鋏と秘密
(そもそも、こんな時間の女性の私室に、初対面の相手を通すなんて、無作法もいいところなのでは………)
今更だが、そう気付いたリゼットは心を決めた。
あの意地悪妖精の羽は、ひとまず半分毟ろう。
光の角度によって色味を変える綺麗な琥珀色の羽だが、それに見惚れたのは最初の頃だけで、今はもうぱたぱた動くとおのれという気持ちになる。
だが、そんな勇ましさも、こつこつと床を踏む靴音が扉の向こうから聞こえてくると、少しだけへなりと項垂れてしまった。
手元に武器を隠し持っている事への罪悪感はないのだが、この部屋を訪れる見知らぬ誰かに引き合わされる事への不安はどうしようもない。
申し訳程度に扉をノックしてから、ディラムが一人の男性を部屋に招き入れた。
恐らく、貴族ではなく、どこぞの商人にでも下げ渡されるのだろうと覚悟していたリゼットは、入ってきた男性が王宮の騎士の制服を着ている事に気付き、眉を寄せる。
そして、そんな男性はリゼットを見るなり、暴言を吐いた。
「………やはり、何度見てもぱっとしないな」
「でしょうね。我々も辟易していたところです。君が引き取ると申し出てくれたお陰で、ひと月早く厄介払いが出来ました」
(とうとう、追い払えるのが嬉しくて堪らないのを隠さなくなってきた………)
ご機嫌なディラムの様子に遠い目をしているリゼットを一瞥し、騎士服の男性は、こちらもふんと鼻を鳴らす。
その仕打ちには辟易としているので、もう一度それをやったらこの鋏を投げつけてくれると考えながらも、リゼットは渋々淑女らしいお辞儀をしてみせた。
「リゼットと申します」
「エリシア様を陥れた毒婦め。下賜された先でも、このような生活が出来るとは思うなよ?」
「…………どくふ」
ここでリゼットがぽかんとしたのは、そうそう滅多に投げかけられない言葉の所為だった。
あまりにも初めましての呼称で、今のとても悪意に満ちた呼びかけは、本当に自分に向けられたものだろうかと疑わずにはいられなかったのだ。
(それは、もっとこう、………女性としての魅力で殿方を籠絡するような方に向けるべき呼び方ではないのだろうか。………文化の違いで、こちらでは合っているのかしら)
とても混乱したまま、リゼットは目の前の男性を見上げる。
大柄とまではいかないが、この屋敷の主人であるリディウスがしなやかな長身の男性なら、こちらの男性はもう少しがっしりとした体つきだ。
成る程、騎士のようなお役目にあるから鍛えているのだなと、混乱したまま場違いな事を考えてしまう。
「リディウス様より家格が下がる相手であれば、歓迎されるとでも思っていたか?残念だが、お前にはその振る舞いに相応しい扱いが待っているばかりだ」
「………っ、」
リゼットが反論もせずに目を丸くしたのを見て、腹立たしげにこちらに踏み込んだ男は、突然、リゼットの髪の毛を乱暴に掴んで引いた。
痛みよりもびっくりして動けなくなったリゼットをその男が乱暴に揺さぶる間も、本来ならこの暴挙を止めるべきディラムは素知らぬ顔だ。
髪の毛を掴んで揺さぶられれば、勿論髪の毛は引き攣れるし、少しは抜けるし、頭皮がひりひりする。
ぶつけられる悪意と荒っぽい仕打ちに心がひび割れ、わあっと声を上げたくなった。
我慢して、我慢して、我慢して生きてきた。
それはリゼットが良い人間であろうとしたからで、そうある事はいつだってとても苦しかったのに。
(………この人達は、私にも心があって、傷付いたり、怖かったりするとは思わないのだろうか)
それは、彼らの大事なエリシア嬢をリゼットが悲しませたからで、彼女を愛しく思うリディウスに無理矢理自分を選ばせたからなのだと言う。
けれど、彼等の糾弾はあながち間違いでもなかったから、だからリゼットは、ずっと反論を飲み込んで諦めてきた。
あの日、誰もいなくなった屋敷で途方に暮れ、このままずっと一人で生きてゆくのかと絶望したのはリゼットだ。
祖国を襲った流行り病で家族の全てを失い、仲のいい使用人達も、幼馴染の一家も、誰一人として生き残ってはくれなかった。
生き残った僅かな領民達の手を借りて、皆の弔いを終えたばかりの夜は、今夜のような祝祭の夜で、国中が啜り泣きに満ちていたと思う。
誰もいない家に帰るのが怖くなったリゼットが、そんな夜だけに描ける精霊の魔術陣を描き、人間が触れてはならない精霊の伴侶探しの古い魔術詠唱を口にしてしまったのは、なんとかしてその孤独の苦しみから逃れようとしての浅慮さに他ならない。
リゼットの国だけでなく、この世界に暮らしている数多の人ならざる者達の中でも、最も大きな力を有しているのが精霊だった。
だから、そんな精霊の伴侶探しの魔術を借りれば、きっとリゼットのこれからに寄り添ってくれる誰かが見付かると思ったのだ。
疫病の被害は甚大で、リゼットの祖国では数えきれない程の人達が亡くなった。
知り合いすら誰も生き残っていなかったからこそ、そのくらいの事でもしなければ、自分はずっと一人ぼっちだと思い込むくらいに、あの時はリゼットも追い詰められていたのだろう。
だが、人間の領域を超えた魔術にだけは触れてはならないという事は、リゼットの国なら、子供でも知っていた事だ。
上手くいかなければ、その魔術陣から悍しい怪物が現れたかもしれないし、リゼットの身に手の施しようもない障りを齎したかもしれなかった。
それでも、あの夜のリゼットは、寂しくて寂しくて、怖くて堪らなくて我慢出来なかった。
もう誰もいなくなってしまったから、誰でもいいから誰かに側にいて欲しくて、運命に触れるような禁忌の魔術を呼び起こして展開してしまった事を、今ではとても後悔している。
(………幸運にも魔術の輪は綺麗に閉じて、その先にはリディウス様がいたけれど、あの方には既に愛する人がいた。…………知らなかったとは言え、そんな二人を引き裂いてしまったのは、私が禁忌とされる魔術の儀式を行ったせいなのだ)
愛する人から引き離される事の苦しさは、たった一人で生き残ってしまったリゼットにだってよく分かる。
だからリゼットは、すぐにここを出てゆくと自分の後見人に伝えようとしたし、何とかして自分の不始末を正そうとした。
けれども、そんなリゼットの謝罪と言葉は、構って貰う為の会話の糸口だとでも思われたのか、或いは、心にもない事をと呆れられたのか、あの美しい精霊は、気にしなくていいと言うばかりで少しも取り合ってはくれなかった。
謝罪すら受け取って貰えなかったリゼットは、この屋敷でご主人様を敬愛しているディラムや使用人達から疎まれ、こんな目に遭っていても誰も助けてはくれない。
(ああ、…………私に用意された運命は、なんて愚かで、なんて優しくないのだろう)
他にも沢山持っている人達は幾らでもいるのに、この運命は、全部を無くしてしまったリゼットから、まだ何かを引き剥がして持ち去ろうとしている。
リゼットが望んだような幸運を手に綺麗なドレスを着て踊っている誰かがいる夜に、リゼットは、祝祭の日の夜の食事すらまだ貰えていないどころか、こんな乱暴者にわざと惨めで怖い思いをさせられようとしているなんて。
ぐっと息を呑み、じわりと滲んだ涙を押し留めた。
その瞬間にまた大きく体を揺さぶられ、びりりと傷んだ頭に抑えきれなかった涙がひと雫だけ溢れる。
だが、あんまりな事が続きむしゃくしゃしていたリゼットにとってのその行為は、想い合う二人を引き離してしまったという罪悪感を粉々にするのには、充分であった。
「その手を離しなさい!!」
やっと反応を示したリゼットを転ばせようとでもしたのか肩を手でどんと突き放され、怒り狂った乙女が隠し持っていた鋏を目の前の乱暴者の顔面に投げつけたのと、ばりんという、部屋の扉にあってはならない解放音が聞こえたのは、ほぼ同時だっただろうか。
立派な鋏を力一杯投げつけられて悲鳴を上げた騎士は、それでもやはり頑強な男性であった。
鼻はへしゃげていたが、ぎりっとこちらを睨み付け、リゼットに掴み掛かろうとし、その直後、誰かにむんずと首根っこを掴まれて部屋の反対側に放り投げられた。
「…………え、」
「リディウス様?!」
「………ディラム、これは一体どういう事だ?」
ふぁさりと揺れたのは、漆黒のケープだろうか。
そこに立っていたのは、舞踏会に参加している筈のこの屋敷の主人、星明かりの精霊ではないか。
後見人の突然の帰宅に驚いたリゼットは、その足下に部屋の扉がばらばらになって落ちているのを見てしまい、びゃっと飛び上がった。
淑女の作法としてはなしだが、人間は、あまりにも理解の及ばないものを見てしまうと、後ろから驚かせた猫のように垂直飛びしてしまうこともあるらしい。
リディウスの、夜の系譜の人外者らしい漆黒の盛装姿は、それはそれは美しかった。
どこか軍服めいた装いで、肩の片方だけに流したケープの裏地には華やかな織り模様の裏地が見える。
こんな時なのに一瞬見惚れてしまい、けれどもリゼットが最終的に視線を向けたのは、部屋の向こう側でくしゃりと床に突っ伏した先程の騎士であった。
「は!今の内にとどめを……」
「リゼット、殺す前提になっているぞ。………それは、必要であれば私がやるよ」
「………リディウス様?」
「リディウス様、なぜお帰りに……?」
「ディラム、私はこの状況を説明するように言わなかったか?」
冷ややかな声でそう命じられ、さっと青ざめたディラムが胸に手を当てて深々と一礼する。
そこで、またしても扉のあった向こう側がばたばたと騒がしくなると、今度は、赤と金を基調にした華やかな盛装姿の男性と、可憐な檸檬色のドレスの少女が駆け込んで来た。
「おい、何があった?!」
「リディウス様、ご無事ですか?!」
「……………なぜ、君がここに?」
慌てて駆け寄った男女に、なぜかリディウスは顔を顰めた。
そんな表情を見た途端、華やかな装いの男性がはっとしたようにその場で足を止める。
制するように手を伸ばし、一緒にいた女性をもその場に留めた黒髪の男性は、なかなかに空気の読める人物らしい。
「そりゃ、お前が血相を変えて屋敷に帰ると広間を飛び出せば、俺だって慌てて追いかけるだろう!何かがあったと思うじゃないか!」
「………君はこの国の王だろう。そうして転移で追いかけてきた先で、その身を危うくするような事が起きている可能性は考えなかったんだな?」
「それはない。お前がいれば大丈夫だ」
「それなら、ただの足手纏いだ。追いかけてくるな」
「…………おお。それもそうだな」
「…………で、なぜ彼女も連れて来たんだ」
「いや、エリシアは自分で転移が出来る。お前を心配して追いかけて来てくれたんだぞ」
「成る程…………」
ふうっと落ちた溜め息に、リゼットは、これは何の茶番だろうとぎりりと眉を寄せた。
ここがリディウスの屋敷である以上、膝を折ってお辞儀をする必要はないが、目の前に立っているお客の一人は、この国の国王であるらしい。
乱暴者が排除されたのは良かったし、ディラムに事情を説明させているということは、リディウスは、今夜の手配については知らなかったのだろう。
とは言え、ディラムが冷静に事の経緯を説明しているのは、早く手放したいお荷物の来訪者がどうなろうと、リディウスは気にするまいと安心しているからに違いないし、リゼットもそう思う。
先程は声を低くしていたが、リディウスがディラムに問いかけたのは、自分が不在にしている間に引き起こされた騒ぎの理由であった。
(こんな騒ぎになってしまって、王様がリディウス様を追いかけてきてしまって、…………おまけに、エリシア様までがここに来てしまった………)
舞踏会の夜なのに室内着のリゼットに対し、儚げな淡い金糸の髪に大きく潤むような緑色の瞳を持つエリシアは、何とも上品で美しいドレス姿である。
彼女が着ているのは華美なばかりのドレスではなく、エリシアの清楚な美貌を際立たせるのにぴったりな美しいもので、刺繍の飾りには艶々とした真珠が縫い付けられていた。
対するリゼットはどうだろう。
髪の毛はくしゃくしゃで、到底お客様に会うような格好ではない。
そう考えた途端に、ひたりと、惨めさとやるせなさが胸に落ちた。
ここにいるのは、リゼットが近付けないきらきらした舞台の上にいるような人々で、自分の為の居場所を持つ人達だ。
せめて少しでも自分なりの幸福を掘り出そうと、静かに窓の外の美しい夜を眺めてやり過ごそうとした祝祭の夜に、何故にこんな騒ぎになってしまったのだろう。
(…………最初から諦めれば良かったのだわ。あんな願い事なんてしないで、誰かに助けて欲しいだなんて思わないで、私は、私が救われない事や一人ぼっちな事を、大人しくあの場所で受け入れていれば良かったのだ)
そうすれば見知らぬ国でこうも矜持を損なわれる事はなく、結局は立ち行かなくなり命を落とすとしても、リゼットは己に恥じる事はせずに済んだと胸を張れたのかもしれない。
でもあの日は、願い事が叶うと言われている聖なる祝祭の夜だったから。
生き残った自分だけが苦痛の中に取り残されたような気がして、じたばたともがいてしまった。
後悔と落胆にしくしく痛む胸を押さえてじりりと後退しようとしたリゼットは、するりと手首に巻きついた大きな手に目を瞬いた。
これは、事件の加害者の一人として逃亡防止の為に捕縛されたのだろうかと考え、触れた肌の体温が奇妙に心地良かった事にぎくりとする。
そして、ぎくりとしたことを、相手にも気付かれてしまった。
「もしかして、私に素手で触れられるのは都合が悪かっただろうか?」
「………リディウス様?」
引き攣った微笑みを浮かべて首を傾げてみせると、リゼットは、早急に掴まれた腕を引き抜くべく、ぐいぐいと引っ張った。
しかし、軽く手首を掴んでいるだけのように思えるのに、なぜかリディウスの手はびくともしない。
焦ってぎりりと奥歯を噛み締めて腰を落とすと、呆れたような声が落ちてきた。
「おいで。なぜ逃げようとしているんだ。………これは、まさかグレンが?」
「髪の毛がくしゃくしゃなのは、私が暴れたからでしょう。どうぞお気遣いなく」
「まるで、無理矢理髪の毛を掴まれたような乱れ方だな」
「その方が私を痛め付けようとしたのは事実ですが、それなりに報復もしたので、これで痛み分けとして下さい。ただ、これだけ拗れてしまうと、あの方への下賜のお話を続けるのは難しいと思いますから、どうか私は、市井の工房などにでも下げ渡して下さいませ。これでも手先は器用な方ですし、魔術の扱いもそれなりだと自負しています。きっと、騒ぎを起こした私をこちらに置いておくのは外聞が悪いでしょうから、明日にでも出てゆきますね」
「………君がそんなに話しかけてくれたのは、ここに来てから初めてだな」
リゼットは懸命に申し出たのに、リディウスはそんな的外れな事を言うではないか。
それは、誤解を解こうとして謝っても、あなたが微笑んで問題ないよと言うだけで会話を切り上げたからではないかと思ったリゼットが、その時の落胆を思い出して顔を顰めてしまってもいい筈だ。
だが、リゼットがそうすると、ひたりとこちらを見たリディウスが何やら考え込むような表情になる。
「ええと、……お世話になりました?」
「ん?どうしてもう、出て行く前提なんだ。私は、君を手放すつもりはないが」
「ですが、このお屋敷で働くのは、ここの皆様はそれはもう私の事が嫌いなので難しいと思いますが」
「…………おや、それは知らなかったな」
「エリシア様とのことを存じ上げず、こうしてやって来てしまったのですから、リディウス様を大事に思う皆様が良く思わないのは当然でしょう。今夜は荷造りに精を出しますし、何なら、さして持ち出したい物もないので、今の内にこちらを出ても良いです」
「リゼット。私は、君を使用人にするつもりも、市井に下ろすつもりも、ここから追い出すつもりもない。……一つ付け加えるのなら、ファーロット子爵に君を下賜するつもりもなかった」
にっこり微笑んだリディウスにそう言われ、リゼットは、とても混乱した。
リディウスにはエリシアがいるのだから、使用人にしないというのなら、リゼットをここに置いておく意味がない。
「エリシア様の話し相手や侍女にというのであれば、それもあまり好ましくないかと。そのようなお役目は、エリシア様に無駄な負担を強いない、良い関係を築けるようなご令嬢に任せるべきです。私は、既にそのお心を翳らせた者ですから、あらためて相性の良い方を選んで差し上げて下さい」
「なぜ私が、君をエリシアに差し出さねばならないんだ?」
「ご不要でしたら、是非にこのまま放逐して下さい。憂いを払えば、きっとリディウス様は、今夜も晴れやかな気持ちで休めると思います」
リゼットは、こちらは全然構いませんのでという渾身の微笑みを作ってみせたのだが、こちらを見て僅かに首を傾げてみせたリディウスは、なぜか微笑んではいるもののとても不愉快そうだ。
手も離してくれないしと思い、リゼットは、ふと気付いた。
そもそも彼等は、ファーロット子爵とやらだったらしいあの騎士の顔面に鋏を投げ付けたリゼットを、このまま無罪放免するつもりがないのかもしれない。
「気のせいでなければ、お前の来訪者は、物凄く逃げ出そうとしているな………」
「そのようだな。後で、グレンに話を聞いておいた方がいいだろう」
「もしかして、………お前、かなり怒ってないか?」
そう尋ねたのはこの国の王で、リゼットは、その理由はこちらも是非に知りたいと息を詰めた。
もはやこの屋敷に留まるという選択肢は悪手でしかなさそうなので、リディウスの不機嫌さの理由を紐解いて丁寧に謝ってから、早々にここから撤退させていただこう。
ここで、うら若き乙女が、冬の夜に一人で放り出されてどうするのだという心配はない。
リディウスにも伝えたが、これでもリゼットは祝祭の日に精霊の魔術に触れる事が出来るくらいには腕が立つ。
一晩の野宿と、翌朝からの仕事探しくらいならどうにかしてみせる自信があった。
リゼットが一人ぼっちになった祖国とは違い、この国は疫病に疲弊してはいない。
それどころか、王宮では華やかな舞踏会を開き、王都が様々な国との交易で賑わうくらいには豊かな国だ。
経済が生きている土地であれば、リゼットが自分一人を生かすくらいの事は容易かった。
(もし、身元の保証がない女性は働き難いというのなら、髪の毛を切って、魔術で擬態をかけて男の子のふりでもすればいいのだわ。まずは人並みの生活をするのに足りるだけのお金を稼がないと………)
その際に、ここに来たばかりの頃に与えられたドレスや装飾品を持って行ってお金に替えるという発想は、リゼットにはなかった。
この屋敷での扱いがどれだけ惨めなものでも、それはそれとしてもお金は必要なのでという段階はゆうに超えており、ここで渡された物は何一つ持ってゆくものかというくらいにはむしゃくしゃしている。
結局そこで得た物がなければ一人で生きてゆく事も出来なかったとだけは、思わされ続けてなるものか。
断固として置いてゆき、どんな卑劣な手を使ってでも自分一人で自分を養ってみせる。
「…………自分の迂闊さにも腹が立つが、この状況は不愉快以外の何物でもないな。ディラム、………私は、一度でも、リゼットをファーロットに下賜しろと命じたか?」
「…………い、いえ。ですが、来訪者の最低後見期間は半年と決まっております。こちらではお二人の事を皆が知っているとは言え、エリシア様の美貌に、他国の王族達が興味を示しているという話もあります。であれば、早急にエリシア様をお迎えする準備を整えておかねばと思いました」
「では、あらためて伝えておこう。その準備は不要だ。私が命じてもいないことを独断で成し、尚且つ私の庇護する者を傷付けたという事も理解しているな?」
「ですが、この来訪者は……」
「ディラム」
何かを言い募ろうとしたディラムは、冷ややかな声で名前を呼ばれ、ぴしりと固まった。
その声音にどんな響きを込められたものか、真っ青になってしまい、震えながら深々と頭を下げる。
「…………てっきり俺も、お前は、エリシアを迎え入れるつもりだと思っていたが」
しんと静まり返った部屋の中で、そんな事をぽつりと呟いたのは国王だ。
なお、この時のリゼットは、この隙にと、掴まれたままの手を引き抜こうとしたところ、ぐいと体を引っ張られリディウスにしっかりと拘束されてしまい、じたばたと暴れていた。
まるで抱き締められているようになっているが、これまで握手すらした事がない相手にこの距離感は、とてもやめていただきたい。
他人との距離感というのは、大事なものなのだ。
「皆がなぜそう思っていたのか、理解に苦しむな。………確かに、私は、熱心な後見人ではなかったし、その所為でどうやらリゼットをこの屋敷で厄介な立場に置いていたようだ。とは言え、他の来訪者を引き取る余裕があるという意思表示は、一度も示していなかった筈だぞ」
「んん?………そうだったのか?いつも彼女のエスコートはお前がしていただろう」
「それは、君が任せると言ったからだ」
「それだけ?!」
「それ以外の何だと言うんだ。だが、今後は辞退させて貰うぞ。リゼットは、私の対だからな」
きっぱりとそう言ったリディウスに、その場にいた者達の反応は二つに分かれた。
なお、対というのは、精霊の伴侶となる者を示す言葉だ。
人間と共に生きる精霊の中には、人間風に伴侶や運命の相手と言う者達もいるのだが、どうやらこの国では精霊側の表現で伝わるらしい。
(あああ、気付かれた!!!!)
人間より長きを生きる精霊が、対を見つける瞬間というのはとても稀なことだ。
リゼットの祖国でだって、国守りの精霊や、古き良き隣人達が伴侶を見付けることは慶事とされ、咲くべき季節ではない花が満開になったり、新しい泉が現れたりする。
だから、王やディラムが呆然とするのはよく分かる。
そしてリゼットは、とうとうこの精霊に、自分がかけてしまった魔術に気付かれてしまったと真っ青になっていた。
「……………対なのか?本当に?」
「嘘を吐いてどうするんだ。気付いたのはつい先程だし、確信を持ったのは今しがただ。そしてなぜか、彼女は私にその事を知られたくなかったらしい」
「ぎゃ!」
「リゼット、悪いが君を逃す訳にはいかないから、あまり暴れない方がいい。それと、………君はあまり懐かないなと思ってはいたが、なぜ対である事を知っていたのか、それなのになぜ隠していたのかは教えてくれると有り難い」
「か、勘違いだと思います!その、………リディウス様は、舞踏会ではお酒を召されたのでしょう?きっと、酔っ払っておられるのでしょう!そうですね、ただの酔っ払いです!!」
荒ぶったリゼットにそう断言され、ふっと微笑みを深めた星明かりの精霊は、息を呑む程に美しかった。
だが、その美しさは決して人間寄りではなく、ああこの男性は人間ではないのだなと思わせる排他的な美しさだ。
「それは困ったな。残念ながら、私はあの程度で酔う事はないんだが」
「ぎゃふ?!なぜ抱え上げるのですか?!私は、持っていても少しも楽しくはないので、すぐさま手を離して下さい!」
「……………彼女も、聞いていた噂とは違うな。エリシアの後見人を奪い取った狡猾な女と言うよりは、…………城で飼っている猟犬の子供に似ているぞ。いや、もう少し野生的な感じか?」
「さり気なく、物凄く失礼な評価が聞こえてきましたが、誰ですか?!」
「リゼット、暴れないでくれ。それと、君を下ろすつもりはないから、少し話をしようか」
「おかしいです。少しも話が通じません………」
慎ましやかな淑女を突然抱き上げる仕打ちに怒り狂っていたリゼットだったが、優しく微笑んでこちらを見たリディウスの眼差しに、ぞくりとした。
ついつい人間相手のように話してしまうが、そもそも、彼は人間とは違う生き物なのだ。
そう言えば、精霊は、美しいがたいそう我が儘な生き物だということを、すっかり失念していたような気がする。
(人間の国で人間を庇護しながら暮らしているくらいだし、これ迄のリディウス様を見ている限りでは、特別に穏やかな気質の精霊だとばかり思っていたけれど………)
子供をあやすように甘やかに抱き直され、リゼットは、吐息の温度も分かる程の近さでこちらを見ているリディウスを呆然と見つめ返した。
精霊の伴侶探しの魔術で見付けたせいで、リゼットとリディウスの間には、確かに対の繋ぎがある。
だがそれは、リゼットが描いた魔術陣が結んでしまったものでしかなく、意図せずかけられた縄を解くのは自由な筈なのだ。
どれだけ穏やかに見えても、相手は人外者である。
だからリゼットは、リディウスがエリシアを寵愛していると知ってからは、この繋ぎがある事に気付かれないよう、細心の注意を払って生活してきた。
罪と恥の上塗りは避けたかったし、そんな風に縄をかけた人間を、リディウスは許さないかもしれないと考えていたのだ。
「………鋏か何かで、このご縁を切ってしまいましょう。幸い、鋏はそこに転がっているので…」
「リゼット。私を怒らせようとしても、ここから放り出したりはしないぞ?」
「これは、私の描いた精霊の伴侶探しの魔術が、うっかりリディウス様にかけられてしまっただけなのだと思います。とても事故なのでどうか許していただき、このご縁は早急に断ち切りましょう!」
「精霊の伴侶探しに、うっかりはない。あれは、運命の糸を辿る為の魔術だからな。君が辿ったのは、既存の運命の糸だ」
「なぬ…………」
「それにしても、君は、人間の身の上で精霊の運命に触れられたのか?下手をすれば、命すら危うくするような階位の魔術じゃないか」
呆れたような、けれども安堵を滲ませた声音でそう言われ、リゼットは途方に暮れたままこくりと頷く。
助けを求めるように周囲を見回すと、なぜか国王はさっと視線を逸らした。
けれどもここで、リゼットはとても素敵な人材を見付けることになる。
幸いな事にここには、この国でのリディウスの運命の相手と言われていた、エリシアがいるではないか。
彼女への恋情を再確認していただき、今朝までは屋敷の調度品扱いだったリゼットのことは、そろそろ解放して貰おう。
リゼットは、今更、リディウスと共に生きてゆく未来など思い描けないくらいには、この半年で、様々な教訓を得ていたのである。
最終話は明日の18時前後に更新します!