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或る画家の遺言。 追憶

作者: 葉未



全てが変わってしまったあの日から、もう何年も経った。


あの日から……世界が私から掛け替えのない、唯一の光であった親友を奪ったあの日から、私の視界は当然の如く闇に覆われ、生来捻くれたこの性格が、尚のこと救いようのないものになった。

しかし、堕落しているかと言われればそうでもない。

私は、日々を大変丁寧に生きているといえるだろう。

何故なら、どう動けばこの世を、目の前のこの人を、今よりももっと悪しきものにできるだろうかと考えながら生きているからだ。

意識して取り組むと、存外、人は簡単に揺れるものらしい。

…いいや。他人など、どうでもいい。

少なくとも今日は。








既に日が暮れかけていた。

門前のベルを押すと、使用人がやってきて広い家の中へと案内してくれる。

日本で一二を争う大企業の創立者筋である新田家の別宅は、まるで小説の中にしか出てこないような、相変わらず冗談めいた広さをしていた。

学生時代に度々訪れたセカンドハウスですら広々とした豪勢な家だったが、この別宅と比べてしまえば話にならない。更に、本家に比べてしまえばもっと話にならない。

使用人に連れられて奥へ行くと、上品な年配のご婦人が出迎える。

私の親友の母君だ。

昔から随分世話になっている。


「弘くん、お久し振りねえ」

「お久し振りです、おばさん。お元気そうで何よりです」

「ありがとう。あなたもね。…ええ、まあ。しかし本当に、会う度会う度に、あなたは立派になっていますね。先日も、芸術誌の特集を拝見しましたよ」

「あの手のものは大袈裟なんですよ。お陰で、私は表を歩くのが嫌いになってしまいました。元々インドア派ですけど。私が本当に画家として認められるのは、どうせ死んだ後、少なくとも数年経つのを待たないといけません。みんな好き勝手言ってますよ。誰も俺のことなんて、ちゃんと見ていない。けれど、大体、そんなもんでしょう?」


冗談めいて肩を竦めると、おばさんは小さく笑った。

私も微笑み、持ってきた紙袋を差し出す。


「お土産です。いつも同じもので申し訳ないのですが」

「ありがとう。主人が好きなのよ、このお酒。海外のものはなかなかどれがいいのか分からないけど、弘くんが持ってきてくれるものはいつも美味しいから」

「それはよかった。…それから、これは由生に」


そう言って、手荷物として持っていた小箱を差し出す。

…が、渡しはしない。


「彼に会わせていただいても?」

「勿論よ。あの子も弘くんのことを、待っているでしょうから。…さ、どうぞ」


おばさんは使用人を下がらせ、ゆっくり屋敷の奥へ行く。

…一度や二度目ではない。

私はもうその場所を知っている。

今は不在の、おじさんの第二書斎だ。

そこに、一枚の絵画が掛かっている。


――私は、“彼”に会いに来たのだ。







【Retrospect】――追憶――








書斎に入ると、磨き抜かれた木目のテーブル上にコーヒーとウイスキーのセットと、いくつかの肴が置いてあった。

常々心配りには感謝している。


「…由生。弘くんが遊びに来ましたよ」


おばさんは書斎へ入って真正面に掛かっている絵画へ、柔らかく声をかけた。

ここが書斎である以上、扉の正面は当然デスクだ。

セットになっている椅子は窓側を背にしており、その窓というのは左右二つに仕切られ、それぞれ大きい。

そして、その左右の窓の中間に細長い柱のようにして壁があり、そこに、私が十五年程前に描いた絵画が掛かっていた。


――新田由生。


それが、絵のモデルであり、今は亡き私の親友の名前だ。

世の中でたった一人、大切な人と言える大切な人だった。

こうして一目見て容貌を思い出すだけで、目頭が熱くなる。


「…それじゃあ、弘くん。今晩はゆっくりしてね。何か必要なものがあったら呼んでくれればすぐに揃えますから。明日になったら、私たちにも付き合ってちょうだいね。一緒に食事をしましょう」

「ええ。勿論です。ありがとうございます」

「…こうして、由生を今も忘れずに哀しんでくれるのは、あなただけよ。…どうせこうなるのなら、あれは駄目これは駄目なんて言わずに、やりたかったことをやらせれば…良かったのよね……」


礼を告げると、哀しげに、且つ嬉しそうに微笑んでから彼女は書斎を出て行った。

…独り残されて、胸元のタイを緩め、ドアの鍵を内側からかける。

窓の鍵もかかっていることを確認してからカーテンを閉め、小さく息を吐いた。

腕時計を見下ろせば、真夜中までにはまだ時間がある。

廊下にあった時計が深夜を告げるまで、もう少し待っていないといけない。

私はソファに座り、背伸びをした。








そこから三時間四時間、軽く用意されたアルコールを飲み、適当に携帯を弄っていたり、スケッチブックに走り描きをしていたりした。

新田家は広い。

住宅の拠点を、地方の避暑地にあった別宅に移してからは本当に広かった。

静かで清廉としており、小規模の美術館を連想させる。

私のいる書斎周辺からすっかり人気が無くなった頃、廊下にある大きな時計が十二時を告げる音を響かせた。

来る途中に買ってきた雑誌を適当に眺めていた私は、それとグラスをテーブルの上に置き、横に放り捨ててあった時分の鞄の口を開け、携帯の電源を切ってその中へ押し込んだ。


「…さて、と」


立ち上がって、扉の鍵を今一度チェックする。

窓も鍵が掛かっているのを再度確認してから、改めてカーテンを閉めた。

これでこの部屋は、出入りができない。

完全密室。

…つまり、世界から区切られた場所というわけだ。

私以外に誰も証人がおらず、客観が一切無いのなら、少なくともこの部屋は、今だったら魔法だろうと幻想だろうと、何だって私の好きなように創造できる。

ここは小さいながらも、私の庭であり、私の世界だ。

世界を創るなんてことは、客観が無ければ本当はとても容易いということを、私はここ数年ですっかり学んでいた。

ファンタジックで子供めいたな表現をするならば、私は、現代に生きる“魔法使い”の一人であるかもしれないということを、自惚れにならない程度に謙虚に、卑屈にならない程度に自信を持って、断言できる。

使えるようになって分かったが、魔法っぽいものなんて、欲に塗れてなんぼのものだ。

きらきらした単語は、結局皆、その実汚れている。

私にはもう、この世の美しいものに出会えなくなってしまった。

それもこれも、全て由生がいなくなってしまったからだ。

…でも、今日は違う。

彼が世界から追い出された。

納得できる別れとは言い難い。

そもそも、彼に病など与えたのがいけない。

一方的に奪われた、私の最愛の友人。

神なんて信じないし運命なんて詩的な単語、創ったこと自体馬鹿馬鹿しいと思うけれど、それでも対象が己ではなく、人間の思うようにならないことを指し示す場合において、何かしらの名前が必要だったのだろう。

それが表現を支える単語として必要なことは認めるが、崇めるなんて心底愚かしい。

そして神だろうが運命だろうが知らないが、親友を奪ったそんなものの名前など一つで十分だ。“敵”だ。

如何に追い出されたとしても、私は彼を連れ戻す。


「…一年ぶりだ。毎年、今日だけが楽しみで、生きているんだよ」


立派なデスクを挟んで立ち、嘗て自分が描いた絵画に向けて、ゆるく両手を広げる。

特に、これといった特別なことは起こらない。

特別な音もしなければ、特別な風も起きない。

それでも――。


「さあ、起きて、由生。…ほら。面白い本を持ってきてあげたよ。たぶん好きだと思うんだ」


絵画に向かって真剣に話しかける自分は、心から狂っていると分かっている。

けれど、仕方が無い。

私の言葉に引きずり出されるようにして、絵画から綿毛のような軽さで親友が現れてくれるのだから。


狂うくらい、容易いものだ。














由生が起きてからは、突然私の中の時計は早回る。

待っても待っても鈍い日々の秒針と違い、一秒一秒が瞬く間に過ぎ去る。

閉め切っているはずのこの部屋に星光が差し、春風が吹き、私の人生に刹那の輝きが戻るのだ。


「ほら。どうかな。結構いい感じじゃない?」

「外国の絵本かー。可愛いけど、でも僕英語読めないよ」


ソファに揃って腰掛け、彼の膝の上に広げられている古びた絵本を、横から覗き込んでみる。

勝手に戸棚を拝借してテーブルの上に置いた二人分のカップから、紅茶が主張するように香りを立てており、一緒に置かれていた瓶の蓋を開け、角砂糖二つを隣のカップに入れてやった。

一通り絵本の絵を見終わったらしい由生が、真っ直ぐに隣に座る私を見上げて絵本を差し出した。

…特に違和感なく、すっかり成年した私を見上げる。

彼の真っ直ぐな視線に射抜かれることで、私が私としてここに存在していることが、はっきりと自覚できた。

いつもふわふわと頼りない私の存在意義が、しっかりとここにある。


「ヒロ読んでよ。訳して。英語得意だったよね。一度読んでくれれば、内容覚えるからさ。今、辞書持ってきてあげる」

「ああ、いいよいいよ。これくらい、たぶん読めるから」

「うわー。嫌味ー!」

「英語くらいが取り柄なんだよ。知ってるだろ?」


くすくす笑う由生に私も小さく笑って、絵本を受け取ると膝に広げる。

横からずいと身を乗り出し、由生が絵柄を覗き込んだ。

そうして、幼い動作でびしりと絵本の一角を指差す。


「見てこれ。これ、可愛いくない?」

「…? 何?」

「テントウ虫」

「…」


言われて改めて由生の指先を見ると、なるほど、何てことのない見開き絵本の片隅の草の上に、テントウ虫が描かれていた。

言われなければ気付かない場所だ。

日本へ戻る飛行機の中で何度か暇潰しに見直したけれど、私は一度としてそこに描かれている小さな虫に気付けなかった。

呆気に取られて私は数秒固まった後、小さく自然に笑うことができた。


「ちっちぇー。こういうの探すのが絵本って面白いよね」

「…。そうかもね」

「もっと他にいないかな」


胸が熱くなる。

その一言で、今手にしている絵本は、瞬く間にきらきらとした夢に溢れた絵本になる。

自分が優しい気持ちになれるのが分かった。

こんな気持ちと比べれば、ここから一歩外に出てからのいつもの自分の、何と醜いことだろう。

…けれど私のこの優しい気持ちを、彼以外に捧げるつもりなんて露ほども無いのだ。

何故かと問われるだけでも腹が立つ。

先に俺から彼を奪ったのは、そっちだ。


「…」


愛しさが増して、無意識に腕を伸ばし、すぐ眼下にある髪を撫でてみた。

病院暮らしの長かった彼の髪は細く弱く、指先はするりと逃げるように通る。

不思議そうな顔で由生が私を見上げる。


「何? 何か付いてた?」

「ゴミがね」

「おおう。ありがとー」


…こうして触れるのに、君はもうこの世には居ないらしい。

何が現実で何が幻想なのか。

境界なんて、所詮曖昧なのであれば、私はもうこのまま由生のいる方へ行きたい。

絵画の中に入れたらどんなに素敵だろう。

けど、私のような明度の低い者が、由生の世界に入れるはずもない。


「…見にくいだろう。もっとこっちへおいで」

「でも、あんまり近いと暑くない?」

「そうでもないよ。クーラー利いてるし」

「でもさ、ヒロ上着脱げば?」

「夏用だから大丈夫」

「見てる方が暑苦しいってば。ていうか、何で上着なんか…着、て……」

「…」

「――」


ふ…と、由生が何かに気付いて俺を見上げる。

その瞳が揺れた気がした。

一瞬を置いて、さっと彼の顔色が青く変わる。

ガタ…!とソファを立ち上がると、私の顔を見たまま数歩後退した。

張り付いたような笑みを携えたまま、それを見送る。

…そうか。上着か。

脱いでおけばよかった。

後悔してももう遅い。

私の魔法は脆すぎて、ちょっとしたことでこうして崩壊する。


「…お、お前…!誰だ!?」

「…」

「な、なに!誰…!? 何で僕んちにいるの…!?」

「…誰だろうね」

「…!」


すっとソファから立ち上がると、目に見えて由生がびくりと震えた。

人見知りでここぞというときに主張できない彼が、“誰か!”と咄嗟の悲鳴をあげられないことを、私は経験上でよく知っていた。

所詮は私の絵だ。

完全にオリジナルを模写できている訳がない。

それでも、私の追憶を邪魔するのならば、今目の前にいる由生だって許せはしない。

彼には大人しく、私の追憶に付き合ってもらわなければ困る。

オリジナルでない以上、彼には俺の言い付けを守ってもらう。

硬直している由生から視線を移し、懐から取りだした革の手帳の無地のページを開くと、ボールペンを取りだして、ざっくりと棒人間を描く。

そこで、じりじりと距離を取っていた由生が、扉の方へ走り出した。


「…っ」

「おっと…」


手帳に描いた棒人間の足首あたりを、手早く黒で塗り潰す。


「うわ…っ!?」


ビターン!!と酷い音がして、由生が床に勢いよくキスをする。

思わず、小さく笑ってしまった。


「すごい音だな」

「…ったあ」

「足枷付けたから、動かない方がいいよ。捻るから」

「な…」


がばっと両手を床について顔を上げた由生が自分の足下を見る。

左右の足首にしっかりと、黒いぐちゃぐちゃとした、何だかよく分からない足枷が付いていた。

手帳をしまうと、訳が分からないという顔をしている彼の方へ、怖がらせないようゆっくり歩いていく。

床に寝そべったまま、由生は手足を縮めて震えていた。

頭部の傍に屈み込み、指先で軽く由生の赤くなっている額を撫でる。

びく…っと警戒たっぷりで反応する皮膚を、指先でなぞるようにしっとりと撫でた。


「鼻打った? 大丈夫?」

「…」

「ごめんね」

「…、…僕を殺すの?」

「まさか」


笑えない冗談だ。

由生を殺す?

私が?

そんなことは、天地神明に誓ってしない(こういった言い回しの時だけ、神の名は役に立つ)。

全ての表情を知っておきたくて、由生がどこまで私を許してくれるのかを知っておきたくて、多少強引に弄るくらいは数年前にしたことがあるが、あんなに泣かれるとは思ってなくて、可哀想になってしまったからもうやらないことにした。

結局、私たちには緩やかな時間というやつが似合うのだろう。

…俯せたまま怯えている由生に手をかけ、身体を起こして埃を払ってから抱き上げた。

まるで猫の子のように暴れる由生を軽く押さえ、ソファに座って彼の両手首押さえたまま片膝に横に座らせ、片手で絵本を膝に広げ直す。


「さあ、本を読もうよ。英語は読んであげるからさ。本好きだろう?」

「…。僕に危害は加えない…?」

「加えないよ。楽しい夜を過ごしたいんだ。由生だって退屈だっただろ?」

「…」

「今夜、君の怖いことは何もしないよ。本当に。ただ、私と一緒にいてほしいんだ」

「…おにーさん、何処の誰?」

「…」


危険が薄いと分かったのか、訝しげに見るものの警戒を多少は解いて由生が私に尋ねる。

それには、自信を持って答えた。


「君の知らない人だよ」


嘘ではない。

私は由生をよく知っているけど、由生は“私”なんかもう永遠に知りはしないのだ。

それが哀しくて、そして嬉しい。

彼は永遠だ。

誰にも侵略などさせるものか。












ああ…。

今までも、これからも。

私は君だけを心から愛して、それと同じ分だけ、この世を呪っていくだろう――。




END

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