第1話 神との対面。あるいは、ただのチュートリアル(5)
VRMMO【CROSS】の成長システムはスキルを土台としている。
モンスターを倒して経験値を貯めて、レベルアップ――オーソドックスなRPGによくあるレベルシステムと異なり、CROSSで基礎ステータスを上昇させるためには多くのスキルを獲得する必要があった。
スキルは大きく二種類にわけられる。
基本スキル。
特別スキル。
初心者プレイヤーにとってまず重要なのは、基本スキルの方である。
優楽堂の公式マニュアルには、『基本スキルはプレイヤーの仮想世界における行動の全記録でもある』と説明されていた。
具体的には――。
例えば、基本スキル〈歩く〉。
基本スキル:歩く(レベル1)
[歩行時の最高速・加速度が上昇する]
[歩行動作にシステム動作補正が加わる]
「基礎ステータス〈速さ〉にプラスの補正値が加わる」
その名の通り、仮想世界を歩くだけでレベルの上がっていく基本スキル。
仮想世界で一歩も歩いたことのないプレイヤーはさすがに存在しないため、誰でも所持している基本スキルであり、わざわざ意識してレベルを上げる必要もない。歩いているだけで良いので、気がつけば十分な所まで育っていく。
基本スキル〈歩く〉のレベルが上がれば、基礎ステータスの〈速さ〉にプラスの補正が得られる。
ただし、基本スキルひとつひとつの補正値は微々たるものだ。スキルレベルがいくら上がっても、ひとつの基本スキルだけではステータスの変化が肌で感じられるぐらいの成長は見込めない。
要は、日々の積み重ね。
仮想世界におけるプレイヤーの行動すべてが、基本スキルに反映されると云っても過言ではないのだ。基本スキル〈歩く〉のような誰でも所持しているスキルというのは基本中の基本に過ぎない。
基本スキルは星の数と同じぐらいに存在する。すべてを手に入れることは不可能で、どのような基本スキルが手に入るかはプレイスタイルに応じて十人十色に変化した。
戦う者には、戦うための基本スキル。
作る者には、作るための基本スキル。
好きなことをやれば、それに応じた基本スキルが手に入る。
好きなことを続ければ、基本スキルのレベルが上がり強くなる。
基本スキル:剣術(レベル10)
[武器種〈剣〉装備時に攻撃力がアップする]
[武器種〈剣〉装備時のモーションにシステム動作補正が加わる]
[基礎ステータス〈力〉にプラスの補正値]
レベルボーナス:剣術スキルのレベル5を達成。
[基本スキル〈見切り〉を獲得しました]
レベルボーナス:剣術スキルのレベル7を達成。
[基本スキル〈剛剣流〉を獲得しました]
レベルボーナス:剣術スキルのレベル10を達成。
[基本スキル〈一意専心〉を獲得しました]
ロアがランドセルの機械腕を黙々と動かして何をやっていたかと云えば、エリンの初期ステータスを組み上げていた。基本スキルを案内人の権限で付与し、さらにゲームスタート時のボーナスポイントを割り振る。
プレイヤーの初期ステータスは自由度の高いカスタマイズが可能なのだ。
「はい、これで完成です」
チュートリアルの案内人として、新米ながら手慣れた仕事だった。
「戦闘をメインに据えたプレイスタイルの場合の基本パターンを試しに組ませていただきました。もちろん、これで決定というわけではありません。どんな感じか試していただき、微調整を施していくこともできますし、まったく別のスタイルを組み直すこともできます。これはチュートリアルで、わたしは案内人ですから、満足行くまでお付き合いいたしますよ」
エリンは、ロアが何を云っているのか、よくわからない。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
「……あの、どうかしました?」
エリンの様子がおかしいのに気づいて、ロアが不思議そうに尋ねる。
だが、エリンは答えない。
実のところ、ロアの声も聞こえていなかった。
「なんだ、これ?」
エリンの意識は今、己の身体にだけ向いていた。
握りしめていたロアの手を離すと、十分に距離を取っていく。
スペースに余裕ができた所で、思い切って剣を抜いた。
やはり、身体の感覚が違う。
剣を握ると、その感覚はよりはっきりする。
「これは……」
驚きに目を見開くも、それ以上の言葉は出て来ない。
エリンは震え始める。ガタガタと全身を揺らしながら、どうにかそれを押さえようと剣を両手で握り込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
ロアが心配そうに声をかけて来るが、やはり聞こえていない。
大丈夫かと云われれば、大丈夫ではないのだ。
だが、別に苦しんでいるわけではない。
むしろ、逆。
震えは、歓喜。
爆発しそうだった。
堪え切れそうにない。
そもそも、堪え切れなくて剣を抜いた。
必死に、集中力を研ぎ澄ましていく。
集中。
集中。
集中。
エリンは己に云い聞かせる一方で、ただ夢中になっていた。
「すごい」
ようやく口から出たのは、とてもシンプルな感想である。
エリンは剣を上段に構えた。
そして、振り下ろす。
「……」
速い。
もう一度、だ。
試さずにはいられない。
再び、剣を上段に構え直しながら、エリンは日々の鍛錬を思い返していた。
無能力者であるから、どれだけ武術の修行を重ねた所で限界がある。エレンは幼少の頃から様々な手ほどきを受けて来たし、武芸の才覚には秀でたものがあると認められていた。努力も欠かさない。無能力者というレッテルをはね除けようと必死だった頃もある。
それでも、結局、どれだけ努力しても無意味だった。神の加護を得た信仰者と競い合えば、エレンはまったく太刀打ちできなかった。
神の力とは、それだけ理不尽なもの。
エレンは剣を振り下ろす。
「……」
速い。
信じられない。
もう一度だ、何度でも――。
斬り下ろし、突き、横に薙ぐ。
三連撃は、まるで疾風のように。
速く、速く、そして鋭い。
毎日鍛錬を欠かさなかったからこそ、普段との違いがはっきりとわかった。
自分の手が、自分の手でないようだ。力が、自分の身体ではなく、どこか別の場所から押し寄せてくるようだ。こんな感覚は初めてである。
自分一人の力ではなく、何か大きな力の一部となったような感覚。決して不快ではない。取り込まれるのではなく、エリンは取り込むために剣を振り続ける。
「はい、基本スキル〈剣術〉の効果ですね。基本スキルの一部にはアバターの操作性を向上させる効果があります。それに、他にも色々な基本スキルを取得したことで基礎ステータスがかなり補正されています。ステータスの上昇はそのまま身体能力、身体感覚の向上に繋がるので、まるで自分が自分でないような、それこそスーパーマンにでもなったかのような気分が味わえるはずです」
ロアが説明してくれる。
彼女の言葉はエリンの耳に届いているが、頭には入って来ない。
どうでもいい。
理屈なんて、二の次。
大事なのは、この力。
この力が、自分の手の中にあるという事実しか見えない。
エリンは知る限りの剣術の型をひたすら試し続けていた。
自分のもの、むしろ自分自身と云うべき身体が、まったく別の何かに支配されようとしている。そのことに嫌悪はない。受け入れる。だから、ちゃんと答えてほしい。エリンは問いかける。何ができるのか。もっと、この力の本物の部分を感じさせてほしい。さらに、はっきり。より、強く――。
感じる。
己の肉体に芽生えた、さらなる違和感。
エリンは掴み取ろうとして、意識を研ぎ澄ませた。
剣を。
無意識に、横に薙ぐ。
その瞬間、刃には炎が纏い、空気を焦がした。
火炎斬:レベル3
[アクティブスキル 斬属性・炎属性のダメージ(小)を与える]
「え、嘘?」
驚きの声を上げたのは、近くで見守っていたロアの方だった。
エリンの繰り出した一撃は、特別スキル〈火炎斬〉。
ロアがキャラメイクで設定したものだから、エリンが特別スキル〈火炎斬〉を使用できることに不思議はない。問題なのは、特別スキルの使い方をまだ教えていないのに、エリンがそれを使用して見せたことだ。
それも、ごく一部のプレイヤーにしか使えない高等技術を用いて。
「コマンド操作ではありませんでした。技名を口にすることなく、キーアクションを入れることなく、特別スキルを発動するなんて……」
スキルの発動には通常、コマンド操作が用いられる。
例えば、「火炎斬」と叫びながら剣を振るうことで特別スキル〈火炎斬〉は発動する。これは音声によるコマンド操作である。他によく使われるコマンド操作として、特定の動き――キーアクションというものがある。剣をぐるりと一回転させる等のアクションを事前に登録し、スキル発動のトリガーとするのだ。
コマンド操作は誰でも簡単に扱えるのが最大の特徴だった。
一方で、エリンが前触れなくいきなり使ってみせたのは、ごく一部のプレイヤーしか使いこなせない高等技術のニューロ操作である。
歩く。
手を伸ばす。
ジャンプする。
このような日常的な動作は、普段意識せずに行われている。『歩く』ために、踵と地面の距離、膝を曲げる角度、筋肉の収縮をいちいち難しく考える者はいないだろう。それらは無意識の内に処理されている。
スキルの発動をそうした『歩く、手を伸ばす、ジャンプする』という日常動作のレベルまで感覚として落とし込めば、ニューロ操作は可能となる。『炎の斬撃を繰り出す』ことを、身体機能のひとつに過ぎないものとして扱うわけだ。
実際の所、並大抵の技術ではない。
小手先で、できるようなものでは断じてない。
だが、エリンは既に完璧だった。
たった一度のまぐれではない。
スキル発動後のクールタイムが終わると共に、二度目、三度目の特別スキル〈火炎斬〉が放たれていく。まるで赤子が初めてのおもちゃを得たように、エリンはそれを純粋に楽しんでいた。
気がつけば、笑顔になっている。
押さえ切れない笑い声が、ほんの少し漏れていた。
人生の内のほとんど、エリンは力に憧れてきた。
どれだけ望んでも手に入らず、もはや諦めてしまっていたものが、この手の中にある。喜ばずにはいられない。そして、楽しまずにはいられない。
剣を振るうのが楽しい。
この感覚も、初めてのものだ。
剣を振るうのは、これまで常に痛みが伴った。
手が痛い、という単純な話ではなくて――。
強くなりたいと思えば思うほどに、いつも心が痛んだ。
無能力者が、神の加護を持つ信仰者たちに追い付くのは絶対に不可能である。わかっているのに諦めきれないものがあり、剣を手に取ってみるが、剣を振れば振るほどに、その無意味さがはっきり突きつけられた。
努力すると、その分だけ自分に欠けているものが見える。
努力してそれを埋めるはずが、どうしても埋まることはない。
だから、痛みを感じていた。
嫌だった。
剣を手にして、楽しいと思ったことは一度もない。
それがどうしてか、今、楽しい。
ただ、楽しい。
力を試すために剣を振るっていたのが、途中から、剣を振るうこと自体が目的となっていた。息が切れ、呼吸が乱れ始めても、止まらない。止められない。きゃあきゃあ叫んで遊ぶ子供と同じである。
これは記念すべきエリンの第一歩目だった。
無能力者が神の加護よりも素晴らしい力を獲得した瞬間だとか、ダンジョンの奥底から生還するための糸口を見つけた瞬間だとか――別に、そうした堅苦しい話ではないのだ。
エリンの第一歩。
それは単純に、ゲームの楽しさを知ったということ。
VRMMOという現代最先端の技術が詰まったゲーム、その根っこの辺りにあるのは、ゲームがこの世に生み出された頃から変わらない面白さで、そんな素朴な部分にエリンは確かにこの時触れていた。