第1話 神との対面。あるいは、ただのチュートリアル(1)
エリンは昔、父親から後頭部をフルスイングされた経験がある。
その日、父は酔っていた。
深夜にパーティーから帰った父は、ワイングラス片手にふらふらとエリンの子供部屋に入ってきた。ワイングラスを持ったまま自宅に帰って来てしまったあたりに酩酊具合がわかるし、それよりも何よりも、ワイングラスの中にはなぜかバナナが突き刺さっていた。
むしろ、酔っ払いであれ。
あれで素面だったら、父がどんなパーティーに出席していたのか想像するのも恐ろしい。
父は寝ていたエリンを引っ張り出して云ったものだ。
お前も大きくなった。パパが代々伝わる一子相伝の秘剣を教えてやろう、と。
寝ぼけ眼でボーっとしているエリンの前で、父は「うはははぁー」とゲラゲラ笑いながら、子供用のおもちゃの木剣を振り回した。そして、手を滑らし、エリンの後頭部に一子相伝の秘剣とやらを叩きこんでくれた。
なお、父は剣神の信仰者である。
それも、かなり剣神に愛されている。
エリンの幼い意識は、巨象に蹴飛ばされたような凄まじい衝撃と共に吹っ飛んだ。
――これが、死ぬってこと?
子供心に覚悟を決めたエリンである。
しかし、不幸中の幸いか、死ななかった。
気絶しただけである。
しばらくの後、パチッと目を覚ました。まるで生まれ変わったような気分のエリンが目にしたものと云えば、顔面がボコボコに変形した父と、それでもなお怒りの拳を連打する母(拳神の信仰者)だった。
「こどもになにしとんじゃ、おどれは!」
この世の物とは思えない悪鬼羅刹の形相の母を見て、エリンはやっぱり、自分は死んでしまい、ここは地獄なのではないかと思ったものだ。
正直に云えば、思い出したくないエピソード。
そんなものを思い出してしまったのは、ちょっと似ていたからだ。
――俺は、死んだのか?
最初、そんな風に錯覚した。
現実からの離脱感は足元から訪れる。足場がフッと無くなり、いきなり落下するような物悲しい絶望感がちょっとある。それは眠りに落ちるのに似ているようで、理性のコントロールが残っているあたりは全然違った。
仮想世界へのダイブ。
気を失ったわけでもなければ、死んだわけでもない。
現実、ダンジョンの地底湖の景色は消え失せて――。
音もなく。
匂いもなく。
エリンは今、暗黒の世界を漂っている。
「生きている。だが、どうなってる?」
ダンジョンの中で倒れ、瀕死の重傷を負っていたはずだ。
だが、エリンは身を裂くような痛みが嘘のように消えていることに気づく。そもそも、どこにも最初から怪我をした様子がなかった。
「……なるほど、オーケー。落ち着いた」
何もかも驚くべき状態だったが、エリンは慌てなかった。
神の加護を持たない無能力者のエリンは、文字通り、これまでの人生を己の身ひとつで生き抜いてきた。弱者であるものの、場数だけは踏んでいる。神の加護を持つ厄介者たちのおかげで、常識では計り知れない事件や事故に巻き込まれたことも一度や二度ではなかった。
不思議な状況は、決して不思議ではない。
矛盾しているようだが、神が関わった時はそんな風に考えるべきだ。
「少なくとも、怪我の痛みが消えた。それだけでも良い方向に転がったと前向きに行こう。ここが何処かはわからないけれど、モンスターがたくさんいるダンジョンの中よりは安全かも知れない。笑え笑え、俺。楽しく行くぞ」
両手で顔を叩いて、エリンは自分に云い聞かせる。
普段は、ここまでしない。
全力で気合いを入れたのは、既に一度諦めてしまったからだ。
――さよなら、意味のない人生。
「ただいま。クソみたいな人生」
エリンはもう一度、自分の人生に踏ん張ろうとしていた。
「さて、ここから何が起きる……?」
VRMMO専用ヘッドギアは、その機能を正常に作用させている。
エリンが居るのは、仮想世界。
正確には、仮想世界が展開される前の中間地点――。
前時代からの表現を使うならば、ローディング中の状態にあった。
もちろん、エリンはそうした一切を理解できていない。異世界にはヴァーチャルな技術は存在しないのだから。異世界の科学はとても原始的である。
VR――ヴァーチャルリアリティ。
異世界ではなく、エリンが巻き込まれた先の世界について――。
すなわち、現代の日本におけるVR技術について――。
それは、旧世紀にSFとして描かれた水準まで発展を遂げていた。
最先端の仮想現実は単純に視覚だけで作られるものではなくなっている。
VR技術が娯楽業界に導入された最初期の時代に生まれたのは、VRゴーグルという安価な装置だった。視覚にダイレクトに映像を投影するだけのシンプルな装置である。それは現代の技術水準からすれば化石のようなものだ。
最新のVRシステムは根本の原理から異なる。
VRMMO専用ヘッドギアは視覚や聴覚という感覚器に頼るものではない。視覚に対して映像を、聴覚に対して音楽を、それらを直接発するのではなく、専用ヘッドギアから発せられるのは唯一、脳に対する電気信号なのだ。
眼や耳のさらに奥、頭蓋を超えた大脳新皮質に電気信号を用いて効果を及ぼした時、VRは体験者にとって現実と変わりなく存在し始める。
専用ヘッドギアの初回起動時には多少の時間が必要とされるが、それは使用者の脳に必要なデータをダウンロードしているからだ。
記憶装置としての脳に新たな領域を作り出し、感覚器に繋がる回路を書き加える。専用ヘッドギアは人間が仮想世界に対応できるように脳機能の進化を促していく。
詰まる所、VRMMO専用ヘッドギアは脳機能と直結する。
例えば、その一環として――。
――あなたの言語野に一致するプリセット言語が見つかりません。
エリンには先程から『声』が聞こえていた。
人の声とは何かが違う、ひどく無機質なその『声』。
エリンは当然、神の声と想像する。
遂に、神が語り掛けてきたのだろうか、と。
しかし、その『声』はただのシステム音声である。
最初は何を云っているのか、エリンには全然伝わらなかったシステム音声のアナウンス。当然ながら、異世界の住人であるエリンには、現実の言語はまったくなじみがないものだ。
しかし、それが徐々に理解できるようになっていく。
――あなたに『日本語』の基本言語セットを書き込んでいます。
――専用ヘッドギアの電源を切らないでください。
――しばらくお待ちください。
「なんだ、これ? 頭の中、変な感覚が……」
エリンの独り言は意図せずに日本語で発せられた。
「……あれ?」
未知の言語を知らず知らず口にしているという事実に、エリンはかなり遅れて気がつく。まるで郷里の言葉のように、見知らぬ言語がエリンの脳内で知らない内になじんでいた。
「これは、もしかして……」
エリンはそれでも冷静だった。
常識では計り知れない状況に置かれている。
少なくとも、エリンの常識において、これは人の為せる業ではない。
だから、こう思った。
なるほど、これは神の仕業である。
「ま、まさか……! でも、どう考えてもこれは……」
自分の身体に、常識では理解できない変化が起きている。
知らないはずの言語を、知らない内に身に着けてしまった。
エリンにはその原因がひとつしか思い浮かばない。
神の加護である。
「そうとしか思えない。俺は、もしかして、遂に……」
エリンの声は熱を帯びる。どうしようもなく、興奮を抑えられなかった。
もちろん、盛大な勘違いである。
これはVRMMOであり、エリンの身に起こっていることはゲームの初回起動時の準備に過ぎない。
異世界の神はまったく関係ない。
ただし、エリンの勘違いも仕方なかった。異世界の常識として、このような異常事態は神々の力が働いたものとしか思えないからだ。
「やっぱり半魚人の持っていた兜は神遺物だったのか。その加護の力に引き込まれた? だとすれば、ここは神々の住まう天上界という可能性もあるのか――」
エリンの思考はフル回転する。様々な推測を重ねて行くけれど、そもそもの出発点が間違っているのでたどり着く答えはどんどん彼方にずれていく。
――『日本語』の基本言語セットのインストールが完了しました。
「おお! なんだこれ。面白い」
システム音声が告げると同時、エリンの頭の中はクリアなものとなった。
一方で、未知の感覚に脳の表面がぞわぞわしている。
言葉に形はないけれど、それでも頭の中に何かがあるのだ。
言語ひとつ分の知識が頭の中に押し込まれている。ぺたぺたと撫で回すような気持ちで、エリンは新たに与えられた『日本語』で色々なものを思い浮かべたり、文章を考えてみたりする。
あれこれ繰り返していると、驚愕の事実に気づいた。
ぞくり、と。
背筋を走り抜ける悪寒と共に、その単語を口にする。
「ち〇こ」
口に出した後も、違和感はぬぐえない。
身震いした。
なんだ、これは――。
疑問を振り払うように、次々と早口に叫んだ。
「ちん〇ん! ち〇ぽ! 〇んぽこ!」
どれだけ繰り返しても、エリンは理解できなかった。
「畜生! なんなんだ、これは?」
いや、お前がなんなんだよ――。
そんな風にツッコミが入りそうなエリンの混乱っぷり。
「同じ意味なのに……どうしてこんなに次々と、違う言葉が思い浮かぶ?」
異世界における主要言語では『それ』を示す単語はたったひとつに限られた。わざわざどうして『こんなもの』に星の数のごとく数多の表現が存在しているのか。
まるで、意味がわからない。
日本語の表現の奥深さ、それがエリンの理解を苦しめていた。
「息子! 男性自身! エッフェル塔!」
ひたすら延々と叫んでいると、エリンにシステム音声が呼びかける。
――すべてのダウンロードが終了しました。
――あなたのBMI−BCは正常に形成されました。
――それでは、ゲームを開始します。
ピコンと軽快な電子音が鳴る。
光が満ちて、仮想世界が創造された。