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「黒い天使」短編集  作者: JOLちゃん
「黒い天使」シリーズ
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「黒い天使」短編 『桜並木』

「黒い天使」シリーズの短編ヒューマンドラマ『桜並木』。

 

近所の公園に花見に来たサクラとJOLJUと飛鳥。

そこで<花待ちお婆ちゃん>と呼ばれる外国人の老婆の存在を知る。

実は彼女はベトナム戦争の生き残りで、戦中自分を助けてくれた日本人オオカワと再会したくて、桜の季節になるとそこに座って生き別れた彼を待っているという。

興味を覚えたサクラたちは、この老婆とオオカワについて調べてみると、予想もしていない大陰謀と哀しいドラマがあることを知る。

サクラは、二人の願いを叶えるため、<奇跡>を起こす……。

黒い天使『桜並木』

序章



1968年 ベトナム。


凄惨な様相が、カメラ越しで網膜に入る。


カメラがもつ魔力だろう。或いは不幸な効能というべきか……人の神経ではとても耐えられないような惨劇ですら、カメラのレンズを通せばその出来事を別世界の出来事のように感じさせてしまう。


 今、彼がカメラから目を離さない理由の一つはそれであった。肉眼では、とても彼の精神が持たなかっただろう。


 第一は、仕事だからである。


 それもじき終るだろう。

 

 もうじき、その行為が終るだろう。

 一方的で無慈悲な虐殺劇が。


 男はようやくカメラから目を外し、使い込まれたカメラを首にかけた。

 銃声はまだ止んでいない。時折パラパラと甲高い音が耳をつつく。そして悲鳴も……。


 ……仕事を達成するという事は、それだけ不幸を目にするって事か……。


 ため息をつき、歩き出す。



 ……病んだアメリカの象徴だ。これは……。


 何か形ではないものをはき捨てようとした。その時だった。数発の銃声が、森のほう

鳴った。村の方ではなく、森の中である。


 先ほどまで戦闘という名の虐殺が繰り広げられていたことを考えれば、銃声がどこで起ころうと関係はない。事実、男は理性の面ではすぐにそう結論付け関心は起きなかったが、彼の勘というか、虫の知らせのようなものが感情面を揺さぶった。

 男は立ち止まり、しばらく森を見つめた。

 すでに日が半ば落ち、森は暗い。

 少しの間の後、男はゆっくりとした歩調でその闇の中に入っていった。




 必死に駆けた。素足で、無我夢中に。


 どこをどう駆けたか、どこに向かっていたのか、それは何一つ判らない。

 何より自分に起きたことも、判らない。

 父や母、兄や妹たち……突然の乱入者によって、一瞬にして失われた大切なもの……

自分だけが、どうやってあの惨劇の中から逃れられたのか、混乱する頭では何も判らない。今はただ精一杯逃げることだ。

日はすぐに落ちた。

 少女は、包み込むような大樹の下でその身体を小さく縮めていた。

 寒い。

 実際の気温はそれほど低くはないのだが、彼女の身に起きた悲劇が、彼女自身を寒させていた。森は静寂し、動物や虫たちの鳴き声のみが森を満たしている。

 その時、ふっとその森の声が消えた。


 何か……と少女が顔を上げたとき、すでに遅かった。


「悪魔っ!?」


 それは三つの巨大な人影だった。人影は、気がつかない間に少女のすぐ側に迫っている。

 人である。皆米軍の服に身を包んでいた。

 少女は思わず身を引いた。だが大樹がありどうにも身動きはできないし、手足は竦んでしまっている。

 兵士は三人。銃口を少女に突きつけた。何か喋っていたが、彼女には分からないし分かりたくもない。

 どうすることもできない。少女は震えながら、ただ人形のようにその銃口を……いや虚空を見ている。恐らく後数瞬の後、何も判らぬまま永遠の闇に落ちる……はずであった。

 その時、運命が跳ねた。それはより不幸な方向に。

 兵士たちは何言か、笑いながら交わした。

 少女には判らない。

 次の瞬間、銃口が眼前より消えた。

 消えたと思った瞬間、兵士の太い手が少女の衣服を掴んだ。

 それは一瞬の事だ。

 兵士たちは少女を樹の元から引き出すと、地面に押し倒した。一人が右手、一人が左手と身体を押さえつけ、もう一人が胴に圧し掛かる。男たちが、卑猥な手で身体をもしつけるように撫でていたが、恐慌している少女には分からない。

 少女は叫んだ。

 しかし深い森の中だ。声はむなしく響いた。


 が、


 一人の男の耳には届いた。


 男は首から下げたカメラを握ると、声がした方向に向かって走り出した。

 意外にも、近かった。

 男がそこに来たとき、まだ少女は押し倒されたばかりだった。

 男は冷静に、カメラを構えた。

 フィルダー越しに、今から起きる惨劇を捉えている。

 少女は必死に泣き抵抗するが、屈強な男を覆すことは到底出来ない。しかも兵士たちは、少女が自分たちの手の中で必死にもがく様子を見て楽しんでいる。


「…………」


 男は、カメラを下ろした。あの少女は今から犯され、そして殺される。

 男の存在など、まるで気に留める様子はない。いや、そもそも気付いていない。

とても正視できるものではない。男は戦争に疲れはしていたが、正気までは失っていない。


 その時だ。


 男の視界に、地面に投げ捨てられた自動小銃が目に映った。


「…………」


 その時、男は動き出していた。

 その物音に、兵士たちも気づいた。

 兵士たちはただの兵士ではない。瞬時に状況を把握し、それぞれが銃を取った。

 激しい銃声が交差した。

 激しい一瞬だった。

 少女は呆然と、目の前に光景を見ている。

 地面に、米兵が使っていたガバメントを落ちていたので拾い、残弾を確認した。そしてその横にあるM16A1を掴んだ。どちらもまだ弾を十分残している。三人分の武装を回収し、黙って身につけた。そして少女の前に立った。


 兵士たちは完全に絶命している。男もまた左の二の腕を負傷している。


 男はガバメントをズボンに押し込むと、少女に手を差し伸べた。


「行くよ」

「…………」

 男はアジア人だ。

 男は微笑んだ。

 釣られるように……ベトナム人の少女はゆっくりと、その運命の手を握った。


 この物語は、この過去の出来事から始まっている。










 現在・東京 春 大きな公園。


「…………」

 サクラは頭上に散り乱れる桜を見て、惚けていた。

 むっと立ち眩むのではないかと思えるほど花の香気は充満し、その中を泳ぐように風が優しく吹く。それが余計に小さく白い桜の花の群集を高貴なものとしていた。

普段は散歩をしたり体操したりする近所の人間で和み、子供たちが池に泳ぐ鯉を追い回す長閑な公園だが、この時期に限りこの世とも思えぬ桜の桃源郷を作り出し、大勢の人を楽しませている。東京にはこういった公園は沢山あるが、この西が丘公園の池周辺に特に多くの桜の樹が植えられ、春の桜の季節には、公園を白く覆うのではないか、と思われるほど圧感に咲き乱れる。また、この池の側に茶店があり、この店特製の桜餅を食べながら桜の花を愛でるのが、この地域の住人の花見の楽しみ方だった。

「あー♪ 春はやっぱり桜だぁ」

 サクラはほのぼのと桜の花見つめながら、満点の笑みを浮かべながら吐息を零した。

 そして、その春気を全身で満喫するかのように、大きく身体を伸ばした。

 今日のサクラは、幸せいっぱいだ。


「あんたがそんな萌え萌えしとるの似合わんなぁ」

 失礼な発言の後、無神経にズズズッとお茶を啜る飛鳥。

「なんや? 何がそない嬉しいねん。たかが桜やん」

「桜餅は重要だJO!」

「そやな。花より団子……桜は桜餅があってこそ、桜餅の味もよくなるってモンや」

「うんうんだJO。ここの桜餅は絶品だJO」

「……あんたらには風流とかデリカシーとかそういったモンがないワケ?」

 サクラはブスッとしながら両脇の悪友……飛鳥とJOLJUを見た。もっとも、普段ならば三人共風流とかデリカシーとは無縁である。が。この時期だけは、サクラにとって特別であった。桜という存在が、サクラにとって掛け替えのない特別な存在なのである。


「誰が食べ物の話してんのよ。アンタら、本当に風流無縁の野蛮人だな」

「何いうとるねん。お前も<花より団子派>やないか」

とお茶を啜りながら飛鳥がいう。確かに花を愛でるより食い気というのが本来のサクラの姿だ。ここまで色々コケにされるのは不快だが、今日のサクラはいつになく寛大だった。


「桜は特別なのよ」


 ……あんたらなんか相手にできるか……と露骨にそっぽ向くと、頭上の桜を見やり、現実から逃避した。


 こうして桜だけを見ていると、サクラはもうひとつの……会う事は出来ないが掛け替えのない家族と対面している……そんな感覚になれる。


 JOLJUはそんなサクラを見ながら、自分の最後の桜餅を口に放り込んだ。


「桜はサクラの名前の由来だからね。特別といえば特別だJO」

 サクラは、満天咲き乱れる桜の木の下で、産まれ、拾われた。そしてそれが、サクラにとって最初の<父>との生活の始まりだった。


 JOLJUはサクラの感慨に至る経緯や心境を知っている。だから黙ってサクラの世界を壊さなかった。


 が……それも口の中の桜餅が無くなるまでだった。


 口の中から最後の餅の欠片が消えたとき、JOLJUの目はすぐ傍にあるサクラの皿に向けられている。皿上には手つかずの桜餅がまだひとつ残っていた。

「…………」

 じっと桜餅を見つめるJOLJU。

 桜と自分の世界にいるサクラ。

 皿に置かれた桜餅。

 桜餅…………。


 JOLJUはそろ~と手を伸ばす。


 その時だ。サクラがたまたま風流の世界から現世を振り返り、JOLJUと目が合った。


 次の瞬間、サクラの渾身の右がJOLJUに炸裂した。


「何する! 貴様っ!!」

「JOっ!」

 そのままJOLJUは殴り飛ばされ転がった。

 が、すぐに起き上がると、目に涙を浮かべながら猛然と怒鳴る。

「だってサクラいらんっていったJO!!」

「誰が言った!?」

 サクラは立ち上がった。すでにどこを探しても微塵も<感慨>や<風流>などという言葉は消えうせている。

「言ったJO! <団子より花>って間違いなく言ったJO!!」

「言ってないわ! それでどうしてあたしの桜餅取られなきゃいけないのよ!」

「たかが桜餅一個大人げないJO!!」

「お前みたいな奴に、サクラちゃんの貴重な桜餅をやれるかっ!!」


 花見客が平和に桜の花を愛で和やかに過ごす公園のど真ん中で、たった一つの桜餅をめぐり、もはや風流とか花とかそういった次元をはるかに超越した低レベルな言い争いが始まる。しかもそれは怒鳴りあいから殴り合いにという、救いようもないコースに発展していった。


「……平和やな……」


 ため息をつきながら飛鳥は呟き、そっぽを向いた。これこそがいつもの情景だが、言い様のない疲労感を感じるのは何故だろうか……。そう思いながら飛鳥はサクラの皿に手を伸ばし、最後の一個の桜餅を取ると口に運び、特製の番茶で流し込んだ。最後の一個という事もあってか、この時期しか売っていない特性桜餅の魅力か、非常に美味であった。


 と、その時飛鳥の背後を馴染みの茶店のおばさんが過ぎていくのに気付き、何気なく目で追った。おばちゃんはそのまま歩いていくと、茶店のベンチがある一番外側に座る老婆のところに行き、黙ってお茶と桜餅を置いていた。老婆は小さく会釈し、黙って代金を手渡したが、彼女は桜餅もお茶も手に取ろうとせず、黙って自分の前に広がる風景に視線を戻した。



 ……なんだろう……他の花見客と、なにか雰囲気が違う。



「なんや? あのお婆ちゃん」

「ん?」

 飛鳥の呟きにサクラは振り返った。その右手にて、見事ノックアウトされたJOLJUが垂れ下がっている。サクラはそれをまるでゴミでも捨てるかのように、愛情の欠片もなく後方に投げ捨てた。

 丁度その時、茶店のおばさんが戻ってきたので飛鳥は呼び止め、老婆の素性を聞いた。何かひっかかるものが飛鳥にはあった。

 それが間違いではない証拠に、同じく目線を向けたサクラの表情が、ごく僅かだが変化したのだ。

「飛鳥ちゃん知らない? ここいらじゃ有名なお婆ちゃんよ?」

「ふーん」

 この公園で桜餅とお茶で花見をすること10数年……散々通ってきた飛鳥であるが、初めて見る老婆だ。というのも……毎年飛鳥が花見に来ていた時間はもっと夕方に近い時間で、いつも祖父風禅と一緒にお弁当を持ってやってくる。その後近所の皆と大宴会に突入していたので不覚ながら今回初めて気付いた。飛鳥も所詮<花より団子派>だ。

「雰囲気が違うというか……随分風流で儚げで上品なばーちゃんやな」

「日本人……じゃないしね」

 サクラが低く呟いた。

「よう判るなぁ、この距離で……」

 20m以上離れているから、普通の人間だとそこまでこまかいところは判らない。飛鳥は目を細め「何で日本人じゃないって分かるンや」と感心した。

「着ている服。あれ、東南アジアの服かな? 後は骨格っていうか顔立ちっていうか……」

 外国……世界中を遊びまわっているサクラだからこそ分かる。こういうサクラの観察眼は間違いない。

 ますます飛鳥は分からず首を傾げた。ここは東京の練馬。外国人も珍しくはないが、こんな近所の公園でこんな老婆がいたなんて初耳だ。祖父風禅が地域密着の整体師……という関係で、近所の情報は色々知っているつもりだったが……老婆の話は今日初めて聞いた。


 老婆は、そんなやり取りに関係なく、一人ただじっと桜を眺めていた。その雰囲気は、どこか先ほどのサクラと似ていて、入りがたい世界がある。飛鳥はそこまでの雰囲気は読めないが、サクラはそれを機敏に感じ取った。サクラの関心は今この時生まれている。


「もう何年かねぇ……。あのおばあちゃん、毎年この時期になるとふらっと現れて、あそこに座ってるのよ。ずっと無言で。誰か待ってるみたいなんだけど。でね、気が付いたらいなくなっちゃう不思議なお婆ちゃんなのよ。どこに住んでるのか、それは誰も知らないの」

「こいつみたいにただ桜の花見にきてるってワケやない……って事か」

 飛鳥は隣のサクラを見て呟く。サクラはその飛鳥を無視し、少しぬるくなったお茶を口に含んだ。そして自分の皿に手を伸ばす。


「…………」


 ない。


 手は空しく空の皿を撫でている。


「あれ?」


 サクラは皿を見ると、そこには皿はなくかわりに満身創痍?のJOLJUが空しく「ないJO~」と呟きながら皿を舐めまわしていた。


 ピシッ!!


 サクラは顔を引きつらせると、怒りに任せその白い生命体をぶん殴った。


「なして殴るJO~!!」

「このアホ!! 性懲りもなくっ!!」

「桜餅なんかなかったJO!!」

「あんたが食べた!!」

 二人醜い罵声を浴びせあい、殴り合いを始める。飛鳥は自分のお茶を啜りながらそれを横目で見ながらため息をついた。いつものことながら進歩がない二人だ。

「そんな食い物で喧嘩すなや、みっともない。桜餅くらい買うたる……」

「…………」

「…………」


 ぴたっと争いを止める二人。


「やったJO~ 飛鳥太っ腹♪」

 と小躍りしだすJOLJU。さすがにサクラには羞恥心と理性があるので一緒に踊りだしたりはしない。

 その踊っていたJOLJUが、ふと老婆の存在に気付き踊りを止めると、目線を集中させた。そのJOLJUの気配にサクラも気付き、もう一度老婆を見つめる。

 特に先ほどと変った様子はない。


 だが…………。


 JOLJUは暗い表情になった。


「……あのお婆ちゃん……生命……」

「?」

 サクラは意識を集中させた。そしてそのJOLJUの呟きに隠された意味も理解した。



 ……だが、何故……? 一体何があるというのだろうか……? 


 ここは桜の名所でもなんでもない、都内にあるどちらかといえば小さい公園だ。

 それを探ろうとするが、今ここでは解らない。


「あっ」

 その時、飛鳥は小さく声を上げ立ち上がった。

「?」

「……金がない。……という事で、あと宜しく~」

「へ?」

「JO??」

 二人は驚いて振り向いた。だが時すでに遅く、飛鳥の姿はそこにはなかった。

「…………」

 ……三人分の桜餅代金は未払い……!?

 サクラとJOLJUは一瞬にして真っ青になった。このまま逃走した飛鳥を追いかけるのは簡単だが、その前に社会の常識として食い逃げするわけにはいかない……。そしてこの公園に桜餅を食べに行こう、と誘ったのは飛鳥だったので、当然奢ってもらえると思っていた二人もお金など持って来ていない。そもそも二人のお小遣いは一日2ドル、もしくは200円なのだ。そして前日までNYの自宅で遊んでいたから手持ちはドルしかなく……こんな茶店でドルが使えるはずもなく……。


 結局……サクラもJOLJUも立て替えるほどお金を持っておらず……「後で払いに来ます」と頭を下げるしかなかった。もっとも、その必要はなかった。


「何いってるの。最初に飛鳥ちゃんが三人分払っていったケド?」

「…………」

 こういう場所は基本前払い。飛鳥が逃げたのは追加の餅代がなかっただけ……桜に見惚れていたサクラが見ていなかっただけのことだった。そして、恥をかいただけだった……。









 現代 東京 飛鳥の家


 晩御飯後……まったりテレビでも見ながらのんびりしていた時……ふと、飛鳥は今日知った公園の老婆の話を町の名物物知り爺である祖父風禅に訪ねてみた。

 やっぱり……というかさすがというか、風禅は知っていた。

「<花待ちお婆ちゃん>の事だな」

 風禅は食後の番茶を啜りながら答えた。

 <花待ちお婆ちゃん>……10年ほど前から、桜が満開になるといつのまにか現れ、夜まで黙って座って公園の桜をただ眺めている外国人の老婆らしい。あまり自分から言葉を発することはないが、なんとも幸せそうに桜を見ていて、あの老婆を見ていると周りもなんともいえないいい心地になる。そして、桜が散ると、彼女は公園にこなくなる。

「そういえば桜の季節以外、見たことがないノゥ。ワシもよくあの公園には行くが」

 風禅は多趣味だ。時々あの公園に小鮒やクチボソなどの小物釣りに行く。しかし春以外の季節であの老婆を見たことはない。公園には徒歩で来ているようなので近所に住んでいると思うのだが、町中やスーパーや駅などで彼女を見たという話も聞かない。風禅だけが知らないのではなく、近所の誰も知らないらしい。

「不思議なお婆ちゃんだJO」

「そやな……しかし10年も前からおったんか、あのお婆ちゃん。ウチ、全然気付かんかったな」

 飛鳥もあったかい番茶を啜りながら頷く。

「噂じゃが……誰かを待っとるって話があるぞ。声をかけた誰かがそんな事いうとった」

「外国人なんやろ? 言葉は通じたン?」

「少し喋れるみたいじゃぞ? まぁ挨拶程度で細かい話は全然わからんらしい」

「詳しいことはなんもわからんわけだJO」

「ちょっと待った爺ちゃん。何であのお婆ちゃんが誰かを待ってるって分かったンや? そこまで色々会話できたワケやないんやろ?」

「写真だよ」風禅は湯のみに残った茶を飲み干し、テーブルの上にあった蜜柑を取り、今度はそれを口に運んだ。そして三口ほど蜜柑を食べてから話の続きを語った。「あの婆さん、古い一枚の写真をいつも握りしめとるんじゃ。きっと待ち人の写真じゃないかのぅ」

「成程……」飛鳥も湯のみの番茶を飲み干す。そしてニカッと笑った。

「あの婆さんの手助けをしてみるか! JOLJU!! こういう面白そうな慈善活動もAS探偵団の仕事や!!」


「…………」


 親切のため……でなく、面白そう……というあたり飛鳥らしい。しかし、実のところJOLJUはそんなに興味はない。お婆さんより桜餅派だ。

 と……その時飛鳥は当たり前の、ある事に気付いた。サクラはどこにいったんだろう?


 ……ついさっきまで一緒に晩御飯を食べていたはずだが、どこに行ったんや……?


 リビングにはいない。試しに二階に声をかけたがいない。今日はここに泊るはずだが……?

 桜が満開であるかぎり、桜中毒のサクラは日本に滞在するはずだしJOLJUもここにいるから、どこに出かけたのだろう?

「トイレじゃね?」

「こんな長いトイレがあるかい、ボケ!」

 つまりJOLJUも知らないという事である。

 ま……夜桜でも観にいったんだろう。そういうことで、誰も深くは考えなかった。






 桜の白い花が東京の明るい夜空に映え、神韻とした色彩がそこに広がっている。

 桜は人を酔わす力があるかもしれない。白い花の群集は仄かに香る花の香りを抱き、日本の春の印象を人間に植え付けて、人の心を恍惚とさせる。

 昼……あれだけ賑やかだった桜が咲き乱れる公園も、夜は人気がなくまだ冷たい風が足元を吹いていく。

 そんな公園の一角で、老婆は一人、飽くことなく桜を見つめていた。

 今、桜は満開だ。風が吹くと、ちらりちらりと花びらが舞う。


 ……今年も、会えないかもしれない……


 ちらりちらりと散っていく桜の花びらを見ると、そう思ってしまう。

「今度は……会える気がするのよ」

 誰にいうでなく、老婆は呟いた。そして、無意識のうちに首からかけられた古いフィルムカメラに触れていた。もう、何十年も前に動かなくなった古いカメラだが、彼女の半生共に歩んできた大切なモノだ。そして、一枚の古い写真。この二つは、彼女にとってかけがえのない、自分の宝物……。

「会えるよ」

 横にある大きな桜の木が、言った。老婆はゆっくりと樹のほうを向いた。ここにやってくるようになって12年……ずっと変わらず彼女と共に待ってくれていた桜の木だ。


 が……今日は、いつもと違った。


 喋ったのは桜の木ではなく、その傍に立つ少女だ。


 いつのまに来たのか、一人の少女……紅い髪をした、ちょっと他にないような綺麗な顔をした10歳くらいの女の子……サクラが立っていた。

「横、いいかな?」とサクラは言った。口から出た言葉は日本語ではなかった。そしてその言葉は、老婆にとってもっとも馴染みある国の言葉だった。老婆は温かな微笑みで頷き、そっと一人分、ベンチの席を空けた。

「いい景色だよね。昼の桜もいいけど、やっぱ桜は夜だね」

 そう言いながらサクラは座った。

「実はね。あたしもお婆ちゃんと一緒なんだよね」

「どういう意味なの、お嬢ちゃん」

「この桜が、特別なの」

 自己中心的で人見知りするサクラが、珍しく優しく多弁だ。

「あたしの名前はサクラ。桜の木の下で産まれたから<サクラ>なの。日本人って、こういうあたり単純な民族だと思うんだけど……ま、でも自分の名前は嫌いじゃないし。どっちかというと好きかな。うん、パパがつけてくれた名前だし」

 <パパ>……とサクラが呼ぶのは現在法律上父親となっているユージの事ではない。

 サクラが、敬愛し、心から愛する<パパ>……サクラにとって本当の意味で<親>と呼べるのはその人しかいない。だが、その人とは会う事が出来ない。もしかしたら今後一生会う事は叶わないかもしれない。その<パパ>は、桜の木を持っていた。サクラは毎年、いくつもの思い出を桜と共に過ごした。サクラにとって桜は<パパ>との思い出と再会できる、愛してもやまない貴重なモノだ。

 そして、この老婆からも同じ<雰囲気>を感じ取った。

 きっと……この老婆も、桜が特別なものなのだろう。

 二人、並んで座り、桜が咲き乱れる公園を見ている。


 しばらく、そうしていた。


 ふと……老婆は顔を少しあげた。


「……今年の桜が咲いたら、きっと彼がやってくる。散るまで、黙って待つ」

 老婆は手に持った古い写真をそっと持ち上げて、サクラの手に渡した。

 色褪せた写真の中には、満開の桜が咲き、小さな野池が映っていた。

 一目で分かった。この写真は、丁度彼女が座るこの場所から撮られた写真だ。彼女がここにいる理由が、これで判明した。

「ずっと待っているの。それが、彼との約束ですもの」

 老婆は、そう言って微笑んだ。






 1968年 ベトナム中部。ジャングルの中。


 どれだけ駆けたか分からない。

 足も手も感覚が鈍くなるくらい、精一杯走った。走り続けた。彼と一緒に。

 小さいが澄んだ水の湧く泉を見つけたとき、ようやく二人は走るのを止めた。

 少女は無我夢中で泉の水に顔をつけ、水を飲んだ。疲労で手も足ももう悲鳴を上げていたが、冷たい水を飲むと不思議と手足の感覚が戻ったような気がする。

 少女は存分に水を飲んだ後、その場に座り込んだ。しばらく動けそうにない。


(……寒い……)


 身体を触ってみた。着ていたシャツは汗と血にまみれ、半分くらい裂かれていた。夜は寒い。こんなボロボロのシャツでは尚更だ。空腹も酷い。

 どうしてこんな事になったのだろう。自分たちが何をしたっていうのだろう……。

 分からない。何も分からない。

 分かっている事は二つ。自分が住んでいた村人も親も兄弟も死んだ事。

 そしてもう一つは、自分は全く来たこともない知らないジャングルの中まで、男に連れられ逃げてきたという事。

 その時、男は寒さに震える少女に、自分の着ていた上着をやさしく掛けてくれた。

「寒いだろう? 着たらいいよ」

「!」

「ポケットにチョコレートが入っている。食べたらいいよ。甘くて美味しいから」

 少女は警戒で体を強張らせつつ上着を握り締めた。だが男……どうやら欧米人ではなくアジア人のようだが……は、そんな彼女のことなど気にせず自分の荷物の確認をしていた。大きな荷物は、自分たちを襲った米兵と同じようだが、兵隊には見えなかった。大きな無線機とカメラ……それが目に入った。男は無線で何か話をしていた。やがてそれが終わった時、男の顔色は明らかに悪かった。けして疲労しただけには見えなかった。

 その時……少女の目に、男の肩から血が滲んでいるのが見えた。

 あの時だ。少女を助けるため、米兵と撃ち合った時だ。よく見ると自分に被せた上着の肩の部分に穴が空いて血が滲んでいる。少女はまた先の様々な残虐光景を思い出し体を強張らせた。

 男は、優しく少女の頭を撫でた。

「怖がらせてゴメン。大丈夫、君に危害は加えないよ」

「…………」

「厄介なことが起きた。ボクにとっても、君にとってもね。でも大丈夫。君はボクが守るから」

「守る?」

「ちょっとボクと一緒に逃げないといけないようなんだ。もう君が住んでいた村は消滅したんだ。もしかしたら君には他に親戚とかいるかもしれない。だけど、そこに連れて行くのも危険なんだ。今度はきっとその村を米軍は襲って皆殺しにする。だから、君が生き残る方法は一つしかない。この国を出ることだ。ボクもね」

「…………」

 話の内容が完全に把握できたわけではない。だが、少女は知った。もう、自分は逃げ続ける以外生き残る方法がない、という事を。

 あまりの我が身の不幸に、少女は言葉を失った。まだ、何が起きたのか正確には理解できていない。それでも少女はただ一つだけ、確信した。目の前にいる、眼鏡をかけたアジア人だけが、自分にとって唯一の味方である事を。

「君、名前は?」

「……レン=チェーミン……」

「いい名前だ」そういうと、男は微笑んだ。「ボクはオオカワ=ヘイハチロー。日本人だ」

 オオカワはそういうと、そっと右手を差し出した。

 少女は……レンは、数秒その手を見つめ……ゆっくりと、その手を両手で掴み握り締めた。日本人なら、この人は敵ではない。

 この瞬間こそ、彼女のとって新しい人生の始まりだった。





 現代……夜の公園。


 サクラは、ふっと顔を上げた。


「オオカワ=ヘイハチロー……その人を待っているのね、お婆ちゃんは」


 老婆……レンの話を聞いたサクラは、黙って頭上の桜の花を見つめた。

 レンがどうしてここにいるのか、それは今の話で分かった。


 1968年……ベトナム戦争後期になる。どうして日本人が彼女を助けたのか、オオカワという日本人が何者なのかは分からない。ただ一つ分かっている事……それはレンが今は一人であり、オオカワを待っているという事だ。


 ……成程、哀しい美談だね……。


 しかし、ベトナム戦争のとき20代だとしたら、今は相当高齢のはずだ。果たして生きているものだろうか? いや、もしかしたら血縁者を待っているのか? レンにとっては何気ない思い出話だったが、そこは米国政府や米軍のことを色々知っているサクラにとっては、色々ひっかかるところがあった。ただの村人を日本人が助けたところで国外まで逃げなきゃいけない大脱走劇になるだろうか?

 それはそれとして……サクラは、言わなくてはいけないことがある。

「知ってるレン婆ちゃん。もう時間……ないよ?」

 何気なく、サクラは言ってみた。果たして彼女は分かっているのかどうか……。

 レンは、優しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。

 彼女は自分のことをよく知っている。

 ふと、レンは思い出したようにサクラを見た。

「お嬢ちゃん……貴方……」

「分かる? 人間じゃないのよ、偶然だね」

 サクラは微笑み返した。そのサクラを見たレンは、初めて哀しそうな表情を浮かべ、頭上の桜を見た。

「もう……時間かしらね」

「そうね。もうそろそろね」

 二人、黙った。桜の花びらだけが、ふわりふわりと舞っていく。

 サクラの表情が、変わった。長閑な少女の顔から、妖艶で鋭い魔性の顔に。

「オオカワさんに会わせるって言ったら、信じる?」

「……お嬢ちゃんが……?」

「ま……多分出来ると思うよ。色々調べなきゃいけないから、今すぐは無理だけど。そうね、この桜の花が散るまでには、見つけられると思う」

「…………」

「でも、あたしの力を借りるには対価が必要なの。会わせてあげることは出来る。でも、その時、お婆ちゃんは時間の時間全てを失う。それでもいいならね」

「……いいわ。お嬢ちゃん、あの人に会う事が、私の人生最後の願いなんだもの」

「OK。サクラちゃんが承った!」

 サクラは破顔した。その笑顔は、なんともいえない、愛らしく眩しい心からの表情だった。


 サクラは、何でもかんでも奇跡を安売りしない。奇跡には、同等の対価を求める。人が人として支払う代償の姿は、そこに人間の本質がある。サクラはそんな人間の美質を見るのが何よりも好きだった。


 まだ、やることがある。奇跡の種を貰わねばならない。


 サクラは立ち上がった。


「動かないで。痛くないから……目を瞑って」

「…………」

 レンは、黙って従う。

 サクラの瞳が、赤い光が宿る。

 その細い指が、レンの頭にめり込んでいく。指が全て、頭に刺さった。だが血も出なければ痛みもない。

 サクラの指は、彼女の脳から直接彼女の記憶を読む。

 5秒ほど……サクラはレンの記憶の中に潜った。


「開けていいよ」


 そう言ったとき……サクラはすでにレンから離れ、もう背を向け歩き出していた。


「……あっ……」

「じゃあね」サクラはもう振り返ることなく、歩いていく。

 何が起きたのか、レンにはさっぱり分からない。だが、サクラが公園を出て行ったのを見て目線を前に戻した。

 彼女は、もうしばらく夜の公園にいた。







「なんや? 夜桜見物は終わったンか?」


 サクラが飛鳥の家に戻ってきたとき、飛鳥は風呂からあがり居間で風禅、JOLJUと共にバラエティー番組を見てのんびりしていた。つまり一家団欒中である。

「じゃあ、あたしもお風呂入ろうか」と着替えを自室に取りに戻ったサクラだったが、戻ってきたサクラは風呂には行かず、風禅の横に座った。

 サクラは試しに風禅に、オオカワ=ヘイハチローについて尋ねた。

 レンの持っていた写真には人物が写っていなかった。あの公園の桜は確かに美しいが観光名所ではないし絶景というほどではない。だから、きっと近所に住む写真好きなのではないか……という推理を立てた。であれば近所の生き字引、物知り爺真壁風禅ならば知っているのではないか? と、サクラは考えたわけだ。


 その話を聞いた風禅は、しばらく考えていた。


「あのなぁ~サクラよ。曲りなりにもここは東京やで? 写真好きのオオカワなんて、いくらでもおるやん」

「いや……そんなにおるわけではないが……」と腕を組み、必死に思い出そうとしている風禅。1968年の時20代ということは、風禅より年上である。しかし飛鳥の言うとおり、腐っても都内23区練馬だ。人口密集度は高い上に下町と違い新興住宅も多く人の入れ替わりも大きい。風禅が物知りといっても限度があるのも事実だ。


 が……風禅には、心当たりがあるらしい。いつもなら即答する風禅が、何か思い出そうとしている。


 しばらく考えていた風禅が、ようやく何かを思い出し顔を上げた。


「オオカワ=ヘイハチロー……間違いないかの?」

「うん。間違いないと思うけど爺ちゃん知ってるの?」

「詳しくは知らんが……サクラならもっといい方法があるぞ」

「いい方法?」

「クロベ君に聞いてみなさい」

「え? ユージ? ……いや、確かにユージも一時期東京に住んでたけど出身地は札幌だけど」

 そもそもユージはアラサーで60年代後半には両親が出会ってもいないだろう。

「いや、そうではない。ワシの記憶が確かなら、そのオオカワ=ヘイハチローって男は日系米国人じゃ。しかもカタギじゃない」

「カタギじゃない?」

「確か公安の記録で見た覚えがあってな。それで色々思い出しておったが、どうも昔の話じゃから何かの書類で見たことまでは思い出したが。いや、カタギじゃないというてもヤクザや過激派じゃない。確か、逆じゃ」

 風禅は長く警視庁勤務の警察官だった。そして、その職務人生の半分以上を特殊な部門である公安部で過ごした特殊な経歴を持っている。公安部の情報網は、日本国内だけでなく海外の情報にも精通している。


 ……日系米国人で、日本の公安に記録があって、ベトナム戦争に従軍していた……?


 となれば、その人間は米国政府の諜報員という事ではないか! 

 だとしたら、オオカワ氏の情報が眠っているのは、米国国防総省ということではないか!


 確かにもしそれが事実なら、アクセスできる人間は限られている。ユージなら国防総省にもコネがあるし、かなり特殊なFBI捜査官だから裏社会にも諜報員の活動にも精通している。少なくともリタイヤした元公安の風禅よりは詳しく知ることが出来るだろう。


 成程……なんとなく話は繋がってきた。


 オオカワが米国政府の諜報員で、米軍と活動を共にしていた。そんな人間が、米軍に逆らい任務を捨て逃走したとすれば、米軍はどこまでも彼を追っていくだろう。彼がその後どうなったかは、米国の資料を頼るしかない。

 思った以上の大事件に、サクラは唾を飲んだ。

「しっかし……ユージに頼むのは気が引けるナァ……」

 サクラは嘆息する。オオカワ氏が現役諜報員なら今あるユージのコネを生かせるが、1960年代後半ということになれば国防総省にしかない。ユージの仕事とは関係のない、越権行為であるFBI捜査官が首を突っ込むには、ある程度無茶が必要のはずだ。そして現役CIA特別捜査官であるセシルも、そこまで古い情報にアクセスする権限は持っていないからセシルにも頼めない。大事件が発生したとかいうなら頼みやすいのだが、まさか老婆のノスタルジーのため……なんて知られれば……「俺を何だと思ってる!!」と激怒するに違いない。


 が……サクラがその行動に逡巡している間に、気の早い風禅はさっさとユージの携帯電話に電話をかけると、サクラが気付いて止める間もなく、さっさとユージにオオカワ氏について依頼してしまった。


「じ、じいちゃんっ!! ゆ、ユージにかけたの!?」

「うん。かけちゃった」

と悪びれもせず答える風禅。この後先考えない行動力は、さすがは飛鳥の祖父である。だがサクラは真っ青になっている。


「今何時!?」

とサクラは振り返った。飛鳥が壁の時計を見て「10時15分」と答える。それを聞いて、サクラはますます青ざめた。NYとは時差13時間……きっとランチタイムの最中だったはずだ。ユージだって日頃何かしらの事件を抱えている。こんな職務外の頼まれごとをやるとすればランチタイムを潰すしかなく、当然ただでさえ多忙なユージが快くやってくれるとは限らない。同じユージに頼むにしても頼み方があるのだ。

「いやいや、そんなに機嫌悪くはなかったゾ、クロベ君」

 そりゃあそうだ。風禅は年長だしサクラの居候先でいわば日本の保護者でもある。義娘が世話になっている以上、ユージだって弁えている。そしてその反動は、後日サクラの頭上に降り注がれるであろう。


「JOLJU!! NYに飛んでユージのサポートしろっ!!」


 それしかない! が、JOLJUは乗り気ではない。これから風禅と一緒にオンライン・シューティングゲームをやる予定になっているのだ。JOLJUはものすごく渋い顔をしたが、サクラが激怒しはじめたので仕方なくNYにテレポートで飛んでいった。

「……疲れた……」

 これでいい。後は怖いが、とにかくもユージとJOLJUが動いたら記録の照会くらいあっという間だろう。多分1960年代の記録となれば紙媒体でチェックするのは大変だろうが、そういう面倒は全部JOLJUに押し付けられるだろう。そのためにJOLJUをNYに帰したわけだし……。

「風呂に行く。飛鳥、コーラ出しといてねー」と、サクラは言うとトボトボと風呂に向かった。まぁ風呂に入るくらいの時間のゆとりはあるだろう。












 1968年 ベトナム


 二人の旅は過酷だった。


 米軍の目がある。大きな町は入れなかったし、電車もバスも多く利用することは出来なかった。オオカワが脱走兵なのはレンも分かったが、北ベトナム軍からも逃げていた。

 多くは徒歩だ。

 レンは、これまで自分の村の外に出た事がなく、何も分からず、何も知らない。

 時々、オオカワは写真を撮っていた。綺麗な風景より、悲惨な風景ばかり撮っていた。

 オオカワは何でも知っていた。

村や町では、上手に現地民に馴染み、食料や情報を簡単に手に入れてきた。

ジャングルの中でも、彼は食べられるものを手に入れるのが上手だった。濁った泥水も、彼の手にかかれば透き通った水に変わった。

地図は使い古されたものが一つ。そして方位磁石だけだが彼は迷うことなく次の目的地にたどり着くことが出来た。

何度もキャンプをした。ラオスに脱出することが二人の旅の目的だったが、彼は北に行ったり南にいったり、時に廃村で10日以上滞在することもあった。


 彼は、達人だった。生きる事の……。


 そして、彼は優しく楽しい青年で、世界中の話をレンに教えてくれた。


 楽しかった。


 オオカワとの旅は、レンにとって驚きと興奮と、安らぎだった……。


 ある日……小さな山奥の村で一夜の宿を借りることができた。何日ぶりかに温かい食事と風呂と毛布で寝る幸運に恵まれたことがあった。

 すごく綺麗な星空が満天に広がる夜だった。

 オオカワは、その星空の下で、一枚の写真を見て微笑んでいた。

 レンがそっと覗き込むと、とても綺麗な花が咲き乱れている公園の写真だった。そこには誰も映っていなかったが、主役はこの桜の木なのだという事がすぐに分かった。

「これは、ボクの故郷の風景なんだ」

「綺麗」

「うん。世界で一番綺麗な風景だ。ボクの故郷、日本の桜の写真だ。レンは観たことがないよね」

「まるで木が白く光っているみたい」

 レンは興奮した。ベトナムには、こんなに白く綺麗に咲く花の木はないと思う。

「日本……綺麗だね! 綺麗だね、オオカワ!!」

「ボクは子供の頃、よく家族と一緒にこの桜を観にいったんだ。ボクの宝物なんだ。この桜の写真を見ると元気が出てくる」

「すごいね! 綺麗!」

「春になったら、日本中この桜の花で包まれるんだ。でも、ボクはここの桜が一番好きだ」

「うん」

「いつか……そう、いつかこの桜の花を見せてあげるよ。大丈夫、ラオス国境まで後50キロ……あと少しだ」

「うん」


 ……ラオスがゴール……この逃避行の旅は終わる。


 その時レンは少しだけ、「ラオスがもう少し遠かったらいいのに」と思った。そうすれば、オオカワとの旅をもう少し続けることが出来る。


 そしてレンは、こんな楽しい旅が、きっとずっと続くものだと信じていた。







 現代 東京 午後11時17分。


 すでに飛鳥は床に入り、もういびきをかいていた。


 サクラは自分のノートPCを開き、送られてきたデーターを確認していた。その横では、モシャモシャと夜食のおやつを食べているJOLJUがいる。二人共もう布団を敷いていたが眠っていなかった。というより、眠れなかった。ユージが調査を終え電話口にいる。


 僅か一時間で、ユージはオオカワ=ヘイハチローとレン=チェーミンについて、ほとんど完璧といっていいほど調べあげていた。勿論JOLJUが手伝った事もあったが、理由はそれだけではない。サクラが予想していた以上にオオカワという男は米国にとって重要人物で、記録がしっかり残っていたのだ。そしてレンのことも記録にあった。

「……ユージも真っ青な経歴だね、このオオカワって人」

 電話はスピーカー・フォンにして机の上に置いてある。


『日系移民一世。カリフォルニア州立大学卒業。その後英国SASでサバイバル訓練を受けFBIアカデミーに入学。ま、人種差別が残っている1960年代で、日系人でここまで経歴のある男はあまりいないだろうな』


 NYのユージは自分のオフィスで応対しながらバケットサンドイッチを食べていた。もうランチタイムは過ぎていて遅い昼食である。米国の組織の中では比較的規律に煩いのがFBIだが、この程度の軽食なら許されている。


『こっちで調べた情報はメールに送ったとおりだ。それ以上は知らんぞ』


「OKOK。いや、十分すぎる。……ていうか、むしろこの情報、見てて怖いくらいなんだけど? レンのお婆ちゃんのことまで……なんていうか、開いた口が塞がらんというか、さすが大陰謀国家米国! と褒めたらいいのか……」


『口外するなよ。外に漏らしたのが分かったら―――』

「大丈夫大丈夫、サクラちゃんを信用しなさい♪ うんじゃあアンガト、ユージ。バイバイ~! また会う日まで~」


 と言って強引に電話を切るサクラ。きっとNYでユージは怒っているだろうが、この事件の内容を引っ張ってこさせた時点でユージが怒るのは想定内だ。


「もう終わり? いいの、ユージきっと怒るJO?」

とお菓子を食べながらJOLJUはサクラのところにやってくる。JOLJUもむろん送られてきたデーターがどんなものか知っているが、そもそも陰謀話や政府のことなど興味はないから平常運転だ。


 サクラは黙ってJOLJUが握っているお菓子袋に手を突っ込み、スナック菓子を掴むとそれを口に運ぶ。


 咀嚼しながら、じっとデーターを睨んでいる。


「オオカワさんだけならある程度予想していたけど、レンお婆ちゃんも関係してたのは意外だったわ。まぁ……でも、大陰謀ではあるけど、もう時効といえば時効だろ」

「そりゃあペンタゴンの書類保管所に眠っていたくらいだしね」

 この陰謀が現在進行形なら、記録はデーターとして現在も補完し担当者も存在するだろう。だが、この陰謀事件はすでに過去の書類となっている。国防総省としては完全に終わった事件だ。この手の話が好きなテレビ局の企画部やノン・ドキュメント作家や都市伝説を追いかけているネット・アングラーが知れば大いに興味を得るだろうが、そういう人間に知られたとしても、やはり過去の話でしかなく、今更この事が大問題になるとは思えない。それにそもそも、話が巧く出来すぎていて、一般人には受けないかもしれない。  

 ユージが漏らすな、と厳命したのは、この内容がハードだからではない。過去の大陰謀とはいえ国が補完している書類を勝手に持ってきた事がバレることが拙いだけだ。


「で、どーするの?」

「勿論会わせるわよ? オオカワさんとレン婆ちゃん」

「どやって?」

 ニヤリ……不敵に微笑むサクラ。もうサクラの中では結論は出ている。ここでそれを教えたら面白くない。

 愛用のノートPCの電源を落すと、サクラは立ち上がり体を伸ばした。

「さてさて。明日早いからもう寝よう♪」そう言って、サクラはさっさとズボンを脱ぐと、それを適当に置いて布団の中に潜り込んだ。

「あ、後片付けヨロシク~」

「JO?」

 JOLJUは周りを見渡した。食べかけのお菓子、ジュース、漫画本、ゲーム機……散々遊んでほったらかしの部屋が残っている。……半分以上はJOLJUが散らかしたものだが……。

 が、サクラだって散らかした。しかしもうサクラは寝てしまって起きない。


「なんでだJO!!」


 呆然となるJOLJU。今日は桜餅泥棒扱いを受けるし、殴られるし、おかわりの桜餅は食べれず恥はかくし、予定していたゲームはできなかったし、ユージには怒鳴られるし、ペンタゴンまで行って泥棒みたいに資料を盗む羽目になったし……それでこの部屋の片付けまでやらされるのか! ……と、踏んだり蹴ったりの一日ではないか。


「やってられんJO!!」


 JOLJUは豪語すると、布団に潜り込んだ。

 が……明日やってないとバレて殴られるのも嫌なので、3分後には布団から出て、泣きながら片付けをする、意外に真面目なJOLJUであった。







 1969年 ベトナム ラオス国境近く2キロ


 深いジャングルが広がっていた。夜空は、いつものように晴れわたっている。


 その美しい夜空に、無数のサーチライトが走り、何機ものヘリが旋回し、僅かな陰の動きを見つけては上空からマシンガンが火を噴きジャングルを削っていく。そしてその薙射の後、完全武装した米兵が進攻していく。


 オオカワとレンは、大きな木の陰に身を潜め、じっとそれをやり過ごそうとしていた。


 ヘリから投降を促す警告が発せられている。投降すれば命は保証する、と言う。しかしそれは嘘だ。大地を進む米兵たちは、「見つけ次第射殺して構わない!!」という命令が大声で発せられている。


 それを、オオカワもレンも聞いている。見つかれば命がない。

 ヘリが一旦離れたのを確認して、二人は走った。

 銃弾の雨が、横殴りに襲いかかった。

 転がりながら……それでも二人は手を離すことなく、2キロ先の国境線を目指して駆けた。だがジャングルの2キロは、普通の2キロとはぜんぜん違う。足場は悪く、草木が生い茂り、道など存在しない。草木を掻き分け走らなければならない。どうしても音がしてしまう。四方から迫っている米兵たちは、その音を聞き取り銃弾を放ち、迫ってくる。


 周囲は、逃れようのないほど殺気で満ちていた。


 窪地を見つけたオオカワは、そこに転がり込むとズボンに差し込んでいたガバメントを抜き、周囲を観察した。どうやら、一時的に米兵たちから逃れることが出来たようだ。


 レンは震えが収まらない。

 が……その時彼女は気付いた。 

 彼の左腕と右腹から、血が流れていた事を……それを知ったレンは、慌てて傷口を押さえた。だが血は、止まらない。

 オオカワは恐怖で震えるレンの頬を撫で、初めて微笑んだ。

「掠ったみたいだな。大丈夫、なんともないよ」

「ダメ! オオカワ……」

「連中はボクの素性を知っている。ボクたちが降伏しても殺されるだけだ」

「…………」

「あと少し。早く、二人で逃げよう! 自由になろう!」

「…………」

 涙目で必死に傷口を押さえるレン。そんなレンの頭をオオカワは優しく撫でた。

 もう、オオカワは心を決めていた。

 彼はこれまで背負っていたリュックを降ろし、そして愛用していたカメラを取り出すと、それをレンの首にかけた。

「オオカワ?」

「君は、そのカメラを持って一人で逃げろ」

「えっ」

 オオカワはリュックから水と財布を取り出し、それをレンに握らせた。

「君はベトナム人……この包囲網から逃げることが出来れば、どこにだって溶け込むことが出来る。目立たず、こっそり国境を越える事は可能だ」

 そして、オオカワはもう一つ……ビニール袋に入ったフィルムと、手帳をレンに手渡した。

「このフィルムの中には、ボクがこのベトナム滞在2年の間に撮ってきた色んな写真がある。米軍の虐殺行為の数々がね。もちろんレンの村の悲劇も入っている。カメラの中にも入っているから……これを全部、ラオスの国連事務所に届けるんだ」

「…………」

「勿論、国連職員は最初は信じないと思う。その時は、手帳を見せなさい。それで信じてくれる。君はあの大虐殺の生き残りである事も書いてある。きっと、君の事も世話をしてくれるはずだ」

「まって、オオカワ」

「ボクたちが一緒に旅をしてきて半年……君は、ボクの事を傍で見て、色々覚えたね。その知識を使えば、きっと一人でも大丈夫だ」

「イヤ! オオカワと別れるなんて!! 離れたくない!!一緒にいたいっ」

 涙が流れる。そんな事構わず、オオカワにしがみつくレン。

 オオカワは、優しくレンの涙を拭くと、微笑む。

「大人の言う事は聞きなさい。これはね、レン。ボクたちが生き残るための唯一の方法なんだ。君は一人なら大きな樹の上にでも隠れれば、米兵に見つからずやり過ごすことができると思う。そして、ボク一人なら、この包囲を突破できるかもしれない。ボクたちが無事この窮地から脱する方法は、これしかないんだ」

 そう、これしかない。二人では、どうしても目立ち米兵に見つかってしまう。だが、一人ずつなら、この包囲を突破することはできるかもしれない。幸い、ジャングルは大樹も多くて森は深く樹木は密集し、ジャングルの中には無数の闇がある。オオカワは一人であれば追ってくる米兵の耳目を集め、戦闘をしながらこの包囲網を突破する自信がある。米軍の一番の目的はオオカワだから、レンを置き捨てていったところで深く詮索はしないだろう。幸か不幸か、この辺りは北軍の活動圏内で米軍は長時間この地で作戦を続けられないはずだ。そしてレンだけであれば、仮に北ベトナム軍の人間と会ってもやり過ごすことが出来るだろう。二人が無事生き残るためには、もうこの方法しかなかった。

 レンは、何も言えなかった。言葉が、出なかった。

 そっと、オオカワはレンを抱擁した。

「レン。君と過ごした一年は逃亡の日々だったけど、楽しかった。こんなろくでもない世界だけど君となら幸せだった」

「オオカワ」

 ぎゅっ……レンの腕の力は強くなった。二人は力いっぱい抱きあった。

「ボクも必ずここみから脱出してみせる。ボクの夢はね、レン。君にボクの故郷の桜を見せたいんだ。一緒にボクの故郷の桜を見よう……必ず、一緒に……」

「うん……見たい。約束……」

「約束だ。一緒に、桜を見よう」

「オオカワ」

 二人の唇が、触れ合った。それは数瞬……でも二人にとっては、とても長い幸福の時間。

 近くでお聞きな銃声がして、二人のささやかで幸福な時間を終わった。

 オオカワはレンの首に愛用のカメラをかけ、お金やフィルムや手帳の入ったその小さな手に握らせると、彼は彼女から離れていった。

「じゃあ、また後で」

 オオカワは……最初に会った時のように、屈託ない、澄み切ったとても気持ちのいい微笑を浮かべると、ジャングルの中に消えていった。

 すぐに、激しい銃声が聞こえた。

 銃声と罵声は、レンから遠ざかっていく。

 その時、レンは初めて理解した。オオカワと、別れ離れになったという現実を。

 彼女は叫んだ。泣きながらオオカワの名を呼び、叫んだ。だがそれは激しい銃声に掻き消えた。


 彼女の手には、古く使い込まれたカメラと、一枚の写真と、彼女の人生を変える事になるフィルムが、残されていた……。






 現代 東京 午前7時48分。


「ふあぁぁぁ~ぁぁ……」


 大きな欠伸である。

 ベッドから起きた飛鳥は、何度か目を擦りながら起きた。8時間はしっかり寝た。特に何も用事がなければ、飛鳥の基本8時間睡眠の健康優良児である。今日の朝ご飯の担当が自分だった事を思い出し、少し面倒くさくなった。とはいえ、祖父風禅は基本朝は遅い。夜中までゲームをするからだ。

「おーい、サクラぁ~JOLJU~。朝はごはんか? パンか?」

 ガラリ……と隣室の襖を開けた。隣室はサクラとJOLJUの部屋である。一応、ごはんかパンかを聞くくらいの配慮はある。とはいえ、ごはんを選んでもおかずは漬物と納豆、パンを選んでも買い置きの食パンに目玉焼きがつくだけなのだが。

 八畳間に布団が二つ。が、寝ているのはJOLJUだけでサクラの姿はない。まだ八時前……サクラも普段は9時間くらい寝るからいつもなら寝ているはずだ。が、いない。


「おい、JOLJUよ。サクラはどこに行ったン?」


 …………。


 返事はない。JOLJUは爆睡しているようだ。

 いつもならほっておくところだが、実は昨夜からサクラとJOLJUがなにやら面白そうなことをやっているのを知っている。昨夜は眠かったのと風禅まで首を突っ込んできたから遠慮していたが、好奇心が人の何倍も強い飛鳥は、何をやっていたのか知りたくてウズウズしている。そして朝からサクラがいない。ますます気になる。

「おい」

 飛鳥は何ら躊躇することなく、熟睡中のJOLJUの顔を蹴飛ばした。JOLJUは部屋の壁のところまで吹っ飛んだ。むろん起きた。

「何するJO!!」

「あの極悪ノー天気娘はどこいったん?」

「知らんJO! トイレだJO!!」

「昨日と同じボケするな!」

 再び見事なトゥーキックでJOLJUを蹴っ飛ばす飛鳥。

 当然、こんな理不尽な暴力に猛抗議するJOLJU。JOLJUだって今蹴飛ばされて起こされたばかりだ。寝ている間のことは知っているわけがない。しかし、そんな言い訳を信じる飛鳥ではない。二人は不毛な罵声の応酬を繰り広げること2分……。


「朝から喧しい!」

と、サクラが現れた。


「ん? お前こそどこ行っていたんや! こんな朝早くから」

「は? トイレだけど……お前は行かんのか、朝トイレに」

「…………」

「…………」

 見ればサクラはズボンを履いていない。寝間着代わりの大きな黒Tシャツ姿だ。どこに出かけるわけでもない。

 次の瞬間……復讐の炎に燃えたJOLJUは、枕を掴むと飛鳥の顔面めがけ思いっきりぶん投げた。枕は見事に飛鳥の顔面ど真ん中に炸裂した……。

「何しとんじゃい、お前らは……」

 こんなボケ人間たちに付き合いきれん……サクラはさっさと自分の布団を片付け、愛用のGパンを履き愛用の上着を掴んだ。

「なんや? 出かけるんか?」

 今度は上着を取ったから間違いない。

「ちょっとねー。ああ、朝ご飯はパンで。帰ってから勝手に食べるから。卵はゆで卵よろしく~」

 そういうと、サクラはさっさと一階に降りていった。JOLJUは一緒にいかないようだ。

「おい、どういう事や、JOLJU。サクラはどこにいく気やねん?」

「納豆オムレツ!」

「……は?」

「オイラは納豆オムレツを所望するJO!! あ、パンでもご飯でもいいけど、納豆オムレツは外せんJO!!」

「…………」

 どうやらそれを食わせない限り、サクラのことを教えない……という事もようだ。飛鳥も朝食担当という立場と、無理やり蹴飛ばして起こした引け目もあるので、ここは従う他なかった。









 朝の公園は、結構賑やかなものだ。

 散歩をする人、体操する人、ジョギングする人、ご近所仲間で雑談する人……結構多くの人で賑わう。

 そして、今日も朝早くから、いつもの場所で、いつもと変わらず、優しい微笑みで桜を眺める老婆の姿もある。

「…………」

 公園の入口に、サクラはいた。

 今日できっと、何かが変わる……。






 食事前まではぷんすか不機嫌だったJOLJUも、納豆オムレツが目の前に置かれると、瞬く間に機嫌は良くなった。今はニコニコ顔で、納豆オムレツをパクついている。飛鳥はこう見えて家事歴も長く、絶品ではないがそこそこ美味しい料理を作れる。ちなみに飛鳥は納豆オムレツではなく出汁巻き卵を食べている。

「…………」

「…………」

 上機嫌に納豆オムレツを食べているJOLJU。それをじっと見ている飛鳥。

「で……いつになったら話すンや? <花待ちお婆ちゃん>のこと」

「…………」

 食べていたJOLJUの手がピタリと止まる。分かりやすい奴である。これでサクラとJOLJUが何か企んでいる事が分かった。それも、昨日の話の流れからして、あの<花待ちお婆ちゃん>のことであることは飛鳥も分かる。

 それからネチネチと飛鳥がJOLJUを言い寄ったので、仕方がなくJOLJUは少しだけ喋る気になった。


 オオカワとレンの事。彼女がずっとあの公園でオオカワを待っている事。


 飛鳥はその話を聞きながら、トーストにマーマレードに塗り、そしてそれを齧った。

「でも、あの場所で待ち合わせしたんやないんやろ?」

「約束はしてないけど」と、JOLJUは、1/3に減った納豆オムレスを細かく刻み、それをトーストの上に乗せるとされを頬張った。「あの公園は二人にとって特別な想い出の場所だJO。だからきっと特別なんだJO」

「ふーん。随分ロマンチィックな話やけど、ちょっと納得できへん」

「JO?」

「だってそーやろ? 何で今になって会いたいねん。もう21世紀やど? こんなところでアポなしで会おうなんて無理やりすぎひんか?」

「そうも行かないんだJO。彼と連絡する方法がないし」

「納得いかへん……」

 あむっ……と飛鳥はトーストを半分まで食べ、カフェオレで一気に胃に流し込む。

「そもそも、そのオオカワって男、何者なん? どうして事件がペンタゴンにあったんや?」

「そりゃあ、米軍の大量虐殺を目撃しちゃったからだJO」

「それや! ウチもよくは知らんけど……ベトナム戦争って結構残虐な事件たくさんあったって話やん。別に特別じゃないやろ? ……よく知らんけど」

 確かに飛鳥の言うとおりだ。あの戦争では、大なり小なりそういう虐殺事件があったことは周知の事実だ。そしてもうそれは過去の出来事、歴史の1ページだ。今現在から見れば古い時代の事だ。飛鳥がピンとこないのも当然だ。JOLJUだってそんな昔の事は知らない。


 が……JOLJUが語ってくれた情報はここまでだ。それ以上の事は「秘密だJO。こくぼーそーしょーの極秘機密だJO」と口を噤んでしまった。

「そんなわけあるかぁーっ!!」

 マーマレード・トーストを完食した飛鳥はドンッ! とテーブルを叩く。

「ここまで聞いて引き下がれるか!! 全部喋れ! こんちくしょー!!」

「秘密は秘密だJO。喋ったらユージにタコ殴りにされるJO」

「絶対喋らへん! ここだけの秘密にするから!」

 今度は手を擦り拝む飛鳥。飛鳥の気持ちも分からないではない。ここまで聞いて引き下がるなんて生殺しもいい事だ。これが全く見知らぬ相手なら教えるのが拙いが、そこは飛鳥である。サクラほどではないが、色々極秘機密を体験し、聞き知っている飛鳥だ。これまでも一応「極秘」といえば、素直に秘密に守ってきた。一応信頼できる人間である。


 うーんうーん……と悩んでいたJOLJU。しかしJOLJUもついに折れた。


「寿司が食べたいJO!!」

「す……寿司ぃ!? ……お前、ここぞとばかりに足元見やがって!!」

「お昼は寿司! それで手を打つJO」

「……回転寿司でええか?」

 どんっ! とJOLJUはテーブルを叩いた。

「お寿司と言ったら回転寿司に決まってるJO!! それ以外は認めんJO!!」

「…………」

 そう、JOLJUにとって寿司とは回転寿司のことである。JOLJUの感覚では、小奇麗で高級な料金表のない寿司屋は寿司という名の高級和食店で寿司屋ではない。


 今は春休みで、昼食代は風禅に頼める。多少高くつくかもしれないが、今この話を聞くことのほうが面白そうだ。飛鳥はついに了承した。


 JOLJUはトーストを食べ終え、食後の番茶を一口啜った。

「問題は、見つけた相手と状況なんだJO」

「ふむ」

 飛鳥も自分用に番茶を淹れ、飲み始める。

「1968年代の米国ってどうなってたか知ってるかだJO?」

「いや、全然知らん。ベトナム戦争中だって事はしっとる」

「すごい反戦運動も起きてたJO。左翼活動とか、ヒッピーの活動とか、デモ運動とか」

「アメリカ史はようしらん」

 1968年頃……米国政府はベトナム戦争の泥沼化により、世情は沸騰点に達しそうになっていた。その国内の不安を打破するため、米国は強攻策に出て、さらに世界を混沌とさせていた。軍は肥大化し、政府は諜報と圧力で国民を威圧し、暗殺事件も起きた。そんな負の連鎖が続き、底なし沼のような世界情勢だった時代……。

「オオカワさん、実は米国人なんだJO」

「へー、ほんまに? それだけ?」

「問題は、彼を雇った人間なんだJO」

「誰や? 大統領?」

「うんにゃ。でも、大統領よりずっと危険な男の人……。J=エドガー=フーバーだJO」

「だからそんな奴知らん! ……ん? でも聞いたことある」

「初代FBI長官のフーバーさんだJO。歴代FBI長官の中でもっとも在任期間が長くて最も権力と影響力を持っていたJO。一説には大統領より権力を持ってたって噂される怪人だJO」


 初代FBI長官J=エドガー=フーバー。世界最高の捜査機関FBIを立ち上げ、米国国内の治安と情報網を一手に握り強靭にして最強の権力の座を築き上げ、長くその座に君臨した米国史上屈指の怪物。五人の大統領に仕えたが、彼は自分が集めた情報を武器とし、全ての大統領を操る事が出来たといわれている。FBIが組織として最も恐れられていた時代であり、最も嫌われていた時代でもある。


 この時代……米国内で、もう一つ勢力を拡大させていた組織があった。冷戦真っ只中であり、多くの国際的事件を引き起こしていたCIAである。この双方の組織は、司法省と国防総省で管轄が違うが、FBIが法と秩序、そして情報網よって米国を支配しようとしていたのに対し、国防総省とCIAは軍備と陰謀によって米国を牛耳ろうとしていた。表立った対立はあまりなかったが、裏では米国という土壌でこの二つの巨大組織は覇を唱えようと幾度もぶつかり合っていた。


「JFK暗殺事件後、ベトナム戦争が激化して米軍とCIAの活動は活発化したんだけど、それによってFBIのフーバーさんは対抗策を持つ必要性を感じていたんだJO。国内では暗殺事件が続いて、しかもどの事件にもCIAが関わっている形跡がある。元々米国内はFBIの管轄……ていう事になっていたから、フーバーさんは内心面白くなかったんだと思うJO」


 続く暗殺事件……というのは、ロバート=ケネディ暗殺事件と、キング牧師暗殺事件の事だ。他にも名前の載らない暗殺事件も多くあった。そのほとんどで、CIAや軍部の暗躍があった。しかし、それを法で裁くことは出来なかった。大統領ですら暗殺される時代である。そんなことを表立ってすればフーバー自身消されていたかもしれない。勿論フーバーは自身が殺されないように布石をいくつも用意し、自分が暗殺されたり失職するようなことが起きれば、とんでもない爆弾を政界に放り込む用意をしていてその点安全は確保していた。しかしフーバーは同時に非常に攻撃的な性格でもあった。何かしらCIAや軍部の弱みを握りたい……と、陰謀の手を休めることはなかった。


 そんな時……フーバーはオオカワ=ヘイハチローという日系人を知った。


「オオカワさんは、FBIのスパイだった!?」

「そうだJO。で、彼は秘密工作員としてベトナムに渡ったンだJO。表向きは従軍記者だけどね」

「スパイ大作戦やな」

「で……オオカワさんが一年の活動の後、配備された部隊っていうのが米軍の丸秘実験特殊部隊だったんだJO」

「なんや、それ」

「うーん……そのあたりまではよく調べてこなかったんだけど……どうやら薬物で強化された特別部隊だったみたい。特殊部隊1個中隊全部が生体生物兵器の実験部隊だJO」

「……急にすんごくキナ臭くなったな……」

 そういえばそういう実験部隊がベトナム戦争に投下された……というのはよく聞く都市伝説だ。麻薬で強化されたり、覚醒剤を投下されたり、果てはロボトミー手術を受けた凶悪犯によって編成された残虐部隊……というのまである。どこまで本当かは分からないし、どういう部隊であったかまでは、さすがにJOLJUも語らない。

 CIAと軍部はオオカワを受け入れた。政治的意図もあっただろうし、オオカワを懐柔させるつもりだったか、それともこっそり抹殺するためだったか。正規軍が抹殺すれば司法省と軋轢が生まれるが、非公認の人体実験部隊が暴走の末殺したという事になれば事故で処理できる。

 そして……予想したとおりなのか、それとも不慮であったのか……部隊は何の抵抗力も持たない村落を急襲し、虐殺を始めた。オオカワは、その現場にいた。そして彼は逃げた。

「それで、オオカワさんは軍から命を狙われるようになったンやな? うぅむ……陰謀の上にさらなる大陰謀!!」

「米軍のほうが焦っただろうね。何せ生き証人連れて逃げちゃった。オオカワさんは、軍が行った人体実験部隊のことも虐殺の事も知ってる。逆にこの状況こそFBIのフーバーさんの思う壺だったのかもしれんJO。彼は公にはとても出来ない軍部の秘密をついに手に入れちゃったンだから。彼は白人でも黒人でもない、日本人でアジア人。そりゃあ東南アジア周辺とは種族も民族も風貌も違うけど、欧米人よりは目立たないし、華僑は東南アジア一帯にいたし。それに確か日本からも医療とか報道のNPOは入ってたはずだJO。他の国と違って米軍も日本人は殺しにくいはずだJO。重要な同盟国で日本はアジア唯一の先進国だし」

「でも、それって逆にいうたら、米軍は軍挙げて必死で探した……ってコトやな。そりゃあ過酷やな。敵、敵、敵……周りはほとんど敵、か……」

「でも、レンさんは無事脱出した。ラオスの国連事務所が保護をしたって記録があるJO」

「オオカワ氏と一緒やなかったんやな」

「だJO。でも、オオカワさんは日本国籍じゃないから日本に照会しても分からない。米国がオオカワさんの身元を言うはずがない。何より、形式上脱走兵となっていたオオカワさんは、二度と米国には戻れない」

「会えるとすれば、日本しかない……」

「だJO」

 飛鳥は、哀しそうに湯のみを置いた。

 話は全て分かった。そして、<花待ちお婆ちゃん>の行動の謎も……。

 レンには、いつかきっとオオカワが故郷に帰ると信じた。来日し、彼の故郷を探し当て、そこで待つことにした。たった一枚の写真を頼りに……。


 JOLJUも、淋しそうにリビングから見える東京の空を見上げた。


「きっと日本中、色々探して……ようやくあの場所を見つけたんだと思うJO」

「…………」

 JOLJUはそういうと、自分も残りの番茶をぐっと……次の言葉と一緒に飲みこんだ。

 もう、オオカワさんはこの世にはいない……が、そのことを口に出す事はできなかった。

「よし! じゃあウチらもいくど!! JOLJU!」

「JO? 昼ご飯?」

「なんでやねん、今朝ご飯食べたばっかやないか。レン婆ちゃんのところや! せめてレン婆ちゃんを慰めてあげようやないか!」

 ニカっと飛鳥は笑う。飛鳥は心からレンを励まし、楽しくさせたいと思っている。大雑把なようで、こういう明るい思いやりができるところが飛鳥のいいところだ。飛鳥はJOLJUが答えるより早く、さっさと食器を片付けると上着を取るため二階の自室に向かっていった。









 今日も、桜は綺麗だ。


 後、何度この桜を見ていられるだろう? 


 レンは、今日も黙って桜を見ている。飽くことなく……。


 いいや、飽くことなんかないではないか。こうして桜を見ている時間は、オオカワとの楽しい時間の再演だ。桜を見ているときだけ、レンは大昔の少女の頃に戻り、オオカワと対話していられる。


 だが、もう時間はない……あの、不思議な少女は言った。

 きっと、今日も来るのではないだろうか……あの少女は……。

 きっと来る。そして、あの子はきっと、私の望みを叶えてくれる。

 ふと……周囲から人の雑踏や気配が消えた。

 レンは気付いた。

「おはよー、レン。来たわよ」

 いつの間に来たのか……すぐ目の前に、サクラが現れていた。

 レンは優しい微笑みを浮かべた。

「ここに来るのに、随分時間がかかったわ」

 そういうと、レンはいつも握っている、色褪せ古びた一枚の写真を取り出した。

「戦争が終わって……私は自由になって……この一枚の写真を頼りに」

「長かったでしょ?」

「きっとあの人は生き残って、この桜を見ている。そんな気がしていたの。理由なんかない。ただ、この桜の下であの人に会いたい。私の願いはされだけだった。でも、私には、もうそんな時間もないのでしょう?」

「…………」

「それに、きっと……もう、あの人は……」

「オオカワさん、見つけたよ」

「え?」

 サクラは、頭上の桜を見つめた。チラリチラリと、花びらが舞っている。

「良かったね。ちゃんと、彼は約束を守ったわ」

 サクラの顔から笑みが消え、哀しそうな顔だけが残った。

「会わせてあげてもいい。でも、その代わりに貴方は大切なモノを失う。それでもいい?」

「…………」

「それでも、いい?」

 サクラは目線をレンに戻した。哀しみと鋭さの入り混じった瞳だ。

 レンは、いつものように笑みを浮かべ、頷いた。


 儀式は終わった。


 ならば……いい。彼女の覚悟が本気なら、それでいいだろう。それが彼女(人間)の選んだの道だ。ならば、それに応じて奇跡を見せる。それが<黒い天使>であるサクラの務めだ。


「じゃあ、よく見ていて。奇跡を、見せてあげる」

 ぶわっ……とサクラが優雅に両手を広げたと同時に、サクラの背から、半透明の黒く巨大な翼が出現した。

 翼は、一見鳥の翼のようだ。だが、羽毛などはなく、半透明で黒い光が密集したような質感がある。所々、紅い光の燐分のようなものが翼の周りで光っている。

 不思議な光景だ。黒い翼を生やした少女……恐怖は感じないが、何か正体の掴めない圧倒的な力を感じる。

 翼はさらに大きく広がり、サクラの体より大きくなった。そして、いつのまにかレンを包み込んだ。恐怖はない。それどころか、この黒い翼に包まれていると、安らぎと幸福感に包まれるようだ。

 短いのに長い時間……悠久の刻が流れる……。


「やっぱり、貴方は天使ちゃんだったのね」

「…………」

 サクラは微笑した。

 そして、サクラはゆっくり空に舞うと、少し離れた場所に着地した。

 翼が消えた。

「目を開けて、レン。再会の時間よ。ホラ、立って。彼が待ってるよ?」

「彼って……」


 サクラは微笑みながら、彼女の視界から退いた。


 その時……レンは見た。これまでサクラがいて見えなかった公園の先に、一人の男が立っている事を。


 レンが目を見開き、思わず立ち上がる。


 確かに男が立っている。その男こそ、ずっと捜していた男ではないか。黒のズボンと白いシャツ……初めて見る格好だが間違いない。


「オオカワ……まさか……」

「言ったでしょ? あたしは<黒い天使>、奇跡を起こす少女よ」

「まさか……そんなこと信じられない!」

 男のほうも、レンたちに気付いた。間違いない、オオカワだ。彼はレンを見つけると、以前と変わらぬ様子で笑みを浮かべ、手を振っている。

「まさか! でもどうして……どうして、あの人、若いままなの!?」

「何言っているの。貴方だって若いじゃん」

「えっ……」

 レンは思わず自分の髪を掴んだ。長い。そして黒い髪。それに声も老婆のモノと違う。顔や手からは皺が消え、張りがある。足腰もしっかりしている。


 レンは自分の首からかけたカメラのレンズで、自分の姿を見て息を呑んだ。


 若い! 若返っている!! ……18歳の頃の自分ではないか……!!

 奇跡……これは夢!?


「奇跡だけど、現実よ。夢じゃないことだけは保証するわ」

 サクラはちらりとレンを見て、微笑む。

 オオカワは、待っている。彼女が来るのを。

 レンは、感動と興奮と涙で震えながら、ゆっくり一歩歩き出した。

 一歩、一歩……ゆっくりと進んでいたが、四歩まで歩いた時、彼女は溜まらず駆け出すと、彼にむかって大きく手を振り上げ、そして彼の首ったけめがけ飛びついた。

「オオカワっ! 会いたかった!! オオカワッ!!」

「ボクもだよ、レン。大きくなったね」

 二人は抱き合った。強く……それでいて優しく……。

 レンの肩は、ずっと震えている。震えが止まらない。間違いない。この優しい抱擁も、確かな筋肉の感触も、彼の匂いも、現実のものだ! 


 レンは、もう全てを忘れ、泣きじゃくった。あの頃の少女のように……。


「約束だったよね。この公園の桜を一緒に見ようって……」

 レンは何度も激しく頷く。声は、涙のため出てこない。そんなレンを、オオカワは嬉しそうに見つめ、微笑んだ。

「ボクは、君に救われたんだ」

「違うわ。貴方が私を助けてくれたの! オオカワ!」

「その瞳に、掬われたんだよ。ボクは」

 そういうとオオカワはレンの頬を濡らす涙を拭った。

「ボクを<人間>にしてくれたのは、君なんだ」


 オオカワの人生の大半は壮絶な色で彩られていた。両親は日本人移民という事で多くの迫害を受け、貧しく苦しい少年時代を過ごした。その後、苦学の末自分自身の強い正義心に駆られ、差別を省みず特殊部隊SASの訓練も受け、名誉のためFBIにも入った。しかし当時のFBIは白人至上主義で、アジア系の彼に命じられた任務は戦場記者という名のスパイだった。その後の生活は全て戦地で、人には言えないような現場を何度も潜り抜けた……。虐殺を繰り返す部隊と一緒にいることは、ある意味自分も虐殺に手を貸しているのと同義であると知ったが、その頃には心から人間らしさが失われていくのが分かった。


「ボクは君を助けた。でも違う。本当は君が人間性を失いかけていたボクを助けたんだ。ボクは君と接する事で、ボクは君の中に<平和>をくれた。君を守る事が、ボクにとって掛け替えのない平和を守る行為だったんだ。君がいたから、ボクは正気を失わずに済んだ」

「……オオカワ……」

「君と、会えて良かった」

 それは過去の事か、今こうして会えたことか……おそらくその両方だろう。

 レンはさらに何かいおうと顔を上げたが、言葉が出てこない。そんな彼女の唇に、オオカワの唇がそっと重なった。そして、二人はしばらくその感触と感動に酔った……。

「レン。愛しているよ」

 長い人生で……どれだけこの一言が聞きたかったか分からない。

 これ以上の満足と感動は、ないだろう。

 二人は再び、熱っぽい接吻を交わすと、お互いの鼓動が聞こえるほど強く抱き合った。

「…………」


 サクラは、黙って頭上の桜を見ていた。


 別にキスの現場を見て恥ずかしくなるような初心でもないし、興味もない。感動を共有するほど女々しくもない。今は二人の時間を邪魔しないでおこうというくらいにしか思っていない。


 どれくらい経ったか……それはサクラにもわからないが、とにかくしばらくしてから、サクラのところにレンとオオカワは来た。

「二人はもう行く?」サクラはまるでいつもの日常であるように言葉を交わす。

「うん。ありがとう、お嬢ちゃん」

 レンは涙で腫らした目と頬を何度も擦りながら頷いた。

 ウンウン、と満足そうに頷いたサクラ。そのサクラに、オオカワはすっと右手を差し出した。サクラは黙って握手に応じると、オオカワは一言だけ「ありがとう」と言った。

 二人は歩き出した。お互い腕を組みんでいる。もう二度と離れない……そう告げている。

 サクラはそれを見守った。

 一度だけ、レンは振り返り、サクラに会釈した。サクラは「行け」と頷く。

 そして、二人は永遠に一緒にいれる場所に向かい、旅立った。今度の旅は、きっと幸せに満ちているだろう……。





「サクラの奴……どんな魔術を使ったんや??」

 今、起きた光景を当事者以外で見ていたのは飛鳥とJOLJUである。公園にいる他の人間は全く気付いていなかったが、飛鳥たちには一部始終見ていた。


「サクラのフルパワーだJO」JOLJUだけはサクラの奇跡の種を知っている。


 サクラの背中に黒い翼が出現する時……それはサクラ自身が持つ特殊な能力をフルパワーで発揮したときだ。パターンや使う能力は色々あるのでどの能力を使ったか分からないが、少なくとも最高レベルの<非認識化>を周囲にかけていたことは確かだ。でなければ周囲にいる他の人もサクラの怪現象に巻き込まれてしまう。飛鳥も、JOLJUに「ちょっと待つJO。今邪魔しちゃダメだJO」と言われるまでサクラもレンも認識できなかった。

「あいつが幻覚を見せた……ってコトか? それともオカルトか??」

「うーん……奇跡だJO」

「……そんなんで分かるかい」

 とにかくサクラが色々能力を使って解決させた……という事は分かった。それ以上は聞いても訳が分からなくなるだけだから、気にしない事にする。こういう事は、サクラと付き合っていると時々あるので気にしていてもしょうがない。

 飛鳥が意を決しサクラに声をかけると、サクラはいつものサクラだった。

「ようワカランけど、レン婆ちゃん、オオカワさんと会えてよかったな!」

「なんだ見てたのか、お前」

「動画で撮ってれば感動の再会! ってカンジで公開したらヒットしたかもしれへんけど……ま、お前の能力やったらそれも出来へんな」

「今回は、さすがにね。ちょっと特殊な能力使ったし」

 別に飛鳥たちに見られている分には問題はない。これがユージだったら大事だ。何せよほどの理由がないかぎり、サクラの能力フルパワーは使ってはいけないと封印指定を受けているのだ。まぁ今回はJOLJUが暗黙の了承を与えていたようなものだから特にサクラも気にしてはいない。


 その時ふと……飛鳥は桜の木の下で眠るように動かなくなった老婆レンの姿を見つけ、「あっ」と声を漏らした。


 今さっきサクラが起こした奇跡を色々解釈してみると……あの老婆レンは、ただの抜け殻となったのではないか? だとすれば、あれはあれでまずいことになるのではないか?


「ちょっとサクラ。あの婆ちゃん、もしかして……」

 もう生命が……と言おうとしたが、さすがの飛鳥もその言葉を飲み込んだ。

「もう少し、そっとしとこうよ」

「誰かが気付いたら大騒ぎになるやん」

「気付かないよ」

「あっ……」

 ランニングをしているおばさんも、犬の散歩をしているおじいさんも、ベンチに座っている老婆レンに気付く様子なく近くを通り過ぎていく。

 やがて……老婆レンの体がだんだん透き通っていくのを見たとき、飛鳥は全てを理解した。


「彼女はもうこの公園にはいない。だって、彼と会えたんだもの」


「つ……つまり……」


「彼女……もう死んでいるのよ」


 ……つまり、あの老婆レンは、幽霊だったのか……。


 あの世とか、天国や地獄とか、あまり信じていない飛鳥だが、サクラという特別な相棒がいるせいか、幽霊は時々見ることがある。しかし、こんなに存在感と現実感がある幽霊は初めてだ。何せこの公園で遊ぶ多くの人が彼女を認識していたのだから。


「どういう事や!?」

「こういう事だJO」

と、JOLJUは愛用のノートPC<叡智の幼稚園児>を開いて飛鳥に見せる。そこにはJOLJUが入手した国防総省の重要極秘文章を撮影したものが開示してあったが、「読めるかー!!」と喚いた。飛鳥は全く英文が読めない。仕方がないので、サクラとJOLJUは説明することにした。


「彼女はその後ラオスに脱出して、苦難の末国連事務所にたどり着き現地のFBIの関係者と接触する事に成功。それが功を奏したか単に時代の流れだったかは知らないけど、米国国内でのCIAの活動は激減したわ」

「その後、レンさんはベトナムに戻りジャーナリストになって反戦活動をするんだJO」

 つまり彼女はオオカワの仕事を引き継いだ、という事だろう。おそらくFBI関係者が支援をしたに違いない。でなければ無学の少女が戦場記者にはなれない。

「だけど、終戦直後の73年……19歳の時、何者かに銃撃を受けた。頭を撃たれたの」

「…………」

「幸い一命は取り留めたけど、記憶障害が起こりそれまでの記憶を失った。その後、どういうわけか米国政府の援助を受けその後平穏で穏やかな人生を過ごした。そして生涯未婚のまま、15年くらい前にハノイで死んでいるわ」

 結局、彼女の人生は米国政府の掌の上だったという事だろう。

「そんで……これは米国の資料じゃないけど、<花待ちお婆ちゃん>が現れたのも、15年くらい前からみたいだJO」


 彼女は死ぬ事で自由になった。そんな彼女が求めたのが、オオカワとの約束だった。


 飛鳥も、完全に理解した。超大国の思惑に踊り続けた一人のベトナム人の人生と、彼女が抱き続けていた純粋な想いを。彼女が日本に現れたのは純粋で強い想いの力だった。そして、彼女はサクラと出会う事で、奇跡を体験し、想いを遂げた……。


 これは、ちょっとした奇跡の話である。


「で……問題のオオカワさんは?」

「彼のこともペンタゴンの資料にあったわ。彼……レンと別れた後も、生き延びたの。そしてその後、FBIともCIAとも関係のないフリーのカメラマンとして活動していたケド……結局1970年、サイゴンで死んだわ」

「…………」

「容疑者は不明。胸部を撃たれ絶命しているのを現地当局が発見。……サバイバル術に長けていた彼がどうしてそんな油断をしたのか、分かってないけど……あたしは分かる」

「どうしてや?」

「彼は、ベトナムでは珍しい桜の木の下で死んでいた。満開の桜の下でね」

 その桜は二次対戦中、日本軍の誰かが植えたものだったらしい。そのことを知っていた現地民が、桜のところで日本人が死んでいる……という事でちょっとした騒ぎになったらしい。その記録が、ペンタゴンの報告書にあった。


 彼が桜に見惚れて撃たれたのか、撃たれたとき、せめて桜の下で死にたいと思ってそこにいったのか、それは分からない。ただ、彼にとって桜が特別なものだったことは間違いないだろう。これも哀しい波瀾に満ちた男の生涯の軌跡だ。彼が何を想っていたから、今ではもう分からないし事件の真相ももはや明かされる事はない、歴史となった。


「ま……そういう事。でもいいじゃん、終わった事サ」

「そうやな」

 もう追求するような時代ではない。だが、結果として二人の想いは叶えられた。

 それで、いいじゃないか。

 サクラと飛鳥は、同時に苦笑した。モヤモヤした後味の悪さはあるが、それでも二人が最後に幸せになったのならば、他人が何か言うべきではない。

「行くか」サクラは明るい声で言った。もう、用は済んだ。

「そやな」飛鳥も同意した。

 サクラは朝ご飯を食べていない。おなかはペコペコだ。だが、昼ご飯が寿司食べ放題と聞いて、サクラは朝ご飯を食べず空腹のまま昼のお寿司に挑む事にした。そのほうが一杯美味しいものを食べられるではないか。

「家に帰ってもやることないし、昼まで公園ブラブラするか」

「池で小物釣りでもするかだJO? オイラ道具もってるし」

 JOLJUの数多くある趣味のうち、本格的に好きなのは釣りである。道具はいつも持ち歩いているから、コンビニでうどんなりパンなり買えば小魚釣りくらいできるだろう。普段は釣りをしないサクラと飛鳥だが、珍しくその案に乗っかった。桜は綺麗だ。桜を見ながらのんびり釣りをするのも悪くないかもしれない。

「ところでお寿司って、勿論回転寿司じゃないよね?」

「回転寿司やで」

「なんでだー!! たまにはカウンターの美味い寿司食わせろ!」

「なんでだJO!! お寿司といえば回転寿司が一番楽しいんだJO!!」

「お前の貧相な舌と一緒にするな!」

「ていうか、サクラよ。お前そもそも高い寿司屋なんかいった事あるんかい」

「ある! 二度だけ!! ユージが連れてってくれた! NYだけど」

「なんじゃい、日本じゃないんかい。お前も回転寿司で十分だ馬鹿たれ」

「……は! それはそうと……昨日の桜餅、食べたの飛鳥だろ!」

「ウチやけど? そやから言うたヤン。桜餅くらい奢ってやるって」

「奢ってないだろ!! 今日奢れ!!」

「ええけど、茶店が開くのは10時からやな。それまで我慢せい」

「それまでまったり釣りだJO~」


 そうして、三人はワイワイと言いながらその場を去っていった。


 老婆が消えた後のベンチの上には、古びた写真と古く動かなくなったカメラが残されていた。その後、それらがどうなったかは、サクラたちの知るところではなかった……。



 そしてこの年以降、<花待ちお婆ちゃん>が公園に姿を現す事はなくなった。





「黒い天使」短編 『桜並木』でした。


元々「黒い天使」のシリーズは、数多くの短編で構成されているシリーズです。

ハードボイルドだったり、ヒューマンドラマだったり、ホラー系だったり、サスペンスだったり、アクションだったり、コメディーだったりします。


すでにこちらでハードボイルド系の大長編『死神島』を公開させていただいていますが、そういえばシリーズ根幹である短編はまだであることに気付きました。ということで、今回「黒い天使」短編 『桜並木』を公開してみようと思いました。

こちらはもう10年以上前に、FLASHのショートムービーとして、HPで公開している作品のノベライズになります。ショートムービーは10作くらい作っていますが、昔アンケートをとったとき、一番評判がよかった作品でした。サクラとJOLJUの他、飛鳥も出てるし、ちょこっとですがユージや飛鳥の祖父風禅氏も出てくるし、サクラたちドタバタコメディーもあるので、初めての方でもサクラたちのことを知ってもらうのにちょうどいい作品だと思います。


サクラとJOLJUは、また世界中を飛び回り、様々な事件に関わっていくと思います。飛鳥やユージは関わったり関わらなかったり色々ですね。飛鳥とユージは長編だとほぼ確実に登場しますが……。

今後も時々短編を公開していこうと思いますので、これからもよろしくお願いします。

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