ようこそ屑籠の世界へ
「はぁ…はぁ…はぁ………」
うだるような暑い夏の日、私は王国のはずれの森を走っていた。
早鐘を打つ心臓、乱れた息。肩はかつてないほど上下する。滝のように流れ出る汗ができたばかりの生傷に沁みて痛い。鋼鉄とまで謳われた精神はここぞとばかりに乱れ、心拍の乱れが疲労を加速させていく。
「こっちか!」
「…っ!」
男の声と共に軽鎧の足音ががしゃがしゃとせわしなく迫ってくる。無意識に気配を探れば、鋭敏な感覚が15人の軽装兵を捉えた。少女一人殺すのにここまでの人員を割くか…。
「殺せる………でも、無力化は出来ない………」
平時であれば朝食の片手間に組伏せられたであろう。だが、今の私ではそれは出来ない。
全員殺してしまうか、この場を去るか。
私は迷わず逃走を選んだ。実力は低くても王国の兵士。殺してしまえば国に損害を与えることになってしまう。
身を屈めながらも速度を落とさず走り抜ける。鬱蒼とした森の視界の悪さを使って陰から陰へ。
「どうして………どうしてこんなことに…」
尽くした国に裏切られ、兵を向けられる。
その無情すぎる事実に不撓不屈でなければならない精神が酷くざわついた。絶えず回転していた足を思わず止め、祖国の方角に視線を向ける。
「今頃、戦勝記念パレードでも催されているのでしょうか…」
さすがの私でもこの距離では何も感じられない。しかし民は大喜びしているに違いない。それだけは分かる。
我が王国は長い我慢の時を乗り越え、ついには隣国を打ち破って国土を広げた。戦争で底辺まで落ちた生活はきっと戦前よりも向上していくだろう。
敵兵を数えきれないほど屠った身としては誇らしくもあり、その幸福を共に分かち合えない身としては悲しくもある。
「………」
胸が張り裂けそうな苦痛に目を背け、祖国の方角に背を向けた。
気のせいだ。苦しくなどない。
目尻から溢れる涙は痛みのせいにして、私は逃げるように駆け出した。
「うぐっ……ひぐっ…」
きっと私の顔は酷いことになっているだろう。顔はくしゃくしになり、止めようにも止まらない涙でグズグズに濡れている。
「どこに行けばいい……何をすればいい? 愛する祖国に帰れず、何故生きればいい!!」
呟くような独白は気が付いたら叫きへと変わっていた。きっと生まれて初めての…心からの慟哭。
「かわいそうに………ああ、かわいそうに」
その気配は唐突に現れた。誰もいなかったはずの場所に唐突に。
「………だれ?」
敵だろうか? 敵だろうな。味方など、もうこの世界には一人もいないのだから。
たった今生きる意味とやらを失ったばかりの私は無警戒に声へと目を向ける。
聞き覚えのない声の主は大樹に寄り添いながら微笑む謎の少女だった。柔らかな桃色の見慣れない装束に身を包み、やけに弛い袖口で口元を隠している。深紅の瞳は新鮮な血よりもなお紅く、腰まで伸びた白色の髪は大いなる自然にすら呑み込まれない存在感を放っていた。
「私はユリィ。素敵でお洒落な謎のお姉さんとでも思って」
「はぁ………それで、ユリィはこん場所で何を? お洒落を楽しむには些か森が深すぎると思うのですが」
「例え火山の頂だろうと深海の奥底だろうと、レディたるものお洒落は欠かせないわよ」
はぐらかそうとしているのだろうか。
思わず目を細めてしまう。
「そう警戒しないで。私はあなたをスカウトしに来たの。誘拐とも言うかもしれないけど」
「………?」
目で続きを促す。
「では…こほんっ」
ユリィは一つ咳払いをして、その胡散臭い笑みを慈愛に富んだ微笑みへと一変させた。
「アリス・アルリディア………余りある才能を持ちながらも祖国に献身し、しかして強すぎたが故に疎まれた哀れな少女よ」
何故私の名前を知っているのかとか、何故私の事情に詳しいのかとか、そんなことは全てどうでもいいように感じた。
彼女の微笑みが、纏う雰囲気が私の心を惹き付けて止まないから。だから彼女の言葉を勅命のごとく傾聴し、次の言葉を全神経を注ぐようにして待ってしまう。
「━━この世に未練はあるかしら?」
「ありません」
不思議なほどするりと言葉が出た。私の唇はまるで台本でもあったかのように、悩むこともなく否の言葉を紡いだ。
そしてユリィは微笑みを一つ濃くした。
「では誘いましょう、私の世界へ。さよならを言いたい人はいるかしら?」
「いいえ、ただの一人も」
「結構」
その瞬間、世界が歪んだ。
「えっ…!?」
天を支えるような大樹がねじ曲がり、快晴の空は蒼を崩した。目の前のユリィの姿を捉えることが出来なくなり、私は慌てて気配を探ろうとする。
しかし私がユリィの気配を見付けるより早く、崩れ去った世界が形を整え始めた。不細工な絵画のようだった世界は見るに耐える現実へと帰着していく。
「え………あ………えっ…」
世界の全てが整い終わると、先程までとは具合の違う木の葉と曇天の空が視界いっぱいに映っていた。
「…凄いな、吐かなかった人は初めてだ」
混乱で言葉すら出せずに寝転がる私に少年の声が降り注ぐ。そしてほどなく、あどけない黒髪の少年が私の顔を覗き込んだ。
「気分は平気? ……なわけないか」
「ここ、は?」
森も空もさっきとは様子が違う。
気づかないうちに失神していた? いや、私がそれに気付かないわけない。
じゃあ、転移魔法? ………いやまさか。王宮お抱えの魔導師でも一人で使える魔法じゃない。
私の呟きを聞いた少年はぼやけた視界の中で表情を歪めていた。
「ユリィ…また説明なしで連れてきやがったな?」
と、悪態(?)を吐いていた少年だったが、私の視線に気がついたらしい。彼は再度私を覗き込み、可愛らしい笑顔を浮かべてこう言った。
「ここは嫌われ者たちの楽園、或いは全ての世界の掃き溜め。ようこそ屑籠の世界へ。歓迎するよ、どこかの世界の嫌われ者さん」