0話.【亡霊】悪役令嬢の体から追い出されました。
三年ぶりに会いに来てくれた婚約者様は随分と背が伸びていて、元々大人びていた顔立ちがより一層凛々しくなっていた。
つくづく思う。やっぱり私の婚約者様はこの世の誰よりも何よりも美しく格好いい。日の光を淡い影で閉じ込めたような髪に、温度を感じさせない虚空色をした切れ長の眼差し、堅く閉じられている理知的な口元。
――あ、この顔。ゲームで見たのと同じだ。
そんな不思議なことを思った瞬間思い出した。
あたしはずっと前から――この世界に生まれるよりも前からこのイケメンを知っている。灰色の髪にこれまた彩度の低い色の目、そして愛想の無い顔をしたクールキャラ。
名はクオレス・フィンウッド。
――こいつ、前世でプレイした乙女ゲームの攻略対象キャラじゃん。
目の前にいるキャラのことを思い出すと同時に、今までせき止められていた記憶が濁流のように流れ込んでくる。
あたしはその濁流に意識を呑まれ、自分の屋敷の玄関先で意識を失っていた。
あたしが以前住んでいた場所はここのような一角馬の馬車が地を駆け飛竜が天を飛び交う剣と魔法の世界ではない。自動車や電車、飛行機が移動手段の機械とオタク文化の国、日本だった。
そんな日本でごく普通のインドア派オタクをしていたあたしが人生最後にプレイしたゲームが【消えた乙女のグリモア】。
貴族の血筋だけが魔力を有する筈のこの国で平民として暮らしていた主人公、デフォルト名ユアナちゃんはある日突然魔法の力に目覚める。
力を周囲に知られたユアナちゃんは貴族の子息だけが通う魔法学園に入学させられることになり、そこで良い成績を残せば貴族の仲間入り、出来なければ魔力を封じられて無力な平民に逆戻りだと宣告されてしまう。
自分の力をみんなの為に使いたいと決意したユアナちゃんは魔力封印を逃れる為、周囲のイケメン達から助力を得ながら学業に励んでいくといったストーリーだ。
あたしはどうやらそのゲームの世界に転生してしまったらしい。
しかもその転生先が悪役令嬢であるジュノ・ディアモロ。
平民のクセに入学してきたのが気に食わないからというくだらない理由でユアナちゃんに嫌がらせや妨害工作を行う役どころだ。
意識を失った後自室まで運ばれたらしいあたしはベッドから起き上がって大きな姿見の前に立つ。
「うわっ……本当にあのジュノだよお」
後ろを令嬢らしい感じに結った淡い紫の髪に、一見大人しそうな垂れ目の顔立ち。ゲームで見たビジュアルと一緒だ。
このお淑やかな外面とは裏腹に、本性はとても気が荒く高慢なのがジュノだ。
私こそが理想の淑女よといわんばかりの顔でユアナちゃんに近づき、「わからない事があったらなんでも聞いてね」などと優しく微笑みかけつつもその裏で妨害工作を重ね、バレれば口汚く罵るという気高さもへったくれもない性悪女なのである。
そんなジュノは攻略対象の一人であるクオレスと婚約関係にある。
しかしその想いは完全にジュノの一方通行であり、どのルートでもこの二人が結ばれることは無い。
というのもジュノがユアナちゃんにした悪行が暴かれ断罪されるイベントが全ルート共通であるからだ。悪行が広く知られることとなったジュノはディアモロ家から勘当され、同時に婚約も双方の家の合意のもと解消される。その上学園からも魔力封印を施され退学。完全に身寄りの無くなったジュノは平民として下町に下るしかなくなるが、当然無力な元お嬢様が一人でやっていける訳も無く最終的に生死不明の行方知れずとなる。
だけどクオレスルートだけは途中から展開が変わり、魔力封印を施されそうになったところで逃走に成功する。勿論それがジュノにとって良い展開に繋がる訳ではない。逃げ延びたジュノは勘当されたのも婚約解消になったのも全部ユアナちゃんのせいだと逆恨みし、激しい嫉妬に身を焦がす事によって異形の化け物と化してしまうのだ。それからいろいろあってユアナちゃんとクオレスに討伐され完全消滅となる。
ちなみに婚約者がいる攻略対象はクオレスだけである。こんな性格の悪いライバルキャラが何人も出てこなくて良かった。
プレイしている時はその散り際を見て胸がすく思いだったけど、今はあたしがそのジュノなんだよね……。名前が一致、容姿も一致、おまけに婚約者の名前と容姿も一致と来ればもう認めるしかない。
しかしまあ乙女ゲームの世界の悪役令嬢に転生だなんて、ありがちな展開だ。……いや、いくら小説でよく見た展開だからって、ゲームの世界が実在するなんて認識をするのは我ながらどうかとも思う。
とは言え現在あたしの身に起こっている状況を現実的に捉えようとすると、もはや長い長い夢を見ているってくらいでしか説明がつかないのだ。
なんでもありな夢の世界だと思ってしまうよりは、どんなに非現実的だろうとこの世界を自分なりにわかりやすく捉えておいたほうがまだ現実的だと思うんだよね。
そんなことより問題はこれからどう動くかだ。
ゲーム通りのシナリオになってしまえばジュノには破滅しか待っていない。野垂れ死ぬのも異形化して消滅するのも絶対に嫌だ。
だからゲームのシナリオからは外れるような行動をとっていかなければならない。……まあ、そんなに身構えなくても、前世を思い出せたのが今の段階ならきっと大丈夫だろう。
だって今はジュノが魔法学園に入学する前。ユアナちゃんが入学した時には既にジュノがいたのだから、そのジュノですら入学していないという事はまだゲームシナリオ開始前の時期だ。
ジュノはまだ悪行を一つもしていない。これなら断罪イベント回避どころかあたしの好きなようにシナリオを作ることだって出来るんじゃないだろうか。
だとすれば、そうだなあ……。
クオレスと結婚はしたくないな。
別にクオレスが嫌いな訳ではない。最推しではないものの、クオレスシナリオは糖度が高めで結構好きな方だった。終盤がちょっと肩透かしだったけどね。
でもあたしは可愛い女の子とイケメンがイチャイチャするのをニヤニヤ眺めるのが好きなのだ。【消えた乙女のグリモア】をプレイしようと思ったきっかけもユアナちゃんのビジュアルが可愛かったからってのが大きいくらいだし。
可愛い可愛いユアナちゃんと攻略対象のイチャイチャならいくらでも見たい。でもあたし自身がキャラとイチャイチャってのは結構きつい。自分とキャラのカップルじゃ傍から眺めて悶えることも出来ないし、あたし自身恋愛願望あんまり無いし、愛着あるキャラを今更そんな目で見れそうにない。
大体、貴族暮らしってのが嫌なんだよねえ。
この世界の平民よりはいい暮らしなんだろうけど面倒そうだし息苦しそう。あたしが目覚める前の今世のジュノも結構嫌な思いをしていたような気がするし。
それに学園に入る前のユアナちゃんの生活をゲームで見た感じだと、住む場所と頼れる人がいれば平民暮らしもそんなに悪くなさそうだった。
あれ? それなら断罪イベント回避してクオレスとの婚約キープよりも、あえて断罪イベントを起こして婚約解消とディアモロ家勘当をされた方がいいんじゃない?
でもゲームシナリオと同じだと自滅にしかならないから、やり方は考えないと。
そうだ。ユアナちゃんに協力してもらおう。ユアナちゃんなら平民の暮らしに詳しいだろうから、仲良くなってからいろいろ教えてもらって、平民落ちした後無事にやっていけるようにいろいろと下準備するとしよう。
断罪イベントもユアナちゃんに事情を話して一芝居打ってもらおうかな。いや、そこまでユアナちゃんに頼らなくてもいいか。勘当される理由なんていくらでも作れるでしょ。勘当さえされれば婚約解消もスムーズに行く。そうなればあたしは完全に自由の身だ。
この世界では平民が魔力を持つことは認められないらしいから、魔力を封印されてしまうことだけがデメリットだろうか。折角剣と魔法の世界に転生したのに魔法が使えなくなるのはもったいない気がする。
でもジュノが使える魔法って属性からしてろくでもないものだったからなあ。あれならむしろ無い方が良い位かもしれない。
よし、決まった。
あたしは平民に落ちる!
そして自由気ままなのんびりスローライフを目指……
「――さっきからなんなのよこの声は!!」
……え?
「私の中でごちゃごちゃごちゃごちゃと、わけのわからないことばかり言って!」
え、え、なにこれ。
あたしは言葉を発しようとなんて全くしていないのに、勝手にあたしの口から声が飛び出ていく。
体の自由が効かない。
まるであたしの体じゃなくなったみたいに。
「この体は私のものよ! 勝手に動かそうとしないで。勝手に私になろうとしないで!」
ヒステリックに喚き散らすあたしの体。
その様子は本性を露わにしたゲームのジュノそのものだった。
「出てよ。出て行ってよっ……出てけええええ!!!」
絶叫と共に何かを押し出すような大きな音がしたかと思えば、あたしは宙に投げ出されていた。
『うわあっ!?』
体が床に打ち付けられる。が、痛みは無い。
一体何が起こったのか、理解が追い付かない。状況を把握しようと頭だけを起こして上を見上げると、そこにはあたしが――今世のあたしであるジュノがこちらを睨みつけていた。
なにこれ。鏡……じゃない。幻でもなさそうだった。
だとすると、本物のあたし?
そんな馬鹿な。あたしだって本物のジュノなのに。
あたしは体を起こして自分の姿を確認し、ようやく気づいた。
あたしの体が半透明に透けている。
それだけじゃない。
さっきまでは確かに目の前にいるジュノと同じ姿をしていた筈なのに、今のあたしはなんの変哲のない黒い髪、漂白剤で色落ちした使い古しのタンクトップ、履きやすそうだからとズボン用に買った男物トランクスと前世のあたしそのままの姿になっていたのだ。
この姿を見て何が起きてしまったのか、一瞬にして察してしまった。
「出たわね、悪霊! この私の体を乗っ取ろうだなんていい度胸しているじゃないの!」
『わあああ、待って待って! あたしは悪霊なんかじゃありません! あなたの前世! 前世なんです!』
あたしは慌てて目の前にいる今世の自分をなだめようとした。
どうやらあたしは、転生先の悪役令嬢の体から追い出されてしまったらしい。