④
翌朝。アルミリアは屋敷の窓から最新型の望遠鏡を使い、海を眺める。何隻かの漁船が沖合に出ているのが確認できた。
当然のことながら、アルフレドはまだ戻ってこない。
アルミリアが居間に降りると、エリザは朝食の準備の最中だった。
椅子に座って──ほとんど「囚われて」と表現した方が正しいかもしれないが──カスタニエ家の次男は、ガタガタと椅子を揺らしている。
「マーーマーー」
「はいはい。私があなたの母ですよ」
「パパはー?」
「パパはお仕事に行きました」
次男はそれで納得せず、ぐずついた。彼は父がいなくなる前に「子犬が産まれたらしいから、一匹もらってこようか」と宣言したことだけを覚えている。
「いーぬーーどーこーー」
「はいはい。フレディ、よろしくね」
約束が遂行されないまま、父は姿を消した。一体、いつになったら自分の遊び相手の子犬がやってくるのか!? その疑問だけが今、彼の心を支配している。
しかし、胸のうちは言葉にしない限り伝わることはないので、女性陣には男心はわからない。そして今日も彼はぐずついている。
「うるっさ……」
アルミリアはため息をついた。子供というものは、何を考えているのか全くわからない──そんな事を考ぼやきながら、紅茶にレモンを搾る。
朝食を食べ終えたアルミリアは立ち上がる。今日は予定があるのだ。父親が不在だとしても、ただ待っているだけの子供ではない。
自分は自立した一人の人間なのだから、ぼんやりとした寂しさに流されるだけのアルミリアではないのだ。
エリザは家事仕事をマーサに任せ、娘にパン粥を与えている。
「ねえ、アルミリア。農園に遊びに行くなら坊やを一緒に連れていってくれる? 最近うろちょろするようになって、とてもじゃないけれどマーサの手におえないのよ」
「いーやだっ」
アルミリアはうるさい子供の世話なんてまっぴらごめんだと言わんばかりに立ち上がり、棚から蜂蜜の瓶とチョコレートの箱、外の倉庫から薪を何本か拝借し、フレディを引き連れ、屋敷を飛び出して斜面をつたい西へ進んだ。
そこには果樹園があり、今は柑橘類の盛りである。
「アルミリア様、いらっしゃいませっ。このようなむさくるしい所ですが、どうぞごゆるりとおくつろぎください」
そこでアルミリアを待っていたのは農夫の孫娘、デイジーであった。二人は果樹園の傍の秘密基地、もとい休憩小屋に入った。
「今ちょうどお湯を持ってきておりましたの」
デイジーは優雅な口調とは裏腹に、力のこもった表情で紅茶缶のふたに手をかけた。盛大な音を立てて開いた缶の中身は茶葉ではなく、乾燥させた野草が入っているはずだ。
見慣れたデザインは、母エリザが愛飲する紅茶の銘柄だ。アルミリアは実在の店舗を訪れた事がないために何とも言えないのだが、エリザ来島以前は「島で誰も飲まないだろうからわざわざ買い付ける必要のない高級品」であったそうだ。
エリザが飲み干し続けた紅茶缶たちは「おしゃれでちょっとした小物を入れるのにぴったり」という事で島の人々に下げ渡され、大体は野草茶の入れ物になっている。
デイジーもそのくちで、缶と一緒に譲り受けた、ふちが若干欠けたティーカップまで後生大事に所有しているのであった。
「これ、母から蜂蜜のおすそわけです」
アルミリアは小屋を覗き込んだデイジーの祖父に声をかけた。彼の足の隙間から、フレディとその孫犬であるジョージがたわむれているのがちらりと見えた。
デイジーはあからさまに「失敗した」と言いたげに唇をとがらせた。
「ああ、どうせならおじいちゃんに渡す前にひと舐めしておきとうございました。本日のお茶はエルダーフラワーですから、とても良く合うはずでしたのに……」
デイジーのちぐはぐな言葉遣いはエリザに心酔するあまりに身につけた「お嬢様仕草」である。
「別にそんなことをしなくても、今日は戦利品があんのよ」
アルミリアは手提げ袋からチョコレートの箱を取り出した。青のリボンがかけられ、一目で高級品とわかるそれは、彼女の機嫌を取るためにアルフレドが本土からわざわざ買い付けてきた贈答用の菓子だと聞く。
持ち込まれた財宝に、デイジーは元々大きな瞳をさらに見開き、つるつるとしたリボンの感触を確かめるように指でこすった。
「よろしいのですか?」
「よろしいのよ」
アルミリアは蓋を開けた。中には巻き貝や二枚貝、ヒトデや魚をあしらったチョコレートが綺麗ぴったり収まっていた。
「……どうしてちょこれいと、なのに海の生き物の形を?」
「さあ?」
二人は考えてもわからない疑問は放棄することとした。
「んんーっ、罪の味でございます」
「そうね」
アルミリアは蟹の形をしたチョコレートを噛み砕きながら、確かにこれはまさしく罪の味であると考える。なにせ、罪がなければチョコレートはこの島に存在しないのだから。
果樹園はレモンが盛りである。
船に長期間乗っていると、体の栄養素が不足する。人間は海の恵みだけでは生きていけず、健康を維持するためには陸の果物を摂らなければいけない、というのが定説らしい。
アルミリアは自宅の庭に成っている不揃いなレモンを思い出した。果樹園の品の方がよほど立派なので、もしかすると栄養が足りないかもしれない。
壊血病のことを考えて、アルミリアはぶるりと震えた。
「どうかされましたか?」
デイジーはアルミリアの顔を覗き込んだ。
「具合が悪くなりましたのなら、気付け薬がございますの」
デイジーはポシェットのから古びた小瓶を取り出した。中にはほんのちょびっとの酒らしき液体が入っている。
貴婦人の気が遠くなった時にはこれを嗅がせると意識が戻る──との話ではあるが、ありがたいことに二人はこれまで失神の経験はない。そのため、この小瓶が役立つ日は未来永劫訪れないであろう、というのがアルミリアの見立てであった。
「そうね、いちおう……」
拒絶するのも気が引けるので、アルミリアは顔をデイジーの方に近づけた。
デイジーはパッと明るい顔になり、恭しく小瓶の蓋を開け、アルミリアの鼻先に近づけた。
船乗りのおじさんの匂いがする──とアルミリアは思った。それはやはり、自分の父親とは違っていた。