プロローグ(後)
「さて、どうしよう?」
大の字に倒れたまま、エリンは地底湖の高い天井を見上げていた。
濡れた髪をかき上げる。
エリンは無能力者でバカにされることばかりだが、まったく長所が無いわけではなかった。
幼少の頃から「かわいい」と褒められ続けてきたこの顔立ち。
ミスリルの輝きに似た蒼金髪、闇夜の猫のような黒色の瞳。夏の草原のように爽やかな風貌は、大陸一のモテ男だったと自称する父譲り。
一方で、逆鱗に触れたドラゴンのように勝気な目元は母から受け継いだ。
さんざん周囲に持てはやされて来たので、エリンは自身の容姿が優れていることはちゃんと自覚している。だが、この顔を気に入っているかと云えば、まったくそうではなかった。
エリンは自分の容姿が大嫌いだ。
まず、童顔である。それも、かなりの。
黙っていると、女の子に間違われることが度々あった。
さらに問題を深刻にするのは、魔王の呪いでも受けたかという身長だ。
無能力者であることに加えて、エリンの人生最大の悩みの種である。
現在、成長期も終わらんとする十七歳である。
どうにか十歳以下に間違われることは少なくなった。
まあ、つまりそういうことだ。
背の高さの神が存在するならば、命を捧げる覚悟はできていた。
「しかし、このままでは捧げる命も無くなる」
この地底湖がダンジョン内部のどこに位置しているのか、正確には知りようがないものの、それなりの深層というのは想像が付いた。
冒険者組合から提供されるデータブックには、ダンジョンの中に地底湖が存在するとは記されていない。それはすなわち、この地にたどり着いた冒険者は今まで誰もいないということだ。
ダンジョンの深層にして、未踏破エリア。
それだけで、エリンにとっては絶望的である。
王都近郊に位置するこのダンジョンは、冒険者組合の管理下に置かれている。そのため、探索が行き届いたエリアは冒険者組合によって整備されていく。浅層のほとんどは道案内の看板や十分な光源が設置されている上、モンスターの定期的な駆除が実施されていた。
一方で、中層から深層にかけては手付かず、冒険者組合にも手に負えない。
そこはもう人の世界ではなく、闇ばかり広がるモンスターの世界なのだ。
ここも本来ならば松明やランプがなければ何も見えないはずの場所だろう。
幸いにして、エリンは十分な視界を確保できていた。地底湖がなぜか不思議な輝きを放っているからだ。水中に目を凝らしてみれば、何やらたくさんの蠢くものが見えた。
「ジュエルスライム。ここはモンスターの巣か」
平野や森、都市の下水溝、どんな場所にでも巣食うモンスターのスライム。
ジュエルスライムは、スライム属の中では希少種である。
鉱物を侵食するように体内に取り込み、消化の過程で様々な宝石を精製していくジュエルスライム。それらの宝石は年月を経て大きくなり、ジュエルスライム自身の魔力に反応してピカピカと光を放つ。
一匹の光量は大したものではないが、地底湖を埋め尽くさんばかりの数のジュエルスライムが見えていた。スライム嫌いの人間が見たら悲鳴を上げるに違いないが、それと意識しなければ星空のように美しい光景である。
「希少種のジュエルスライムがこんなに……。根こそぎ狩れる力があったら、それだけで大金持ちだな」
エリンはこっそり立ち上がろうとした。
スライムはモンスターの中では危険度が低く、防衛以外の目的で人間に襲いかかって来ることは稀だ。それでも、モンスターはモンスターである。絶対に襲って来ないという保証はないのだ。
少なくとも、水辺を離れるべきだった。
「……あー、でも、やっぱり無理か」
残念ながら、エリンはどうやっても起き上がれなかった。痛みも酷い上、やぶれた風船に空気を入れるような手ごたえの無さで、下半身に全然力が入らない。
上半身だけは何とか起こせたものの、それで精一杯だった。
「ここまでの怪我はひさしぶりだな……」
冒険者は危険な稼業だが、何事も安全第一が求められる現代社会。
ひと昔前は『ガンガンいこうぜ』が冒険者組合の標語だったが、最近はいつも『いのちだいじに』と掲げられている。ギルドが近年設置した【初心者の館】も、冒険者になったばかりの若者にみっちり基礎を叩きこんでくれる。
だから、エリンは冒険者になってからは大きな怪我をしていなかった。
こんな風に身体が云うことを聞かないのは初めてだ。身体の内側が溶けた鉄でも流し込んだように熱く、正直な所、じっとしているだけでも死がじわじわ近づいて来るのを感じる。
口が乾くが、水も食料もない。
道具袋は溺れている間に失くしていた。
「まあ、薬草があった所でこれだけの怪我には意味がない。霊薬は高級品で買えないし、回復魔法はそもそも神の加護がないと使えない。……いや、違うな。たぶん、ポーションもヒールもこの状況だと役に立たない」
錬金の神の加護により作られる霊薬、ポーション。
治癒の神の信仰者が覚えられる魔法、ヒール。
ポーションやヒールは便利であるものの、決して万能ではなかった。切り傷や打ち身のような小さな怪我ならば一瞬で治せる。それはもちろん、冒険の最中の手当としては非常に優れたものだ。
しかし、ポーションもヒールも大怪我には無力である。
痛みを和らげるぐらいの効果はあるだろうが、完治させるには力不足だった。
一応、『錬金術の偉大なる開祖が万能の霊薬を作り上げた』とか、『大聖女の回復魔法は不治の病すら治す』とか、そうした嘘か真かわからない噂話ならば聞こえて来る。だが、それこそ今のエリンにはまったく関係のない話である。
「もしも、勇者みたいな神の加護があったら……」
光輝く地底湖をぼんやり眺めながら、エリンは叶うことのない夢を口にする。
「特に伏線もなく、この状況を打破するアイテムが流れて来るような奇跡が起こるんだろう。だが、俺は勇者じゃない。ここで奇跡が起きるなんて、そんな都合の良い話は絶対に――」
だが、奇跡は意外にあっさり起きる。
エリンはハッとして、地底湖に手を伸ばした。
強い痛みが走ったけれど、そこはなんとか我慢する。
何やら大きなものが目の前に流れて来ていた。
「なんだ、これ……」
必死に引っ張りあげた。
「こ、これは!」
半魚人の死体だった。
「さっきいっしょに溺れていたヤツ!」
ちゃんと伏線も張られていたヤツ。
「もうダメだ!」
エリンは絶叫し、再び大の字に倒れ込んだ。
引っ張り上げた半魚人がそのままだったので、死体と添い寝するような恰好になったけれど、もう一度動かそうという気力はわいてこない。
ダンジョンから生還するためのアイデアはまったく思いつきもしない。
そもそも無傷で自由に動けたとしても、この地底湖に出口があるのかもわからない。うまく出られたとして、ダンジョンの深層を一人で切り抜けられるかと云えば絶対に無理だ。どう考えても、エリンは詰みの状態だった。
「もしも、このまま死んだら……」
エリンは想像してみた。
「いつの日か、こんな深層まで来られる高ランクの冒険者に発見してもらえるかな。その時はもう、骨だけになっているかな。……たぶん、隣の半魚人も白骨化しているよな。人間と半魚人の骨が並んでいるのを見て、異種族の許されない恋の末路とか想像されちゃうかな――」
エリンはもう一度、必死に上半身を起こした。
やっぱり半魚人の死体は地底湖に沈めようと思ったのだ。
「……ん?」
半魚人の死体を押そうとして、大きなエラの付いた手が何かを抱えていることに気付いた。
「なんだこれ? こんなもの抱えていたから、半魚人のくせに溺れていたのか」
希望は捨てたはずが、思わず少しだけ期待してしまう。
世の中には希少な神遺物というものが存在する。神の加護が宿ったアイテムである神遺物は、ダンジョンの深層で発見されることが多い。
神の加護は不可能を可能とする。もしも神遺物が手に入ったならば、無能力者のエリンにも脱出の糸口が見えるかも知れない。
「こ、これは!」
エリンは震える手で、半魚人が大事そうに抱えていたアイテムを回収した。
形状を確かめるように撫でてみる。首を傾げながら、じっくり眺めまわした。
「……いや、なにこれ?」
よくわからないものがエリンの手の中にあった。
「兜?」
頭に装着するアイテムであることは間違いない。
しかし、防具とは思えない。
鉄兜のような頑丈な造りではないし、からくり細工を思わせる小さなパーツがたくさん付いている。視界を確保するためのスリットには薄いガラスがはめ込まれており、それも防具としては機能的ではない。
「頭にかぶるもので間違いなさそうだ。でも、装飾が色々と邪魔だな。……いや、もしかして! 噂に聞いたことがあるぞ。衣服が透けて見えるメガネがあるとか。こ、これもそうした神遺物だったりして――」
一瞬、興奮するエリン。
だが、すぐに気づく。これがスケスケメガネと同じ力を秘めていたとして、この場で着用しても透けるのは半魚人の死体ぐらいだ。エリンは半魚人の鱗がスケスケになって、それで喜べるような特殊な人間ではなかった。
「うーん。人生で初めて、トリッシュやイオにわざわざ会いたいと思える」
中身は最悪でも、見た目はなかなかの武道家と僧侶である。
「よくわからないけれど、この状況をどうにかできるものではなさそうだ」
正体不明のアイテムを抱えながら、エリンは自嘲的に笑った。
もしも、エリンが鑑定の魔法を使えたならば、アイテムの名称ぐらいは知ることができたかも知れない。ただし、それを知った所で何の役に立つアイテムなのかはわからなかっただろう。
これはそもそも、本来この世界に存在するはずのない物である。
――アイテム【VRMMO専用ヘッドギア】
「さよなら、意味のない人生」
エリンが静かにつぶやいた一言は、普段は胸の内に秘めているものだ。
無能力者とバカにされても、心を腐らせずにやってきた。そんな今までの自分を裏切るような言葉を吐き捨てたのは、これが最後だと本当に覚悟を決めたからだ。
「ああ、格好悪い」
弱くても、格好はつけてきた。
それが最低限の矜持だった。
無能力者に待ち受ける運命なんて、どんな道を選択しても、結局はいばらの道である。右も左も地獄に向かう道と知りながら、それでも自分の意志で進もうとするのはかなりしんどい。エリンはどちらかと云えば、流されるようにしてここまで生きてきた。
そんな自分が格好つけても、格好つかないことはわかっていたけれど。
最後ぐらい、無様にあがくような道を選択しても良いかもしれない。
エリンは不意にそう思った。
「仕方ない。試しに装備してみるか。本当に神遺物の可能性だって無くはない」
最後の選択はそんな風に投げやりに済まされた。
「もしかすると、奇跡が起きるかも知れない」
エリンはいつものように笑った。
謎のアイテム、VRMMO専用ヘッドギアを装着する。
内臓バッテリーは生きており、電源が自動的に入った。
『システム起動』
システム音声が頭の中で響いた。
「……え?」
パーツの各所が輝き始め、小さな駆動音を響かせる。予想外の出来事にエリンは不安を覚えたが、次の瞬間には意識はプツンと途絶えていた。
肉体の五感が消失する。
エリンはヴァーチャルな世界に引きずり込まれていく。
――生体認証チェック……エラー。
――B‐SEAの登録チェック……エラー。
――国際統合データベースの検索を開始します。
――PIN……不明。国籍……不明。年齢……。
――プロトコル〈ジェーン〉を起動します。
――しばらくお待ちください。
――しばらくお待ちください。
――しばらくお待ちください。
――しばらく……。
――了承。
――新規プレイヤーとしての仮登録を完了しました。
――ようこそ、仮想世界へ。
エリンの生まれ育った世界とは異なる、ある別世界の話である。
新世紀を迎えて、その世界では幾度かの技術特異点を経験していた。とりわけ日本と呼ばれる国ではVR(仮想現実)技術が高度に発展を遂げていた。
文化のひとつとして浸透する中で、いつしか娯楽分野にも還元されるようになったVR技術は、旧世紀に一斉を風靡したオンラインゲーム――つまり、MMOと邂逅を果たした。
VRMMO。
それはゲームである。
現実から切り離され、完全没入型の仮想世界を体験できるゲーム。インターネットを駆逐した次世代型の情報通信領域を介して、仮想世界では世界中のプレイヤーがリアルタイムで交流している。
VRMMOはゲームである。ただし、極度に肥大化したVRMMOとその舞台である仮想世界は、もはやゲームの役割を超越した文明の一形態となって久しかった。
故に、それは『第二の現実』とも称される。
――Presented by YU-RAKUDO
エリンの世界には無数の神々が存在する。
一方で、あちらの世界にも神がいた。
神とは、世界を創造するもの。
あるいは、秩序と平和を司るもの。
それはすなわち、VRMMOを運営する企業の役割と同じだ。
神のごとき巨大企業『優楽堂』は日本の歴史あるゲームメーカーである。
――Virtual Reality Massively Multiplayer Online
――VRMMO〈CROSS〉
異世界の神々はエリンに微笑まなかった。
本音を云えば、奇跡をずっと待っていたのかも知れない。故郷を去り、冒険者になってみた所で、エリンにはひとつの可能性も与えられなかった。
神に選ばれるかどうか、それだけで決まる人生にエリンは悲しみを覚えていた。そして、それ以上の静かな怒りを胸に秘めていた。
可能性は今、無限に広がりはじめる。
無限の可能性を秘めたゲームが、エリンを待ち受けていた。
神は微笑んだ。
――これからゲームを始める新規プレイヤーに応援キャンペーン。
――初回起動時に【初心者用ポーション】を十個プレゼント。
================================
【アイテム:初心者用ポーション】
対象一人のライフを完全に回復する。
さらに、死亡を含む、すべての状態異常を回復する。
================================
VRMMO専用ヘッドギアを装着し、仮想世界に意識がダイブしているエリンはまだ気づかない。瀕死の傷を負って、ちゃんと立ち上がることすらできないボロボロの身体。システム音声のアナウンスと同時に、エリンの周囲には黄金色に輝く不思議な液体の小瓶――〈初心者用ポーション〉がきっちり十個出現していた。