脇腹。そして無防備な彼女。
分かってる。これは──
「おう、帰ったぞ~」
「おかえりー」
彼女は素早く起き上がり、靴を脱ぐ松村の後ろから抱き付いた。
「とっしーが嫌らしい目で私を見てくる」
「なにをっ!?」
「──なっ!」
「敏也お前人の彼女をそんなギラついた目で見てたのか!?」
「見てない見てない!」
「そんなお前には、このハイボール六本木二丁目味を飲ませてやる!」
「なにこれwww」
松村がバッグから取り出したのは、値引きシールが何重にも貼られた安いハイボールだった。お酒でここまで値下がりするくらいだ、味は酷い事が楽々と想定できる。
「ほら」
グラスに半分注がれた二丁目味。色はほのかに青い。ハイボールなのに……。
「い、いただきます」
仕方なく一口。
「あ、悪くないかも」
「ちぇっ」
「とっしー私にも頂戴」
彼女は、俺が缶を手渡すよりも速く、俺のグラスを取って一口飲んだ。
「……う、う~ん。微妙……」
「俺は止めとくよ。まだあるから全部飲め」
笑いながら松村がバッグから取り出した二丁目味を二本、俺の前に置いた。
「……まあ、これくらいなら飲むけど」
「──で? 敏也は彼女作らないのか?」
酒が進み、酔いが回り、三人はハイになっていた。
「作り方が分かりません」
「えーっ? 好きな人に結婚して下さいって言えばいいんだよ」
「それはプロポーズ」
「敏也はきっと『俺の味噌汁を作って下さい』とか言いそう」
「言いそうwww」
「言わないって」
「言ってみ言ってみ」
「とっしー、私に言ってみて?」
「……」
意表を突かれ、少し冷静さが戻った。
「……お、俺の……」
「緊張するなし」
「とっしーファイト」
「──お、俺の味噌汁になってください!」
「なんでだよ」
「みそしるwww」
腹を抱えて笑う二人。俺は酒と恥ずかしさで顔が異常なまでに熱くなってしまった。
「今の相手はなんて答えればいいんだよ」
「とっしー教えて」
「…………わたし、減塩だけどいいですか? かな」
「ヒャヒャヒャ!」
「減塩www」
またもや抱腹絶倒の二人に、ただ静かに二丁目味を口にして笑った。
そして、いつの間にか二人は眠ってしまった。
「……じゃ、帰るね。カギはポスティングしとくから」
隣り合い眠る二人にそっと挨拶をし、真夜中の歩道を歩いた。
「……最近彼女見ないけど」
「あ、別れた。そう言えば敏也に言ってなかったわ。わり」
「いや、いいんだけど……」
松村が彼女と別れたのを知ったのは、あれから三ヶ月後だった。あの日以来俺は仕事が忙しく、余り顔を出せずに居た。
久々にラーメンでも食べようと向かった行きつけの店で、松村から衝撃的な発言が飛び出した。
「因みに……なんで?」
「大学の後輩と二人きりで居るときに出くわして、それ以来なんかギスギスになった。ただ分からない所聞かれて教えてただけなんだけどな」
「そ、そう……なんだ……」
と、あっけらかんと笑う松村のスマホが鳴った。
「わり。ちょっと電話。大学の後輩」
「あ、うん」
席を立つ松村はスマホを耳に当てながら外へ向かっていった。今の隙に奴の
ギョーザを一つ失敬しよう。
「あ、もしもし美由紀ちゃん? この前の課題大丈夫だった?」
ガラスの向こうで電話する松村は、とても嬉しそうに笑っていた。
「なんでそんな簡単に切り換えられんだよ、バカが……」
段々気持ちが落ち着かなくなり、気が付けばギョーザを全て食べてしまっていた。
五分くらい過ぎ、戻ってきた松村はギョーザの事など気にするでもなく、残ったラーメンをサッと食べて、用事が出来たと行ってしまった。
「…………」
聞くチャンスを失った俺は、それから一ヶ月……半年……一年……一年半……松村と連絡も取らずにただ一人何をするでもなく静かに日々を暮らした。
仕事帰りにスーパーへ立ち寄った。夜は値引きシールが心に染みる。
先にトイレへ向かおうと通路を歩くと、見覚えのある顔と目が合った。
「あ」
「!?」
向こうから、声が掛かった。が、確信が持てなかった。
「とっしー久しぶり!」
「あ、あ! あーっ!」
思わず声が出た。
「良樹は元気?」
「……ま、まあ、多分」
松村の名前が出たことに、少しだけモヤッとした。別れても気遣いがあるのは、どういう事なのか気にはなるが、会話のネタ的にアイツの名前が出るのは仕方ないことなのだろう。
「多分?」
「最近連絡してない」
「そうなの? どしたの? あんなに仲良かったのに」
あなたの事でそうなりました。とは口が裂けても言えるわけがない。
「まあ、元気そうでなにより。じゃあね」
「ちょっ!」
言葉より先に手が出ていた。気が付けば彼女の肩に手を置いていたのだ。
「……トイレ。行ってからで良いかな?」
「ア、ハイ。ゴメンナサイ」
にこやかに笑う彼女に、引きつった笑いしか出ない俺。仕方なく外で待つことに。
「ごめん、おまたせ」
「あ、うん。こっちこそごめん……」
ちょいとばかり気まずくなり、下を向いた。
「今ごろ……どうしてるかなって……」
「え?」
「あれからいきなりだったから……その」
「……もしかして、心配してくれてたの?」
「イヤ、ソノ……ナントイイマスカ……」
「心配してくれてたの?」
「……マア……ハイ」
「……ゴメンね」
彼女のつぶやきと、頭に暖かい手が触れた。
「多分良樹から聞いたと思うんだけど……なんか余裕無くなっちゃってさ……酷い女だよね、わたし」
「そんな事は……」
「あれから二人くらい彼氏出来たけど、やっぱりダメだったから……悪いのはきっと私なんだと思う」
「そんな事は……」
「とっしーはちゃんと良い彼女作りなよ?」
「……俺に今居ないと決めつけたよね?」
「えっ? 居るの?」
「イマセン」
「ほらー」
湿っぽい空気に、少しだけ明るい色が戻った。懐かしい色だった。
「ふふ、久々にとっしーと話せて良かった」
「なによりです」
「じゃあね」
「……」
彼女が歩き出した。スーパーへではなく、車の方へ。
「待って下さい!!」
「──?」
俺は、俺が言いたい事は、既に決まっていた。後は覚悟だけだった。
「お、俺の…………俺の味噌汁になってください!!!!」
静かな駐車場に、俺の声が響き僅かな残響だけが辺りを包み込んだ。
「…………」
振り向いた彼女は、少し困った様な顔をして笑った。
「……私、減塩だけどいいですか?」
上着のポケットに手を入れたまま、彼女は恥ずかしそうにこたえてくれた。
「何杯でもおかわりします!!」
「ウケるwww」
彼女は……笑いながら俺に抱き付いてきた。
そして……そっと泣き始めた。
「悪い女だって言ってるのに……!」
「……」
「しかもそれってプロポーズ用じゃん」
「プロポーズですから」
「……ばーか!」
「ひどいっ!」
彼女はしばらく俺から離れなかった。
「……ねぇ、とっしー」
「はい」
「明日は休み?」
「仕事です」
「土曜なのに……」
「……も、もし休みだったら?」
「飲もうかなって」
「飲みましょう! 今から飲みましょう!」
「いいの?」
「イエス」
「じゃあ私の家で」
「えっ?」
「ココで買い足しちゃおう」
「えっ、今大声でプロポーズしたから恥ずかしい訳でして」
「安さに勝る物無し。問答無用!」
「ア、ハイ……」
二人並んでスーパーへ向かう。
「そう言えば、とっしーって最初から私の事飢えた野獣みたいな目で見てたよね」
「ソ、ソウデショーカ?」
「チラチラ胸とか見てたし」
「キノセイカナー」
「絶対ずっと私の事狙ってたよね? ね?」
「ドーカナー」
「あーっ、家呼ぶの止めようかな。なんか襲われそう~」
「何もしません何もしません」
「……いいよ」
「え?」
「ずっと私の事、見てていいよ」
「いいの?」
「ずっと……約束だよ?」
スーパーの入口でそっとされた初めてのキスは、涙の味だった。