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エリザは山の斜面にある大きめの屋敷を与えられ、そこで過ごしている。
屋敷には一通りの家財が揃っていて、自給自足生活に関する本なども置いてあったため、しばらくそれで勉強し、おそるおそる新生活を始めた。
不慣れなため失敗も沢山あったが、近所の人々が助けてくれ、なんとか生活していくことができた。何故だか最初からいた鶏やヤギの存在も、エリザの不安な心を慰めてくれた。
「どうしようかしら」
エリザの手は農作業や水仕事でぼろぼろだ。
手持ちのお金はあるのだが、今後何が必要になるかわからないので、ハンドクリームを買うのは控えている。まあ、非常時に絶海の孤島で現金が役に立つかは不明なところではあるが。
これまた、何故かあつらえてある書斎で、美容関係の本のページをめくる。
「なるほど、蜜蝋でクリームを自作することができるのね……。確か、養蜂をやっている方がいたはずだわ」
エリザが次なる目標に向けて勉強していると、玄関でコトリ、と音がした。
近所の人かと思い外に出てみたが、人影はない。かわりに、小さな小包が置いてあった。差出人はない。
「怪しいですわね」
劇薬かもしれない。エリザは小包を指先でひょいとつまみ上げ、物置に投げ込んだ。
「君子危きに近寄らず、ですわね」
エリザは昔読んだ本の一節を誦じ、満足気に笑った。
「さすがに不安な夜もありますわね。不審物が頻繁に届きますし……」
風の強い夜、エリザは1人そう呟いた。
小包について、村役場へ問い合わせたが不審な人物は目撃されてはいない、との事だった。外から来た人がいないとなると、犯人は島民となる。
ある晴れた日、庭に何者かの気配があった。ナタを手に取り、そっと窓から様子を伺うと、黄金色の子犬が庭で遊んでいる。
「まあ! 野犬かしら?」
おそるおそる、厚着をして、ナタを手に持ったまま庭へ出ると子犬はエリザの元へ駆け寄ってきてお座りをした。
「首輪はしていないわね。捨て犬かしら」
大人しくて可愛い仔だったので、エリザはその犬を飼うことにする。
獣医の元へ連れて行くと勝手にフレディと命名されてしまったが、まあ良しとした。
子犬が来てしばらくしたある日、敷地の外れで養蜂をしていると、庭でフレディが騒いでいるのが聞こえる。
向かってみると、玄関の所にアルフレドが立っていた。彼は、エリザの服装にぎょっとしたような表情だ。
「何をなさっているのですか?」
「それはこちらのセリフですわね」
今更、数ヶ月経って恥をかかされた復讐に来たのだろうか?
もしそうならば、蜂をけしかけた後、このナタでどうにかして、後はサメなりシャチなりに何とかしてもらわなければいけない、とエリザは考える。
「何か、恐ろしい事を考えていませんか?」
「いいえ?」
養蜂作業のため、エリザは完全防備をしているので表情は窺い知れない筈だ。ボンクラかと思っていたが、なかなか目敏い。
「屋敷に入れてくれませんか?」
「あなたって、見た目の割に非常識な方なのね」
エリザは、庭のテーブルとベンチを指し示した。そこに座れ、と言う意思表示だ。男性と2人きりになってはいけない。誰もいない屋敷ならば、尚更である。
「今はお水しかありませんわ」
わざわざ来客のために野草茶を煮だそうとするほどの感情を、エリザはアルフレドに対して持っていなかった。
「その様子ですと、お心は変わりない様ですね」
「わたくしは日々変わりつつあるわ」
アルフレドは、エリザの手から桶を取り上げ、何てことない手つきで井戸から水を汲み上げた。
いくら離島生活に適応しつつあると言っても、エリザはか弱く、うら若き乙女である。優しくされて、嬉しくないはずがない。まあ、それでも家には入れないのだが。
「ありがとう、アルフレド様。さあ、お水をどうぞ」
「貴女の好きな銘柄の紅茶があったと思いますが」
「そんなもの、うちにはないわ」
高級店の茶葉など、物資の調達手段が限られたこの島で流通しているはずもない。
「……小包が来ませんでしたか?」
「不審な箱ならたくさんあるけれど」
エリザは物置を指差す。石造りのしっかりした構造なので、万が一あの不審物が可燃物であっても、比較的安全である。
「開けなかったのですか?沢山あるはずですが」
「だって、何が入っているかわからないじゃない?」
「……あれは、私が送ったのです」
しばしの沈黙の後、アルフレドは気まずそうに、そう切り出した。
「あらそう。じゃあ、開けてみて頂戴」
エリザの指示に従い、青年は物置から小包を回収し、一つ一つ開封し始めた。
「紅茶です」
中には確かに、見覚えのある缶が入っていた。アルフレドは、箱の上に乗っていた封筒を、自分の懐にしまいこんだ。おそらく納品書か何かであろうな、とエリザは当たりをつける。
毒入りかもしれないので、早速湯を沸かして試すことにした。茶の用意をして戻ると、庭先はちょっとした小道具屋の様になっていた。
「これはハンドクリーム です」
「あら、そう」
しかし、かぶれる薬が練り込まれていたり、中にガラスの破片が入っているかもしれない。そう思い、先に試すよう勧める。
アルフレドは缶を開け、自分の手にクリームを塗った。懐かしい香りがあたりを包む。
「貴方が好きな百合の香りなんですよ」
ふうん、そうなの。とエリザが返事をする前に、アルフレドはエリザの手を取り、熱心にあかぎれの部分にクリームをすりこみ始めた。
「今は蜜蝋で作ったものがあるから、結構よ」
手を引き、拒絶の意を示すとアルフレドは悲し気に目を伏せたが、その直前、一瞬の苛立ちをエリザは見逃さなかった。
やはり、彼はまだ、エリザを懐柔することはそれほど難しくないと思っているに違いない。目的は未だ不明だが、このまま流されてはたまらないと、心の中で襟を正す。
「貴女は私が思っていたよりずっと強い人だったんですね」
「そうよ。あなた、人を見る目、ないのよ」
「……別に、あの令嬢の話を信じていた訳ではありません」
「それならそれで、茶番だとわかっていたのにわたくしを見捨てて、後から恩を売ろうとする卑劣な男性って事になるけれど、貴方はそれで良いのかしら」
「……良くはないです」
気まずい空気が流れる。別にエリザは、助けてくれなかった事を責めたい訳ではない。ただ、アルフレドの真意を測りかねているのだ。
子犬が近づいてきた。子供と言っても、もう膝に乗せることはできない大きさだ。
フレディはテーブルの下に置いてある水入れで水分補給をし、エリザの足元に寝転んだ。
目を細めてその様子を眺めていると、意外な発言がアルフレドから飛び出す。
「その犬は、うちで飼っている犬が産んだ仔なんです」
「あなた、自分の家で飼いきれないからって、島に犬を捨てたの!?」
エリザの中で海面スレスレだった好感度が、一気に海底まで下落した。
「……違いますよ。犬がお好きだと思って連れて来たんです」
確かに、エリザは犬が好きである。大きくて、大人しくて、自分に懐いていればなお良い。
「そうねえ、番犬にもなるし。この子がいてくれてよかったわ」
思えば、獣医はアルフレドの家の犬だから強制的にフレディと名付けたのかもしれない。
ところで、何故エリザが犬好きだと知っているのか。亡き母が動物全般を苦手としていたため、実家では飼っていた事はないのだ。
「……10年ほど前から、私たちは顔を合わせていたんですよ。たまに、王都で開催されていたドッグショーに来ていたでしょう」
「確かにそうね」
「舞踏会でも何度もすれ違いましたが、貴女は社交界デビュー前から王子の婚約者でしたので……」
「そうだったのね」
エリザは急に、時間が気になり始めた。午後から海岸で素潜りの練習をする約束なのだ。断じてこの空気がいたたまれなくなったからではない。
「アルフレド様、わたくし午後から大事な予定がありまして」
「エリザ嬢……もう一度聞きますが、私と一緒に来るつもりはないですか?」
「貴女は誤解なさっているかもしれませんが、愛人などではなく、正式な妻としてです」
「ないです」
エリザがあんまりはっきりと拒否の言葉を口にしたので、さすがにアルフレドは傷ついた様だった。
「……私が生理的に嫌ですか?」
「違うわ。でもわたくし、もう貴族の男性にはこりごりなの」
立ち上がり、庭に干していた水浴着を取り込む。
「わたくしに親切にしてくださって、どうもありがとう。でも、今はこの島で生きていくのが楽しいの。きっと、公爵令嬢なんて大層な器じゃなかったのね」
もし、アルフレドがこの島の領主だったり、役人であったりしたならば、エリザも言い寄られて悪い気はしなかったであろう。
しかし、彼はもはやエリザにとって過去となった、王国の中枢部に属する人間である。お互いに、一緒になって良いことは何もないと思われた。
「フレディを連れて来てくださって、感謝しています。アルフレド様の事は忘れません」
それだけを告げ、屋敷に戻り、素潜りのための荷物をまとめる。庭を覗くと、アルフレドの姿はすでになかった。
高慢ちきで、意地っ張りで、恩知らずな女だと思われただろうが、それはもうどうでもいい。エリザの悪女伝説に、1ページが増えただけである。
ひとり坂を下りながら、エリザはふと、自分と結婚したいと言ってくれた人は初めてだったな、ともう会うこともないだろう男性に思いを巡らせた。




