67話.【クオレス】⑥
魔人に体を奪われそうになったあの日以降、私はジュノと顔を合わせないようにし、己から湧き出る感情を再び殺し続け無感情の自分を取り戻そうとした。……しかし殺せてなどいなかった。心の奥底に封じた感情は更に膨れ上がっていたのだ。
今日この日くらいは婚約者としてそばにいるべきだろうと参加したパーティーも、途中までは正しく己を律しているつもりだった。だがジュノをダンスに誘おうとする男達の視線を感じた時。気づけば私は周囲を牽制するために彼女と踊り続けていた。
このままでは駄目だ。
そう思ったからこそ、ジュノから別れを告げられた時は安堵もした。これでもう君に心を掻き乱されることは無くなると。けれどもそれ以上に形容しがたい感情が私を支配した。悲しみなんて生温いものでは済まされない。
再び私の内から瘴気が発生していく。魔人がこの身を作り変えるために。
……納得出来ない。
君が、私から、離れるなど。
いつの間に私はここまで身勝手な人間になっていたのだろう。彼女自身の幸せを願えないのか。
足は彼女のもとへと向かっていた。既に彼女の姿は見えなくなっていたのに、何処にいるのか正確な場所がわかる。遠くにいても、防音の壁に阻まれていようとも、関係無く彼女の声が耳に届く。その妙な感覚を奇妙にも思わなかった。
そうして聞こえてくるジュノの言葉は耳を疑うようなものだった。
肉体を明け渡す、だと?
何がジュノの幸せだ。そんなもの君自身の幸福ではないではないか。
そんな事の為に私から離れようとしたのか。
ただ他の男に取られる以上に腹立たしい。
君の姿をした得体の知れない存在など許せるものか。
そんなものが今後目の前に現れたら私は確実にその息の根を止めるだろう。ジュノという存在を穢されるくらいならばと。
辿り着いた部屋の扉に鍵がかかっていることさえも私を無性に苛立たせる。
邪魔者が入らないようにしているのか。……小癪な。
だが今の私に鍵など無意味だ。
溢れ出る瘴気によって扉を無理矢理開け放つ。
部屋の中には体勢を崩したのか、床に腰を下ろしたジュノの姿しか無かった。
「クオ、レス……?」
私を見て戸惑っている様子の彼女は私自身がよく知るジュノだった。
であれば、彼女が言葉を交わしていた相手は。
……今の私でさえ見る事の出来ない存在か。
『我の瞳であれば其奴を視る事など造作も無い事だ。あの女を守りたいのならば我の力を求めよ』
魔人の言葉にためらう事無く従い、心の奥底からその力を渇望する。
すると目の奥が熱くなると共に視界が一瞬赤く染まる。その赤と熱が鎮まったと同時に、私はその存在を目視した。
「そこにいたのか」
まるで路頭に迷った貧民のような身なりの小娘。
私と目が合った事に気づき怯える様は小物にしか見えない。
私が警戒すべきは、彼女の秘密を知るアニマ卿でもなければ、彼女とよく話をする衛兵でもなく、ましてや共に特訓をしていたロウエンや最近彼女の屋敷に訪問したというレイファード卿でも無かった。
この見えざる小娘こそが、ジュノをそそのかし惑わせた張本人だったのか。
ジュノの在り方を変えただけでなく、その身を捧げさせようとまでした。
到底許せるものではない。
「亡霊、逃げて!」
『は、はいっ!』
私がそれに向ける敵意に気づいたのか、ジュノが焦りの声をあげる。
亡霊と呼ばれたそれはその声に促されるように動いたが。
「逃がすか」
『ぎゃうっ』
私は瞬時に封印魔法を使いその存在を透明な箱に閉じ込める。
箱型の結界に衝突した霊は気の抜けるような声を漏らした。
「亡霊!」
本気で心配している様子のジュノを見ると胸が痛む。
過去にも君の体を奪おうとした事があるらしい存在を何故そこまで信用出来るんだ。
私の事は一切信じないというのに……。
とにかくこの邪魔者がいてはジュノとまともに話も出来ないだろう。
「あの夜に会った屋上庭園まで来い。そこで君を待っている」
私は様々な準備を整える為に、霊を閉じ込めた箱と共に彼女の前から姿を消した。
「今宵も満月か」
屋上庭園に場所を移した私はジュノとこの庭園で月を見た夜の事を思い返していた。
あの時は秋で青みがかった白い花が咲いていた。夏である今は別の植物が植えられており、鮮やかな赤の花が庭園を彩っている。
『なんでクオレスが闇堕ちを……? 魔人の手先はもう死んだはずじゃ……』
「何か思い違いをしているようだが、私の内にいるのは手先などではない。封じられし魔人そのものだ。……もっとも、もはや封じられてもいないがな」
結界の中独り小声で呟いていた霊に返事をしてやった。
この身から絶えず溢れ出る瘴気は私という存在を作り変えていく。魔人の力を自ら求めたのだ。もう既に戻れないところまで来ていた。
魔力が信じられない程に高まっていく。
「万物を封じる力よ。脈々と受け継がれし魔人の力よ。今此処に真の力を解放せよ……」
呆然としている霊を尻目に、私は魔人の魔力と知識を使ってある魔法を詠唱する。
魔人が言うには、かつて精霊が呪いの属性を生み出したのは、ある精霊に愛してやまない人間がいた事が発端だという。
人間が命尽きた後さえも精霊はその人間の事を想い、想いすぎるあまりその人間と再び巡り合う方法を模索した。そうして見つけたのが遠い異国に存在した呪術だった。たとえそれが悪霊と化した魂を利用する術だとしても、人の霊を視る事すら出来ない精霊にとってはわずかな希望だったのだ。あの人間は悪霊になどなっていないだろうが、人間達がこの術を魔法として利用し応用していけば悪霊でない霊とも関わりを持つようになるかもしれないと。
そして、ゆくゆくは……。
『ふんぬぅ……っ!』
私が詠唱に集中して隙が出来ているとでも思ったのか、結界から抜け出そうとしている霊の姿が目に入る。
やはりあの結界では実体の無い存在を封じるのに適していないようだ。手先が少しずつすり抜けていく様子がこちらからも見える。
だが全て想定済みだ。
「魂の形に従い、肉の器でかの者を封じよ!」
詠唱していた魔法を霊に放つ。
その不確かな夢のような透けた体が生命の色に満ちていく様は、むしろかけられた魔法が解けていくかのようだ。
「んぎゃっ!?」
質量を持った存在となった元霊は重力に従い箱の中で落下する。
「えっ、あれっ!? な、何が起きて……」
「お前は実体を持つ生身の人間となった。これでもう結界から出ることは出来ないだろう」
「……ええええええええーーーーっ!? そんなのアリか!?」
ある精霊の悲願であった死者の復活は、封印の力と魂と交わる力の二つが備わった事でついに実現した。しかしこのような目的で使用される事になるとは、誰も予想出来なかった事だろう。もちろん結界から出させないようにするためだけではない。
「そして結界から出られたとしても肉体に縛り付けられたお前はジュノ嬢に取り憑く事が出来なくなったわけだ。己の企みが阻止された気分はどうだ?」
「あ、えっと……ありがとうございます……?」
「……生身の体が得られればなんでも良かったということか。ならば何故ジュノ嬢に纏わりついた。いつから彼女のそばにいた?」
「えっと、その、ジュノさんが学園に入るちょい前くらい……ですかね。あっ、あの時ですよ。ジュノさんとクオレス……さんがジュノさんの屋敷の前で会った時……」
「……あの時ジュノが倒れたのもお前のせいか」
「ヒッ! わざとじゃない、わざとじゃないんです!!」
時期的に見てもジュノの諸々の変化はやはりこの小娘が原因だったのだろう。
「もう良い。お前はジュノの助けでも待って震えていろ」
「……ジュノさんを一体どうする気ですか」
その質問には答えず私は準備を進めていった。
ジュノが私の前に現れたのは全ての準備を整えた後だった。
「一人で来てほしかったのだがな」
よりにもよって聖女を連れて来るとは。
どこまでも私の神経を逆撫でさせるつもりらしい。
「そんな条件は聞いていないわ。私はちゃんと約束を守った。だからクオレス……そこの亡霊を解放して。そして元のあなたに戻って」
「君が来れば解放すると約束した覚えも無いが? だが良いだろう。君が私のもとまで来ればそこの娘を解放してやる」
「ジュノさん、来ちゃだめです! クオレスの闇堕ちは魔人の手先なんかじゃなくて魔人そのものの仕業なんです! 危険すぎますよ!」
「まかせて、ジュノさん。相手がなんであろうとわたしが助けてみせるから!」
聖女が一歩前に出る。まずはこの者から処理しなければならないようだ。
「尊き命の輝きよ、今ここに! セイクリッド・レイ!」
「消えろ」
放たれた光を瘴気で封じる。それと同時に私は辺りの瘴気から一体の魔物を生み出した。
魔物を発生させた場所は丁度聖女のいる場所。つまり出現と同時に聖女の体は魔物の中に呑まれ封じ込められた。半透明の黒い体の中で聖女がもがき苦しむ様子が薄っすらと見える。
「所詮この程度か。魔人を滅する存在と期待していた頃の自分が馬鹿らしくなるな」
「そんな……ユアナさん……!」
「早く来い、ジュノ。このままでは取り返しのつかない事になるぞ」
私は辺りを――既に瘴気でしおれた庭園の花を見回しながらジュノに催促する。
ここに私が留まり続ければこの程度の被害では済まされなくなるだろう。人も、動物も、植物も、空気や大地さえも――。その意図が伝わったのか、ジュノは私の方へと歩み寄って来た。
「だめですってば、ジュノさん……!」
「心配しないで。それより亡霊、あなた、その体……」
こちらに近づいてようやくその異変に気づいたのか、ジュノは足を止める。
「……クオレス、さんがあたしの体を作って封印したんです。多分、普通の人間になっちゃったんだと思います……」
「そう……。私が体を渡さなくても良くなったのね。おめでとう、亡霊」
「それどころじゃないですよ! 戻ってください、ジュノさん! 今のそいつはもう……」
「大丈夫よ、クオレスは強いもの。このまま魔人に屈したりしないわ」
ジュノはその娘に微笑みかけ、再び私のもとへ近づく。
そして私のすぐ近くまで来たところで私はその身を腕の中に抱き、約束通り結界を解いてやった。
「では行こう」
私は瘴気で作り出した黒馬に乗ってジュノを連れさらい空の中を駆けてゆく。
月は雲に隠され殆どの光を失っていた。




