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二章・1

 ――その日、楓は久しぶりに制服のシャツのボタンを一番上まで留めた。


 居心地が悪いくらいに広い自動車の後部座席で、楓は最後まで入念に服装の確認をしていた。

 すると、隣に座っていた男が一言「遅い」と吐き捨てる。


「留めるボタンの数がひとつやふたつ多いだけで何故そこまで手間取るのか、俺にはさっぱり理解できないな。制服くらい、普段から乱れなく着られるようにしておけ」


 男の方はといえば、当たり前のような顔で漆黒のスーツ――喪服を着用している。


「……すみません」


 何も言い返せず、楓は大人しく謝るしかない。


「そろそろ行くぞ」


 乗っていた車の後部座席のドアが、自動的に開かれる。運転手に一礼し、楓は男の後に続いて外に出た。

 広い駐車場には何台もの車が止まり、隣にいる男と同じように喪服を着た人々が何十人も、何百人も集まっていた。その向こうには、学校の体育館よりもはるかに広く、けれど地に這うように低く作られた建物が見える。


「随分と大きい斎場なんですね」

「金持ちのぼんぼんだからな、こんなもんだろう」

「口を慎んでください。遺族の方に失礼だとは思わないんですか」

「ここにいる誰もが同じことを思ってるだろうさ。口に出して何が悪い」


 男はふん、と鼻を鳴らす。品のない仕草だと楓は思うが、その男がやると妙に様になる。腹立たしいことこの上ない。


「まったく、こんな日に石塚はどこに行ったんだ。余計な仕事は増やすし、連絡は未だにつかないときた。おかげで俺は、コブ付きで葬式に来る羽目になったぞ」


 石塚と言うのは、男の部下の名前だった。本来ならば彼をこの葬儀に参列させる予定だったらしいのだが、何故か連絡がつかないのだという。

 おかげで楓は、男の苛立ちを発散させる対象として、無理矢理葬儀に連れて来られた。

 機嫌の悪さが治まる気配はなく、彼はなおも耳障りな言葉を連ねる。楓はたまらず口を開いた。


「……少しは立場を考えてください」

「はっ、立場だと? お前、いつからそんな偉そうなことを俺に言える立場になったんだ」


 男は、楓の言うことなど相手にしようともしなかった。


「俺は俺だ。そんなこと、さっきからじろじろこっちを見ている野次馬共も、充分に承知しているだろうさ」


 むしろ、楓の言葉は、男の傲慢という炎に油を注いでいるだけのようだ。


(……やっぱり、出るんじゃなかった)


 楓は昨日に引き続き、そう思う。

 男の言葉どおり、気付けば駐車場やエントランスで立ち話をしていた人々の視線は、今や楓と男に集中していた。

 一瞬の静寂の後、人々はまた、さざめくように話し始める。


 ――ねぇ……あの方、もしかして……。

 ――まさか、ご本人が直接いらしたの……?


 音としてしか捉えられないような人々の話し声の中、わずかに楓の耳に届く声がある。

 それがあまりにも予想どおりの内容であるものだから、楓はますます、隣の男の態度を呪った。


(……本当に、出るんじゃなかった)


 三度目の言葉も、胸の内に空しく落ちていくだけだ。


「これはこれは、遠野先生ではありませんか」


 そんな中、一人の人物が楓と男の方に近付いてきた。

 楓は一瞬だけ視線をそちらに向けた。

歩いてきたのは、中肉中背、少し禿げた中年の男だ。気付かれぬように声の主を確認して、楓は視線をわずかに落とす。

 一方、『遠野先生』と呼ばれた隣の男はと言えば、楓にしか聞こえないように小さく舌打ちをして、それから一瞬にしてにこやかな笑顔を浮かべた。


「ああ、佐々岡さん、ご無沙汰しています。先日も随分とお世話になってしまったのに、直接挨拶に窺えず、申し訳ありませんでした」


 それは、先ほどまでの不機嫌そうな顔が嘘のような変わり様だった。


「いえ、とんでもない。遠野先生は多忙を極める方ですし、お役に立てただけで光栄ですよ」


 佐々岡、と呼ばれた中年の男の方は、『遠野先生』の慇懃な態度に恐縮している。


(相変わらず、見事な早変わりだな)


 そんな二人のやりとりをなるべく視界に入れないよう、楓は俯いたまま嫌悪の表情を浮かべた。

 下を向いていれば、どんな顔をしていても気付かれにくい。周囲の人間の視線は皆、隣の『遠野先生』に集まっているとなれば、尚更だ。


「……ところで、そちらはご子息ですかな」


 挨拶が一段落したのか、佐々岡と男の話題が楓に移る。


「ええ、不肖の息子ではありますが。……楓、こちらは佐々岡製薬の専務、佐々岡寛治さんだ。失礼のないように」


 予想していた展開だったため、すでに対応は考えてある。

 楓は慌てることなく表情を消した。顔を上げると、


「遠野、楓です。このような場は不慣れですので、父の後ろで学ばせていただくことになると思います。未熟者ですが、よろしくご指導ください」


 慇懃に、けれど笑顔を作ることはなく。楓は佐々岡に軽く礼をする。

 たったそれだけで、楓からは妙な威圧感が滲み出ていた。

 一瞬、佐々岡はその雰囲気に呑まれたようだった。


「息子ももう十八なので、少しはこういった場にも慣れさせておこうと思いまして」


 親しみに溢れる声に、佐々岡は平静を取り戻す。


「あ、ああ……そうでしたか。楓くん、お父上をよく見ておくといい。きっといい勉強になるよ。何せ、お父上は――」

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