⑦
「困ったわねえ」
エリザはため息をついた。アルフレドがいつまで待っても帰宅しないのである。
命の心配はしていない。なんとなく、まだ北の海で蟹を探しているのであろう、と思ってはいる。
しかし、エリザが求めるものは海の幸ではない。今自分に必要なのは、二足歩行で言語を解する、かわりに力仕事をしてくれる忠犬である。
悩みをあげるとキリがないが、一番急を要するのは年末の「振る舞い」についてであった。
アルフレドの職業が今現在なんであろうと、彼は支配者の息子である。
有事の際は領主代行として場を取り仕切らねばならない。エリザにも婦人会の会長としての仕事がある。
ここ数年、年始には家畜を潰して島民に肉と酒、ついでに菓子を振る舞うことが慣例化している。
元々は自分の結婚に浮かれたアルフレドが新妻を見せびらかすために始めた大盤振る舞い。それが長男の誕生祝いになり、二回続くと三回、それから先は永遠に期待してしまうのが人間だろう。
毎年年末にはお祭りがある。島民にとってはもう常識であるし、会場も物品も全て用意されている。
しかし、それを取り仕切るアルフレド本人が戻ってこないのである。最悪直前でも、と思っていたものの、すでに本番は明後日に迫っている。
「というわけでマックス、後はよろしくね」
「何をですか?」
突然話を振られて、長男のマクシミリアンは勢いよく振り返った。
「振る舞いの準備をあなたが取り仕切ってね。私はお菓子作りの方に顔を出さないといけないのよ」
「ああ……はい。なんとかします」
マクシミリアンは立ち上がり、他の大人に話をつけてくると、家を出て行った。
「アルミリアは酒屋さんに行って、とりあえずいい感じにやっておいてとお願いして欲しいのよ」
「えーっ、あたしが?」
アルミリアは不平不満をこぼしたが、これも全て父親が不在のせいだと言われてしまうと何も反論できない。
雑用係を追放したことにより家庭内の業務は滞り始めてしまい、アルミリアは優雅な姫から落ちぶれて、せっせと下働きをする身分になってしまったのだった。
働き蟻が減ると、怠けていた残りの蟻が働く──誰かの言葉を思い出しながらアルミリアは商店街へ向かい、酒屋に入った。
「おや、姫さま。やっと来ましたか」
つるっとした頭の店主は、アルミリアが何の用事で訪れたのかわかっている様子だった。
店の地下に降りると、エリザのための保管庫がある。
この数年は立て続けに子供を二人産んだため、エリザはすっかり飲酒からご無沙汰であった。
アルフレドも自主的に禁酒するものだから、記念に買い集めたボトルも、島で作られた酒もどんどんと溜まっていく一方だと店主は語る。
今回はとっておきの樽を開ける手はずだったが、アルフレドがいないなら仕方がないので別のを見繕う。と聞いてアルミリアは首をかしげた。
「予定通りにそれを使っちゃえばいいんじゃないですか」
「これは姫さまの生まれた年のやつだから旦那が戻ってこないとな」
「毎年この日だけは飲みに顔を出してくれるんだけどなあ、俺が勝手に開けちまうのはよくねえな」
店主はそう言って、酒樽を撫でた。
アルミリアの胸に再び罪悪感と不安がよみがえった。店を出て、とぼとぼと港へ向かう。
港には大量のカモメと猫がおり、何か貰えるのかとアルミリアに近寄ってくる。
「ちょっと、あんたたち、パパを探してきなさいよ」
寄り道しないで、早く帰ってこないと大変なことになっちゃうかもと伝えてよ──アルミリアの声に呼応するように、カモメが冬晴れの空を飛んでいく。
カモメが悠々と島を旋回している頃──エリザはテーブルの上で頬杖をつき、物思いに耽っていた。
静かな屋敷の中。すやすやと寝息をたてる子供たちの顔を眺め、暖炉の周りの柵をもう一度確認してから、エリザは二階にある夫婦の寝室へと上がっていった。
『エリザ、あなたは一番わたくしに似ている』
ふと姿見に写った自分の姿を見て、エリザの脳裏には亡き祖母の言葉が蘇る。
誰も居ないのにもかかわらず、エリザは慎重にあたりを見渡した。そして寝台の横から小さな鍵を取り出し、机の一番上の引き出しをあけた。中には布貼りの小箱がいくつか入っている。
手前の赤い箱には、真珠の首飾りと耳飾り。茶色の箱にはエメラルドの指輪。金の鎖、貝細工のブローチ……全て、島には不釣り合いで生きるには必要のない、エリザを飾るためのもの。
引き出しの一番奥に、濃紺のビロードの箱がある。エリザはそっとそれを取り出した。
ぱちり、と音がして蓋が開く。
中に納められていたのは、巨大すぎて、または美しすぎて贋作かと思われる程の青い宝石。
日の光をチカと受けて輝くそれを、詳しくない者はサファイアだと思うだろう。しかし、それはこの世に二つとないと伝えられるブルー・ダイヤモンドである。
王国から王族と共に姿を消した、女王の至宝。それが今、エリザの手の中にある。
『私は後継者の育成に失敗してしまった』
それは祖母の口癖であった。成人前に即位した女王は、名君として名を馳せた。しかし母親としては成功しなかった。女王の子女はさほど国政に熱心ではなく、公爵家に降嫁した王女──エリザの母も同様だった。
年老いた女王は孫たちの中で一番落ち着いた性格のエリザをいたく気に入り、彼女を王太子の婚約者とすると、ほとんど強引に決めてしまった。
そこには本人たちの好悪は関係なかった。女王は人生の最後に正しいことをしたと信じて疑わないままこの世を去った。
『国母となり、国民を導きなさい。この首飾りは代々の王妃……いえ、女王が身につけるべきもの。これをつけている限り、貴女はわたくしの一番の孫娘よ』
遺言じみた言葉と共に病床の祖母からこっそりと手渡された首飾り。王宮の宝物庫にあるはずのそれをエリザが持っていることに、誰も気が付かなかった。
目の上のたんこぶだった女王がいなくなってすぐ、喪の明けぬうちからそれぞれの貴族が好き勝手にやり始めた。
そうして、女王そっくりの口うるさいエリザは邪魔者とされた。女王の影はもう、この国にはいらない──と。
そこにアルフレドの意思はあったのか、なかったのか。それは定かではないが、エリザが一人で小舟に乗って人生の荒波を潜り抜けようとしたとしても。
彼女はどこにも辿り着けず、海の藻屑になっていただろう。
追放された際に首飾りを持ってきたのはただの反抗心だった。困ればいい。ただそれだけのつもりでこの島に持ち込んだ。
今思い返すと、ダイヤモンドのために誰かが自分を探しに来るかもしれない──そんな希望があったのかもしれない。
しかし公爵令嬢と消えた宝石は忘れ去られ、物語の中だけの存在になった。アルフレドも国宝一覧から消えたはずの宝石を話題に出すことはついぞなく、エリザはただのエリザとして生まれ変わった。
しかし過去を捨てたとしても、流石に首飾りを捨ててしまうことは躊躇われた。
エリザはそれを首にかけ、透明なダイヤモンドがあしらわれた鎖を両の指でつまみ、真っ直ぐに引っ張った。鋭く輝くさまはまるで、ギロチンの刃のようだった。
アルフレドの話を思い出す。
堕落しきった王国は、帝国の侵略により反抗することもできず滅びた。女王が後継者に選んだ公女を無実の罪で追い落とし、贅沢の限りを尽くして民衆を苦しめた王侯貴族に対し、国民は冷徹であった。
王家の血を引くものは、罪のあるものもないものもギロチンの露、或いは修道院へと消えた。ただ一人、一足早く関係者一覧から消えてしまった公女の行方だけは、わからないのでそのままになった。
未来を悲観して身を投げた、毒杯を煽った、それともどこかのハーレムに居る。豪商に嫁いで幸せに暮らしている。いやいや、巷を騒がせる義賊の頭が彼女に違いない──。
そのような噂が流れていることは薄々知ってはいたが、結局のところ真実を知るものはごくわずか。
「……幸せにします、と言うのは、たった十年ぽっちの事ではないわよね」
エリザはひとりごとをつぶやき、首飾りをしまいこんだ。




