68話.手遅れ
クオレスに連れられた先は山一つ向こうにある廃城だった。
険しい山に囲まれた城の周囲には町や人里の灯り等は一切無く、まばらな針葉樹の森と瘴気の霧だけが広がっているのが月明かりによって視認出来る。
こんな、人間どころか動物すらあまり生息していなさそうなところを選ぶだなんて、魔人に支配されても尚その心には優しさが残っているのでしょう。
私はそう信じることにした。
城内は驚く程に綺麗だった。亡霊と衛兵と共に行った廃城も思ったよりは綺麗だったけれど、それとは比較にならない程こちらの方が上で、もはや廃城とは思えないほど。
中には人が過ごせるように整えられた部屋まであり、私はその一室に入れられ――中にあった黒いベッドの上に押し倒されていた。
「もっと早くからこうしていれば良かった」
クオレスは私の上に覆いかぶさりその顔を近づけてくる。
信じられないことではあったけど、この状況で何をされるかわからない私では無かった。
「ク、クオレスっ!? どうして、い、いやっ、なんでっ」
「何故嫌がる。私達は婚約者だろう」
「今のあなたは正気じゃないわ! あなたはこんなことをするような人じゃない! お願いだから魔人の意思なんかに負けないで……っ」
「ハッ……何もわかっていない癖によく言う」
クオレスは嘲るような笑みを浮かべながら私の頬に触れる。
「君の体を穢してしまえば、他者に体を捧げる気なんてもう二度と起こさなくなるだろう?」
「な、なによそれ。私を軽薄な女みたいに言わないで! もとから私はクオレス以外の物になる気なんて」
「あの娘に捧げようとしたではないか! 君は私を裏切ったんだ。私よりもあの小娘を選んだ!」
赤黒い瞳に睨みつけられた私は体が強張る。
彼の本来の瞳の色は、淡い影の色に薄っすらと青が乗った綺麗な色なのに。
強く握られた手首が痛い。
「違う、私、そんなつもりじゃないわ……。私は誰よりもあなたのことが好き。だからこそ、あなたから愛される事が無いのならもう幸せになれないと思って、あなたを諦めようとして……」
「諦めるなんて耳当たりの良い言葉を使おうとするな。君は私は捨て、自分自身をも捨てようとした。これが紛れも無い事実だ。私をこんな思いにまでさせておいて……よくも私から逃げようとしたな。君さえいなければ、こんな事にはならなかったのに……このような苦しい感情を抱く事など、無かったんだ……」
ここまで言われては、流石に気づいてしまう。
それだけはないと、ずっと思っていたのに。
「クオレス……。もしかしてあなたは、私のこと」
「嫌いだ。君さえ現れなければ、私は感情なんてものを殺せていたんだ。君がいたせいで私は感情を殺しきれなかった。魔人をこの身に封じるためには感情など不要だったのに」
この時私は初めて知った。彼が魔人を封じるという役目のために、ずっとあのような振る舞いをしてきたのだということを。
嫌い。その言葉は随分と歪んだ愛の告白のように思えた。
クオレスはおもむろに胸元を開けてその肌を私に見せつけてくる。この体勢ということもあって、私は思わずたじろいでしまったけれど……今まで目にしたことも無かったその部分には、属性の印が刻まれていた。
「この印を宿して生まれた時から私はそのように生きていかざるをえなかった。君さえいなければ、上手く出来ていたんだ。君さえいなければ……きっと、異なる世界で他の人間にうつつを抜かす愚か者が生まれる事も無かった……。聖女に対して、何の感情も抱く事も無いままに魔人を滅ぼすよう導く事も出来ただろうに……」
クオレスは苦しそうな、泣きそうな声で嘆く。
私がクオレスといる事を望んでしまったからクオレスは完全に無感情の人間になれなくて、そのせいで他の世界ではユアナを好きになる気持ちが芽生えてしまった……そういう事なの? 私がいなければ、クオレスは他の女を好きになる事もなかったの?
クオレスが他の世界を知っている事などどうでもよくなる程、私はその事実に愕然としてしまっていた。
「こんな感情は知りたくなかった。君といるとどうしようもなく苦しいんだ。君の事を考えるだけでどんな理不尽や暴力よりも胸が痛くなる。私の言葉が届かないことには酷く絶望したものだ」
「クオレス……」
愛していると彼が口にしたあの夜のことを思い出す。
もしも私があの時クオレスを信じる事が出来ていれば、クオレスがこんな風に心を闇に堕とす事もなかったのかもしれない。
あの時私はクオレスの辛そうな顔を見て、愛しているのならそんな顔をしない筈だと切り捨ててしまった。ユアナを愛している他の世界のクオレスの穏やかな表情と見比べてしまった。
だけど違った……クオレスは私を好きになったからこそあの表情をしていた。私への想い故に苦しんでいたのに、私は気づけなかった。
私がもっと、目の前にいるクオレス自身を信じていれば。
――私を見てくれ。今、ここにいる私を。
……あの言葉はそういう意味だったのね。
「……ごめんなさい、クオレス。私……」
「もう遅い。全て過ぎた事だ。私は使命を放棄し魔人と同化した」
同化……?
「待って。同化って……。元に、戻れるの、よね……? だって、ロウエンやアニマ様は、ユアナさんの力で」
「あれらとは話が違う。奴等は魔人が生み出した分身にそそのかされ力を与えられたに過ぎず、分身はその心の奥底に巣食うのみだった。しかし、私にはもう……かつての魔人の意思は残されていない。それもそうだろう、私自身が魔人になったのだからな。魔人の目的は私に成り代わる事などではなく、私が新たな魔人となるように仕向ける事だったんだ」
「そんな……そんなことって……!」
もう戻れないの?
私のせいで、優しかったあなたが……。
「だから、ジュノ。私と同じところまで堕ちてくれ」
「い、や……」
もう手遅れだなんて、そんなの受け入れたくない……。
私は、ドレスに手をかけようとするクオレスの手を拒絶するように弱々しい力で押しのけていた。
「……興が醒めた。続きはまた今度だ」
不満そうな顔のクオレスは私から離れ、部屋から出て行ってしまう。
彼に想われていたとわかったのに、胸が苦しい。
どうしてこんな事態に陥るまで気づけなかったの。
思い返してみれば彼からのサインはいくつもあった。
以前は私のことをジュノ嬢としか呼ばなかったのに、二人の時はジュノと呼ぶようになっていたのもそう。あれは彼なりに私との距離を縮めようとしていたんだ。それなのに私は無理をしているようにしか思っていなかった。
……もっと深く考えるべきだった。義務感でしか動いていないのならそこまでする必要無いのにって、疑うべきは私の思考だった。
一旦他の世界でのあなたのことを全て忘れて、あなた自身の表情や言葉や行動をちゃんと見つめていたら、何か気づけたかもしれないのに……。
「ごめんなさい……」
ずっとあなたを傷つけていただなんて。
ベッドの上に一人残された私はただ涙を流すしかなかった。
後悔と悲しみに沈んでいる内に、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
ベッドで目を覚ました私は身を起こし、辺りを確認する。
部屋には窓が無く、今が朝か夜かさえわからない。
扉に鍵はかけられていなかった。
「外に出てもいいのかしら……」
とはいえ、部屋の外に出たところで何をすべきかわからない。
そもそもクオレスはなんのつもりで私をここに連れてきたの?
私をずっと手元に置いておくため?
……想像したら少し恥ずかしくなってきてしまった。彼は今あんな状態なのに。
まず今のクオレスが何をするつもりなのか聞きださないと。
クオレスはああ言っていたけど、今ならまだやり直せると信じたい。
だけど、ユアナの……聖女の力も無いのに、そんなことが出来るかしら。
そのユアナでさえ簡単にやられてしまったのに……。
……もうそんな考えは終わりにしてしまいましょう。
私のクオレスが好きなのは私。それなら私にしか出来ないことだって、きっとある。
私は自分を奮い立たせて身支度を整えていく。
服は黒いドレスが用意されていたのでそれに着替えた。そのサイズは明らかに私の体型より大きめだったけれど、着用するとぴったりなサイズに縮んでいった。もしかして城の中にある物は全て瘴気で作られているのかしら。スカートの裾部分が靄のようにぼんやりと薄くなっていてこれはこれで素敵かも……なんて少し思ってしまった。これが平時だったらクオレスが私の為にドレスを用意してくれたと大喜びするところだったのだけど。
部屋を出て広い廊下を歩く。誰のいない空間の中私の足音だけが大きく響き渡っていた。
クオレスはどこにいるのだろう。他の部屋の扉を開けてみても、私がいた部屋以外は何も無い部屋ばかりだった。物も無ければほこりすら無い。
呼べば返事してくれるかしら……そんなことを考えていた時だった。
突如轟音が鳴り響き、城が大きく揺れ出す。
「なっ、なに!?」
私はとっさに近くにあった柱に捕まった。
ただの地震? それとも何らかの魔法によるもの?
様子が気になった私はクオレス探しは中断して、揺れが収まってから外の様子を見に行くことにした。
城の外は漆黒で何も見えなかった。
濃い瘴気によるものなのだろうけど、これでは太陽が既に昇っているのかもわからない。
「私から逃げる気か?」
何の前触れ無く、後ろから威圧感のある声がかかる。私はすぐさま振り返り彼の姿を見た。
こちらを睨みつけるクオレスは瘴気で出来た鎧とマントに身を包み、まるで闇から現れた騎士のような出で立ちとなっていた。
「ち、違うわ。さっき大きな揺れがあったから、何かあったのかと思って……それに今の時間も気になるし」
「そんなものを気にする必要は無い。……が、どうしても気になるというのなら見せてやろう」
クオレスはそう言って私の腰を抱きながら前へと進んだ。そして濃い瘴気がすぐ目の前まで迫るところで彼は歩みを止め、私も一緒に足を止めた。
そして彼が手を前にかざし、一部の瘴気を消し去る。瘴気が晴れた先に見えた風景は。
「えっ」
険しい山に囲まれていたはずの城は、朝焼けの大空の中にいた。
大地は遥か下の方で白く霞んでいる。先ほどの揺れはこの城が周囲の大地と切り離された時の衝撃だったのだと私はこの時気づく。
「綺麗……」
「そうか。それならもう少しここにいようか」
風に飛ばされないようにと、クオレスは私の腰を更に強く抱く。こんな状況なのに少し嬉しくなってしまう私がいた。
「でも、どうしてこんなことを……? クオレス、あなたは何をしようとしているの?」
見上げると、彼は意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「これから世界を滅ぼす……とでも思ったかな? 別にこの世界を滅ぼすつもりは無い。こうして城を空に浮かせたのは誰にも邪魔されないようにする為、そして君を外へ逃がさない為だ」
それを聞いて私は少しだけ安心する。だけど次に続く彼の言葉は不穏なものだった。
「ただ……周囲は私を放ってはおかないだろうな。新たに出現した魔人を脅威として排除しようとするだろう。当然、やすやすとやられるつもりはない。邪魔立てする者達には一切の容赦もしないつもりだ。たとえそれで世界が滅びる事になろうともな」
「それは……私だって、クオレスが殺されるのは絶対いやだけど……!」
「……君なら世界よりも私を選んでくれると思っていたのだがな」
クオレスは悲しそうに笑った。
「私は世界なんて選ばないわ。あなたが取り返しのつかない道へ進んでしまうのがいやなの」
「もう手遅れさ」
突き放す言葉とは裏腹に、彼は空いている方の手で私の手に指を絡める。
もしかしたら今のクオレスにとってもこの状況は苦しいのかもしれない。
そうなのだとしたら、せめて今だけは彼の安らぎになりたい……。そう思った私は彼の手を優しく握り返しながら彼の体に寄り添い、朝日に照らされる地上の様子を二人で眺め続けた。




