第4話 はじめての戦い(15)
海の底から浮き上がる一抹の泡のように、エリンの身体感覚は揺らめいていた。儚く、脆く。うっかり手放すと、自分が自分でなくなってしまうような頼りなさに包まれていた。
深い夢からの覚醒と似ている。
ここがリアルなのか、何なのか、自分が何者であったのかも含めて、ほんの束の間、わからなくなってしまう。
だが、津波のように覚醒の時は訪れた。
目を開くと同時に、エリンは現状をハッキリ認識する。
「戻って来た」
身体が冷え切っているのは、腰から下が地底湖に浸かっているからだろう。
ただし、足の感覚はない。動かすこともできない。
喉がカラカラに乾いている。
視界は霞み、頭の働きも鈍っていた。覚醒と共にクリアになったはずの頭の中には、じわじわと不吉な霧が立ち込めていく。それは、死の予兆である。エリンはすぐに、身体の状態がさらに悪化していることに気づいた。
エリンは死にかけている。
ダンジョンの奥底で独りぼっち、身動きも取れず、助けが来る望みもなく、これ以上なくわかりやすい絶体絶命のピンチ――そんなどうしようもない現実に、エリンはどうやら戻って来たらしい。
――生体反応に深刻な異常あり。
――最寄りの緊急医療機関に連絡します。
――警告。エラーが発生しました。
――〈BRAIN-SEA〉に接続できません。
ぼんやり、眺める。
最初は幻覚かと思った。
VRMMO専用ヘッドギアのゴーグル状のディスプレイに次々と浮かび上がるシステム通知。それは仮想世界のシステムウィンドウの表示とまったく同じようなものだった。
まるで夢の続きを見ているかのようで、エリンは一瞬、この危機的状況を忘れてしまう。
――あなたには死亡ペナルティが科されています。
――あなたは二十四時間、仮想世界にログインできません。
ディスプレイの片隅には、警告文のような赤字でそんな風に記されていた。併せて、二十四時間分のカウントダウンがスタートしている。
「夢でも幻でもなかった」
エリンは思いを確かめるように、あえて言葉を口にした。
証拠も何も無ければ、生死の間際で気を失っていただけと勘違いしたかも知れない。あまりに過酷な状況が、リアル過ぎる幻覚を生み出すというのも有り得そうな話である。
実際、そう思いたくなるぐらいの体験だった。
エリンを含めた、こちら側の世界の人々の認識としては、異なる世界と云えば天上界ただひとつである。無能力者からすれば、天上界はこの地上とまったく違うものだろうとしか想像できない。行き来することもできなければ、見聞きすることも許されず、おとぎ話のようなふわふわとしたイメージで思い描かれる。まさか、そんなイメージを遥かに凌駕するもうひとつの世界が現れるなんて夢にも思わない。
人間という枠組みに対する、神。
それは絶対にして、唯一無二の存在だ。
ある意味で、神よりも遠き存在である異世界の人間というもの。そう云えば、彼らは自分たちのことを〈プレイヤー〉と呼んでいた。エリンはふとそんな所を思い出す。プレイヤーという〈人種〉なのか〈種族〉なのか、あるいは〈生き様〉だろうか。何にしろ、エリンからすれば、彼らはまるで神のように異なる存在だった。
特に、〈蜃気楼〉の二つ名で呼ばれていた彼女のことを思い出してみれば、それだけでもう笑いがこみ上げてくるぐらいだ。
いや、むしろ、笑いを堪える必要なんてないだろう。
エリンはこんな時こそ笑うべきだと考える。
「あ、あはは……痛っ、イテテ!」
笑うだけで、身体が痛い。
本当に、死にそうだ。
だが、エリンは死にたくなかった。
死んでやるものか、と思った。
「ようやく」
生まれてから、今まで。
十七年という人生のすべて。
無能力者として――。
最底辺の弱者として――。
生きて。
耐えて。
それでも、ずっと本物の強さに憧れていた。
どれだけ願っても、叶わぬものだと思っていた。
「ここから、だ」
ゲームスタート。
今、エリンは遂に一歩を踏み出した
始まったばかりで終わるなんて許されない。絶対に。
エリンは生きようとする。力強く目を見開いた。そうすると、ぼやける視界の隅っこに何やらアイテムが転がっていることに気付く。
それは、いくつかの小瓶である。
エリンの記憶が確かならば、こんな所にアイテムは落ちていなかったはずだ。手を伸ばせばあっさり届く距離である。地底湖はジュエルスライムの輝きが唯一の光源で、ほの暗いけれど、それでもこの距離で気づかない程にマヌケではない。
――アイテム〈初心者用ポーション〉
数秒間見つめていると、ヘッドギアのディスプレイに表示が浮かんだ。
アイテムを始めとした名称の自動表示なんて、VRMMOでは最初から備わっている基本的なシステムのひとつに過ぎない。フィールドを移動した時に、新しい地名が自動的に表示されるのも同系統のシステムである。
仮想世界に生きるプレイヤーならば、リンゴが上から下に落ちるのを不思議に思わないのと同じレベルで、色々な情報が自動的に表示されていくのを当たり前のものとして受け入れている。
だが、ここは異世界である。
現代日本とはかけ離れているものの、ひとつのリアル。
見ただけでアイテムの名前が勝手に知れるなんて、それはもう人の能力を越えてしまっている――すなわち、神の加護に等しかった。
しかし、現状のエリンには、そんな奇跡のような一瞬にも感動している暇はない。なにせ、今にも死にそうだ。とにかく必死である。
霊薬。
そう悟った瞬間、反射的に手を伸ばしていた。
一番身近にあった小瓶を掴み取ると、丁寧に蓋を外している余裕もなく、乱暴にそのまま握りつぶしてしまう。ガラス片で手が血塗れになるのは覚悟しての行動だったが、不思議と怪我はしなかった。尖ったガラスを握り込んでも、まったく痛みすら感じないのだ。
【付与能力:オメガボディ】
[すべてのステータスがアップする(効果:極大)]
[すべての属性耐性がアップする(効果:極大)]
[すべての状態異常を無効化する。ただし、特別スキルの効果で発生する状態異常については〈オメガボディ〉は発動しない]
小瓶の中身が、エリンのすぐ近くに流れ落ちる。
密封されている状態では液体だったが、それはすぐに気化していく。
まるで、黄金の嵐。
わずか数秒であるが、エリンの全身を包み込んで渦巻いた。
「……ん?」
派手ながら、短時間のエフェクト。
効果をじっくり味わう前に終わってしまった。
ポーションは傷を癒やすためのアイテムである。ただし、エリンの生まれ育ったこの異世界では、ポーションはそこまで大した効果を持つものではなかった。軽い怪我ならば治療できる。だが、重傷者には痛み止め程度にしかならない。どちらかと云えば、即効性に優れている点で需要があるアイテムなのだ。
エリンは死にかけていた。
普通、これはもうポーションが役に立たないレベルのダメージである。だが、エリンは無我夢中、藁にもすがる思いで落ちていたポーションを使用した。逆に冷静だったならば、こんなことをしても無駄だろうと諦めていたかも知れない。
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【アイテム:初心者用ポーション】
対象一人のライフを完全に回復する。
さらに、死亡を含む、すべての状態異常を回復する。
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もちろん、エリンが使用したのは普通のポーションではない。
異世界のアイテムではなく、それは仮想世界のアイテムである。
「ん?」
エリンは寝転がったまま、首を傾げた。
「いや、まさか……」
ありえない。驚きを抱えて、エリンは飛び起きた。
それは文字通りに、である。
【付与能力:メビウスフライト】
[ジャンプ性能がアップする(効果:極大)]
[落下ダメージを無効化する]
[特別スキル〈飛行〉を使用可能になる]
ジャンプ性能のアップ。
エリンが大の字に倒れた状態から、思わず、上半身のバネを使って全力で飛び起きようとしたら――本当に、高々と飛び上がってしまった。
「なっ……!」
身体の痛みは消えていた。
ほんの数秒前まで死にかけていたのが嘘のように、むしろ絶好調である。怪我が癒えただけでなく、疲労感まで消え去っていた。地底湖に浸かったままで冷え切っていた身体も温まっている。
そんな体調の変化に気付いて、思わず起き上がろうとしたわけだ。
それが、このザマ――。
自分の背丈の三倍ぐらいのジャンプ。
予想外の出来事に、エリンはバランスを崩して頭から落下してしまった。しかし、『落下ダメージを無効化する』という効果もあるため、これもまったく平気である。
「痛くない」
傍から見れば、一人でドタバタしているだけの喜劇だろうが、エリンはふざけているわけではない。むしろ、どんどん真面目な顔になっていく。
下手なことをしないように注意深く座り込み、深呼吸を繰り返した。
落ち着きを取り戻してから、自分の胸元にゆっくり視線を向けてみる。
「ああ、そうだよな」
もはや疑ってはいなかった。
エリンはこれまで自分が体験した出来事が、夢や幻ではなかったと既に確信している。その意味では一切の驚きはない。だが、この感動は簡単に止められるものではなかった。
震える。
熱の塊のような息を吐き出した。
それでも震えて止まらない身体を、エリンは必死に抱きしめる。
胸元にあるものは、ユニークアイテム〈バッジ〉。
神の加護を持たない無能力者が手にした、未知なる力の象徴だった。
「ここから、だ」
エリンは再び宣言すると、ゆっくり立ち上がっていく。
決意を胸に秘めて、手を伸ばした。
ユニークアイテム〈バッジ〉が、その想いに応えるように輝く。
チープな電子音と共に、十六色のドットがエリンの両手を包み込むと、一瞬の後に出現したのは機械仕掛けの巨大な戦斧である。回転するビームブレイドを大きく振るえば、地底湖の広大な湖面にはさざ波が広がり行く。
これは、神の加護ではない。
だが、エリンはワクワクしていた。
持たざる者である無能力者には、絶対に与えられなかった無限の可能性。
闇ばかり立ち込める、地の底。危険なダンジョンの奥底からでも、エリンは光に照らし出された道が開けていくのを感じた。恐れるものはない。精一杯の強がりではなく、エリンはあくまで自然に笑みを浮かべた。それはもう大胆不敵に、世界を救うヒーローみたいに。
絶体絶命の窮地を笑い飛ばして、ただ前を見据える。
真の意味で、ここからがゲームスタートである。




