祝祭の夜と来訪者
さらさらと静かな雨音が響く。
それは晩秋のとても静かな夜で、例えようもなく孤独な程に、冴え冴えとした美しい夜でもあった。
リゼットは窓辺に引き摺り寄せた豪奢な椅子に座り、冬夜よりも暗い漆黒の天鵞絨のような夜空に煌めく星を雲間から見上げ、このお城のような壮麗なお屋敷の主人が、星明かりの精霊である事を思い出して眉を顰める。
緩やかな巻き癖のある淡い銀髪を黒いリボンで一本結びにし、ひやりとするような鮮やかな菫色と水色の混ざったような瞳をした美しいその人は、この国の王の補佐官であり、リゼットの後見人であった。
(後見人………。後見人め!)
美しい後見人の姿を思い出してしまい、心の中だけで小さく毒付いたリゼットは、この国の来訪者である。
来訪者は、ちょっとした魔術の事故や世界の隙間から、見ず知らずの土地に迷い込んだ者達を示す言葉だ。
ありふれた存在ではないが、森に迷い込んだ旅人が妖精の宴に招かれるくらいの頻度でなら起こる事故であり、帰り道が残っていれば丁重に送り返されるが、残念ながら振り返っても道が残っていない場合も少なくない。
そして、帰り道をなくした来訪者は、最初に保護された土地で責任を持って面倒を見るというのが、このシュトラント国のお作法であった。
その結果、リゼットは王都に属する来訪者となった。
そう。
よりにもよってリゼットは、国の中心である王都にある森に迷い込んでしまったのだ。
「今夜は祝祭の夜ですから、リディウス様は、王宮での舞踏会に参加されております。勿論、エスコートされるのはエリシア様ですよ」
わざわざ部屋を訪れ、窓辺の椅子に陣取っているリゼットにそう伝えてくるのは、この屋敷の使用人達を取り仕切るリディウスの従者だ。
家令も置いている立派なお屋敷で、なぜ目の前の青年が偉そうにしているのかについては、この従者の素性を語らねばならないだろう。
ふわふわとした砂色の髪に瑠璃色の凛とした眼差しが印象的な、こちらもなかなかに美しい青年は、この屋敷を守る家守りの妖精であるらしく、長年、この屋敷の主人のリディウスに仕えてきたのだそうだ。
人型の家守りの妖精は、古いお城や王宮などにしか派生しない高位の妖精なのだが、この屋敷に暮らすのは星明かりを司る精霊の王族である。
その滞在によって豊かになった土地の祝福から派生する事が出来た家守りの妖精にとっては、派生を助けたリディウスは敬愛するべき大切な主人なのだろう。
この場合、息子のような思いと称しても良かったかもしれないが、リディウスは、青年という程に若くは見えないものの、舞踏会に出れば妙齢の御婦人達の心をざわめかせる美しい男性なので、その表現だとあまりしっくりこない。
(だいたい、リディウス様やこのディラムは、人間より遥かに長く生きるのだから、こちらの年齢で考えたらとんでもないお年寄りになってしまうわ………)
「はい。存じております。ですので私は、こうして、大人しくお屋敷で留守番をしているのですわ」
「………年内にも、リディウス様は、エリシア様をこちらにお迎えになられるでしょう。あの方は、書の聖女と呼ばれる、優れた祝福の紡ぎ手です」
「ええ。お披露目でお会いしました。とても美しい方ですね」
「おや、ではその時は、とある来訪者がリディウス様を指名されたせいで、お心を痛めておられませんでしたか?」
その問いかけの冷ややかさに、リゼットは溜め息を飲み込んだ。
(…………七十八回目)
因みにこれは、この屋敷守りの妖精が、我が儘で愚かな来訪者が、お披露目の場で皆の暗黙の了解を無視してリディウスを後見人に選んだのだと、リゼットに嫌味を言った回数である。
この国では、帰り道をなくして保護された来訪者は、教会のような施設でこの国での生活に足りる基本的な教育を受けた後、年に一度のお披露目と呼ばれる日に、一定以上の爵位を有している後見人を得る。
そして、この後見人の決定には、なんと来訪者側に決定権があるのだ。
リゼットは、まんまとそのお披露目でしでかした訳なのだが、なぜ来訪者にここまでの権限が与えられるのかと言えば、それは来訪者の希少性にあった。
呼び込まれる程の魔術を構築出来、或いは世界の隙間に迷い込めてしまえるくらいの頑強さを持つ人間は、それなりの魔術階位を有していたり、そんな迷い道でも損なわれない程の祝福を身に宿している事が多い。
後見人になる貴族達からしてみれば、利用価値のある駒であるのと同時に、希少な収集品でもあるのだ。
よって、この国では来訪者が違法な取引で損なわれないよう、公の場で来訪者の側に後見人を選ばせてくれる。
また、来訪者には特に興味はないが、爵位などに応じた社会的な責任を果たす為に、短期間の社会奉仕として後見人制度に参加する者達もいるようだ。
彼等は、定められた期間を後見人として過ごして役目を終えると、引き取った来訪者を、本来なら後見人たり得ない階位の者達に下賜する。
後見人として相手を見定めつつ、その階位の者達にも機会を与えるという、社会の公平性を司る歯車の役割を果たすのだ。
ここで大事なのは、リゼットの後見人が、後者の立場を示している事だろう。
この国の守護精霊で、尚且つ国王の相談役である星明かりの精霊殿は、ご寵愛のエリシア嬢より先に自分を指名してしまったリゼットを、規定期間が終了するなりどこかにやろうとしている事を隠しもしていなかった。
その準備と意思表示が、はっきりとなされたのが、今夜だと言ってもいい。
王宮主催の舞踏会にエリシアを同伴したのなら、それは、彼女こそが自分の庇護するべき来訪者だと周囲に示したに等しいのだ。
何しろ今夜の舞踏会には、各国からの賓客も招かれているし、この国の守護精霊であるリディウスの階位ならそのくらいの我が儘は許されてしまう。
(寧ろ、よく半年も我慢したものだわ………)
「何度か申し上げましたが、私はリディウス様が特定の方をご寵愛なされている事を知りませんでしたので、そこで、エリシア様のご様子を窺うことはありませんでした。後からそのように決まっていた筈なのにと聞かされ、たいへん申し訳なく思っております」
「エリシア嬢と一年も学びを共にしておいて、随分な薄情ぶりですね。まぁ、そのような身勝手さこそが、周囲の者達に少しも歩み寄ろうともしないあなたらしさでありましょう」
(これ以上、どう言えというのだ………)
ここで憮然とした表情にならないのは、リゼットが本物の淑女であろうとしているからだ。
それを理解しようとしないこの妖精めは、許されるなら、羽を毟って窓から投げ捨ててやりたい鈍感ぶりである。
目の前の人間がそんな事を考えている事を知らないディラムは、つんと澄ましてリゼットを見下ろしていた。
たいそう美しい青年だからこそ、その様子が腹立たしい。
(………お願いだから、もう少しだけ我慢して頂戴。あと一ヶ月だけでいいのだから………)
平静を装っているが、怒りのあまりにわなわなとしてしまわないよう、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
来訪者などという寄る辺ない身の上になっているし、生まれ育った土地でも家族を亡くしたばかりであったリゼットだったが、実のところ、それなりに立派な貴族のご令嬢なのだ。
だからこそリゼットは、先に説明するべきことを誰かが言い忘れたせいで、こちらこそ面倒な後見人を得てしまいたいへん迷惑しておりますとは言わずにいる。
淑女としての礼儀作法をかなぐり捨ててもいいよと誰かが言ってくれれば、こちらにだって、言いたい事が百か二百はあるのだ。
その時にディラムが泣いて謝っても許してはやらないが、残念ながら、誰かがリゼットにそんな発言の機会を与えてくれる事はなかった。
目の前の妖精は、この国の王の補佐官で、国の守護精霊であるリディウスの従者にあたる。
主人が後見人となった来訪者だからと、表面上だけは僅かな敬意を払ってくれているとは言え、こちらもまた、本来ならリゼットより階位が高い御仁なのだ。
(あと一ヶ月。あと一月だけは我慢しよう。リディウス様が後見人となるべき期間が終われば、晴れて自由の身!その時に、引き取り先に良い職場や工房を紹介して貰えるように、残り一ヶ月は、何としても淑女であり続ける!!)
だからリゼットは、屋敷の者達から冷遇されながらも、与えられた教育はしっかりと身に付けた。
最初に引き取られた時はあまりにも物を知らないと、穏やかな気質で知られるリディウスさえをも呆然とさせたものの、今では、この国の貴族社会でも充分に通用する知識と作法を身に付けている。
やれば出来るのなら、教会で保護されていた一年間はどれだけさぼっていたのだろうと白い目で見られているのは知っているが、それはただ、リゼットには教育の場が与えられなかったからに過ぎない。
何しろリゼットは、保護された翌朝にはお披露目に放り出された、特例の来訪者なのだ。
その結果、リディウスがエリシア嬢を寵愛していた事も、この国の常識も何も知らないまま連れて来られ、それを知らないせいで苦境に置かれたのだから堪らない。
勿論、引き取られた直後は何とか事情を説明しようとしたものの、勝手に我が儘な令嬢だと思い込まれてこちらの言い分を聞こうともしないままに冷遇され続けた結果、リゼットはたいへんに不貞腐れた。
話をしようとしても、余計な会話は持ちたくないと受け流されてその度に心を折られるのだ。
繊細な乙女が、もういいやと思うのは致し方あるまい。
後はもう、出来る限り気配を消して残り時間をやり過ごすと心に決めたくらいには、リゼットは今も激しく不貞腐れた。
だからこそ、今夜の舞踏会で誰が誰をエスコートしようが、もはやリゼットには何の興味もないのである。
家族を失ったばかりの一人ぼっちのリゼットが、見知らぬ土地に迷い込んだ翌朝には、美しい精霊の後見人を得たのだ。
最初は、おとぎ話の幸運のようだとわくわくもしたが、所詮人間は、自分の幸福こそが一番の生き物である。
例え同じ屋根の下に見目麗しい精霊がいようと、それが自分に優しくないものであれば、ただひたすらに不要なのだった。
「ディラム様、私はこの通り部屋で大人しくしております。食料庫も襲いませんし、窓から脱走したりもしませんので、どうぞ捨て置いて下さいませ」
にっこり微笑んだリゼットがそう言えば、ディラムは目を瞬いただろうか。
むしゃくしゃするあまりにうっかり雑な会話をしてしまったリゼットは、慌てて、ごく当たり前の淑女的な事しか言っておりませんという素知らぬ顔をする。
「…………この部屋を訪ねたのは、あなたの下賜先が決まったからです」
「………リディウス様の後見人期間の終了にはひと月ほど早いですが、事前にお知らせしてくれるのですか?」
思いがけない言葉にそう問い返すと、なぜかディラムは困惑したようにリゼットを見た。
「………ええ。下賜先の身元が確かな場合のみですが、ひと月前の引き取りが認められております」
「………引き取りが、なのですか?」
「ええ。ですので、本日、あなたを引き取っても構わないと言う者を、屋敷に招いております。今夜の内に顔合わせを済ませていただき、数日以内にはそちらの屋敷に転居出来るよう準備を整えましょう」
そう告げたディラムがどこか蔑むような目をしたので、リゼットは、ああこれは意地悪なのだなと理解した。
晴れやかな祝祭の日の、それも王宮では、本来ならリゼットも招かれていた舞踏会が行われている。
後見人であるリディウスはリゼットの分の招待状も持ち帰ったが、そのような場所は居心地が悪いと辞退したのはリゼットだ。
けれども、優しく微笑んでこちらを見ていても、ひと欠片の愛情すら向けはしないリディウスに、そう言う以外にどうしろと言うのか。
彼の隣に相応しい女性がいるのなら、確かにリゼットは身を引くべきである。
例え、リゼットを来訪者にした事件を引き起こしたのが、精霊の伴侶探しを行う祝祭の魔術の締結で、その相手に選ばれたのがリディウスだからこそ、リゼットはこの国に迷い込んだのだとしても。
だとしても、彼には最初から心に決めた人がいた。
もはやどうしようも無いのだ。
(でも、それだけでも惨めでならないのに、こんな夜にわざわざ下賜先の相手を連れて来られるような意地悪を、なぜされなければならないのだろう………)
うっかり行った魔術が、既に相手を得ていたリディウスに運命の糸を結んでしまったと知り、自分の行いを反省したリゼットは、こちらに来てからはとても大人しくしていた。
勿論、自分こそがリディウスの相手だと主張もせず、それどころか、その事実に気付かれないように息を潜めてきた。
(……………でも、私にも我慢の限界はあるのだ)
屋敷を去る前に、やはりこの意地悪妖精の羽は毟ってゆくべきだろうか。
目の前のリゼットがそんな事を考えているとは思いもしないのか、ディラムは、黙り込んだリゼットの様子に溜飲を下げたようだ。
黙っているのは、この妖精の羽を毟るかどうかの自分会議に入ったからなのだが、リゼットが返事も出来ないくらいに落胆していると思っているらしいディラムは上機嫌だ。
もしかするとこの国では、女性は慎ましやかにしているばかりで、怒り狂って妖精の羽を毟ったりはしない生き物なのかもしれない。
一度退出し、下賜先となる人物を連れてくるというディラムは、もはや、顔合わせの場を客間にするだけの配慮すら投げ出してしまったようだ。
(おかしな人でなければいいのだけれど………。例えば、奴隷商人だとか。………リディウス様の許可で下賜されたという事は公にされるのだから、さすがにそれはないと思うけれど………)
ひとまず、何か鋭利な刃物を手にしておこうと考えたリゼットは、書き物机の抽斗を開けて、綺麗な真鍮と金水晶の鋏を袖口に隠し持っておく事にした。
こちらはか弱き乙女であるからして、このくらいの武装は許されるだろう。
こんな時間に誰かを部屋に連れて来られるという事自体が、どうも不穏でならない。
そして、後にこの選択が、リゼットの身を守る事になる。
二話は、今夜の20時までに更新します!