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番外・桜の花咲く頃に

 見上げるほど大きな鳥居の前に立ち、楓は幾度目かもわからないため息をついた。


 平安神宮。かつて栄華を誇った都を御社殿として再現し、京都の衰退と復興を表す象徴となったその場所には、今日も多くの参拝者が訪れている。

 応天門を抜けてまっすぐに歩いていけば、薄紅色の花を満開に咲かせているのは、外拝殿の脇に植えられた左近桜。

 名勝と謳われる南神苑の紅しだれ桜も、晴れ渡った空を覆わんばかりに咲き乱れているという。

 京都で花見をするのであれば、今がいちばん良い時期だろう。事実、楓の周囲では頻繁にデジタルカメラのシャッター音が鳴り響き、記念撮影にとポーズを取る人々の顔には、溢れんばかりの笑顔が浮かんでいる。


(……その幸せを、少しでいいから分けてほしい)


 楓はおもむろに腕を組むと、鳥居へ身を預けるようにして再びため息をつく。

 無作法だとはわかっている。けれど、今日くらいは許してほしい、などと我儘で自分勝手な気持ちを胸に浮かべて。

 ふと腕時計に目を落とせば――そろそろ、約束の時間だった。


 楓は大きく息を吐くと、ぐるりと周囲に視線を巡らせる。

 頻繁に行き交う人の波、停車してはまた走り去るタクシーの行列に、ゆったりと市内を循環していくバス。

 果たして――待ち人を連れてきたのは、1台の高級車だった。

 黒塗りの、いかにも『彼』が好みそうな雰囲気は、人でごった返す中であってもどこか異彩を放つ。

 やがて車のドアがゆっくりと開くと、下りてきたのは1人の女性だ。

 ささやかにレースをあしらった清楚なデザインのワンピースと、パステルカラーのバレエシューズ。羽織ったスプリングコートはオフホワイトで、肩口からさらりと艶やかな黒髪が滑り落ちる。

 顔に掛かった髪をそっと指先で払うと、その女性は誰かを探すようにきょろきょろと左右を見回して――。


「……楓ちゃん!」


 やがて、楓の姿を見つけて微笑むその顔は、一年前に別れたときよりもずっと大人びて、美しくなっていた。


「久しぶり、姉さん」


 その言葉は、楓が思っていたよりもずっと自然なものとして、口から出てきてくれる。


* * *


「ここの桜はとても綺麗だと、昔、聞いたことがあるの。だから、どうしても一度来てみたくて」


 平安神宮の大鳥居前を待ち合わせに指定したのは、他でもない小春だ。

 楓の隣、つかず離れずの距離を保つように歩きながら、小春はそう話してくれた。


「ここまでは、どうやって?」

「新幹線と、電車を乗り継いで。ふふ、実はどっちも初めての体験なの。すごいでしょう?」


 どこか誇るように胸を張り、小春ははにかむような笑みを零した。

 ただそれだけのことが、楓の目にはひどく可憐に映る。しかし、そこにもう、あの頃のような儚い面影は見えない。


「それで、最寄駅からは……父さんの手配した車、かな?」

「ええ。さすが、楓ちゃんはなんでもお見通しね」

「そりゃあ、あんな車で来られたら、嫌でもわかるよ……」


 いかにも高級車然とした黒塗りの乗用車など、あからさまに崇志の好みではないか。

 父親の、そういう権威主義というか、立場と見た目を強く印象付けるような振る舞いが、楓はあまり好きではない。

 とはいえ、それらのパフォーマンスは、父親の職務と立場において確実にプラスの方向に働いているようだ。適材適所とは、まさにこういうことなのかもしれない。


「楓ちゃん、たまにはきちんとお父さんに連絡をとらなくては駄目よ。わたしのところに遊びに来るたびに、お父さんが寂しそうにしているんだから」

「……メールなら、ときどき送ってるよ」

「でも、必要最低限のことしか書いていないでしょう? しかも、四季宮を解体するお仕事の話ばかり。お父さんは、もっと楓ちゃんの大学生活のことについて聞きたいんだと思うわ。……それに、わたしも」


 やがて二人が拝殿へ足を踏み入れる頃、小春はふと足を止め、横にいる楓の顔を覗き込むように身を屈めた。


「手紙……もう少し、返してくれてもいいと思うんだけれど、な」


 ざあっと強い風が吹いて、恥じらうように楓を見つめた小春の後ろ、左近の桜がはらはらと薄紅色の花弁を散らす。

 空へ舞い上がった花びらのひとひらが、ゆらゆらと小春の元へ落ちてきて。


「姉さん、ちょっとそのまま、動かないで。……ほら、桜の花びらだ」


 楓はそっと手を伸ばすと、小春の黒髪に落ちた花弁を指で摘まんだ。


「……もう。楓ちゃんったら、そうやってごまかして」


 桜の花びらに乗じて返事を渋ったことを、小春は瞬く間に見抜いてしまう。

 拗ねるように唇を尖らせたその表情はとても綺麗で、楓はどこか苦い笑みを浮かべるしかない。


 一年。あの歪んだ日々を忘れるには、まだあまりにも歳月が足りなかった。

 大学生活と四季宮の解体に追われ、日々は忙しなく過ぎていく。そうしてやらなければいけないことを抱え込めば抱え込むほど、楓には色々なことが忘れられるような気がしていた。

 けれど、それはただ逃げているだけなのだとも、気付いていた。

 季節が移ろうたびに小春から届く便りが、留守電に入った父親の声が、楓の心を揺さぶる。向き合わなければいけない問題はここにこそ在るのだ、と訴えかけるように。

 手紙を返さないのは、崇志へ電話を掛けないのは――楓のそうした気持ちを慮ってのことか、竜哉はなにも言わない。彼の優しさに守られているような一年だった、と楓は改めてそう思い返す。


 けれど、今日、竜哉はいない。

 なんでも、芳史の隠し事の件について、崇志から東京まで呼び出されたらしい。


「……竜哉にしては珍しく、顔を青くして出かけて行ったけど。なにか知ってる、姉さん?」


 ふと気になってそう尋ねてみると、小春はくすくすと鈴の音のような笑みを漏らした。


「ええ、すぐにわかるわ。そもそも、楓ちゃんがきちんとお父さんに電話していれば、教えてもらえたと思うわよ」


 ――と、小春は不意に楓の腕を掴んで。


「それよりも、あの桜を背景にして、一緒に写真を撮りましょう。ね、いいでしょう、楓ちゃん」

「カメラは……ああ、スマートフォンがあるんだね。じゃあ、誰かに頼んでみようか」


 咲き誇る桜を背景に、二人は並んで写真に収まる。

 お父さんに送るの、と小春が嬉しそうに話す姿を見て、楓は気恥ずかしさに頬を赤らめた。


* * *


 散策は続く。

 南神苑にひとたび足を踏み入れれば、楓と小春は無数のしだれ桜の作り出した天幕にしばし言葉を忘れ、ただ見惚れて。

 流れる小川のせせらぎに耳を澄ませ、鬱蒼とした緑の小路を抜ける間、二人はその庭園の見事さに言葉を尽くした。

 生まれ育った屋敷にも、よく手入れされた庭があった。

 亡き母の愛したその場所は、姉弟にとって大切な思い出の眠る地でもある。


「春は桜、初夏の杜若に花菖蒲、秋は紅葉、冬は雪景色。きっと、どの季節に訪れても、良い眺めよ。……お母さんにも、見せてあげたかった」


 小春がそう呟くのほぼ同時に、視界がふわりと開け、蒼龍池が姿を現した。

 池の中央を貫くかのように点在する飛び石は臥竜橋と呼ばれ、文字どおり『竜の背に乗り、池に映る雲間を舞うような心地を味わう』ためにつくられたものだという。


「ただし、失敗すると池に落ちてしまうかもしれないの。……挑戦してみる、楓ちゃん?」

「あはは……。僕はちょっと、自信がないかな」


 悪戯っぽく問いかける小春に、楓は苦笑を浮かべて頬を掻いた。


「桜のことといい、姉さんはこの神苑のこと、色々とよく知っているね。誰かに教えてもらったのかい?」

「ええ。……夏月が、教えてくれたのよ」


 小春の口から出たその名前に、楓はしばし言葉を失った。

 無理もない、と。小春はそう言うように、どこか困ったような笑みを浮かべる。


「この庭を、お母さんに見せてあげたかった。そう願ったのは、子どもだった頃の夏月。……四季宮の巫女姫になれば滅多なことでは外には出られないし、なにより、お母さんは昔から体が弱かったから。京都に足を運ぶのは、なかなか難しかったのでしょうね」

「そう、だね……」


 どこか懐かしむように夏月のことを話す小春に、楓は戸惑いも露わに相槌を打った。

 楓にとって、夏月は自分を陥れ、父の命を狙い、小春を狂気の道へと誘った元凶だ。彼が楓達の母を愛していたと知ってはいるものの、そう簡単にその行いを赦すことはできない。


「楓ちゃんの気持ちは、とってもよく分かる。でも、わたしにとって、あの人は……共犯者みたいなもの、だから」


 ――共犯者。小春は唇にそっと指を当てて、その単語を口にした。

 途端、楓と小春の間、つかず離れずの距離へ、様々な想いが結実するような。先送りにしていた問題を唐突に眼前へと突き付けられた気がして、楓は思わず眉を寄せた。

 二人のそばを通り過ぎていく参拝客の会話が、どこか遠くから聞こえるかのように感じられる。

 行き交う鳥の鳴き声も、薄膜を隔てたかのように現実味が感じられない。

 まるで、世界にたった二人、姉弟しか存在しないかのような――そんな一瞬を経て。


「楓ちゃん、わたしのことを、きちんと見て」


 伸ばされた小春の手が楓の頬に触れ、強引にその顔を自分の方へと向ける。

 目と目が合う。小春の瞳の中に、楓の顔がある。

 ひどく怯えていることが見て取れる、そんな表情が、小春の澄んだ瞳に映っている――。


「……ごめん、姉さん」


 自分は駄目な弟だ。なにもかも見ない振りをして逃げ回って先送りにして、いざ直面した途端に立ち竦むことしかできない。

 一年前に区切りを付けたと思っていたすべてが、実のところ楓の中ではくすぶったまま、今も苦い痛みを伴って蘇る。


「大丈夫よ、楓ちゃん。だから、わたしのことを見て。……ほら、わかるでしょう?」


 小春は楓の頬へ手を触れたまま、困ったように笑う。

 彼女の言葉が意図することは、すぐにわかった。

 震えているのだ。小春の手のひらも、楓に触れる指先も、言葉を紡ぐ柔らかな唇でさえ。


「わたしも……同じだから」


 そう告げた小春の頬は、ほんのりと朱に染まる。


「でも、だからこそ、こうやって楓ちゃんに会いに来たのよ」

「……ああ、そうだね」


 いつか竜哉に言われたことを、楓はふと思い出す。

 一緒にいなかったことが当たり前だったのだから、これからは一緒にいることを当たり前にすればいい。

 少しずつでもいいから、ゆっくりと。一歩ずつ、ただの姉弟になればいい。

 いくら時間を掛けたところで、咎める人間などいないのだから。


「ごめん、姉さん。なんだか、今日は謝ってばかりだ」


 でも、と。

 楓は自分の頬に触れていた小春の手を優しく取ると、柔らかく握り、池の脇に伸びる小路を歩き始める。


「僕も本当は、姉さんに会うのが楽しみだった。手紙に書いたその言葉だけは、嘘じゃないから」


 だから、今だけは手を繋いで歩こう。

 喪われた年月を補うように、心までも繋ぐように。


 柔らかく握り返してくる小春の手のひらから、温かな体温が伝わってくる。

 それはまるで小さな頃に戻ったかのようなぬくもりで――切なく甘やかな胸の痛みが、どこかへ遠ざかっていく気がした。



――『桜の花咲く頃に』・了

 『僕は、巡る季節の姫君へと捧ぐ』これにて終幕となります。

 お読みいただいたすべての方々に感謝の意を表すると共に、少しだけ作品解説のようなものを付け加えさせていただこうかと思います。


 この作品は、元々、ある少女小説の新人賞に送ったものでした。

 もう10年近くは前でしょうか。まあ一次選考に通ったくらいで特に結果らしい結果も出すことのなかった作品なのですが、個人的な思い入れがとても強く、こうしてささやかに世の中に出しておこうと考えたのが、発表の理由です。

 作品を一言で表すと『姉弟の近親相姦を成立させるために色々なものを薄氷の上に乗せる物語』ですが、近親相姦を隠すこと自体がテーマとなると、作品の説明に困ることこの上ないですね……。

 また、とにかくキャラクターがよく動き、よく嵌ってくれた作品でもありました。

 特に崇志お父さんは、プロットを立ち上げ始めた当初はまったくこんなキャラではなかったのに、気付いたら息子娘ラブで倉庫に車で特攻を仕掛けていて、書きながら「どうしてこうなった……?」と首を捻ったのもいい思い出です。


 しかし、改めて読み返していたところ、あまりに文章の稚拙さが目立ったので、今回『桜の花咲く頃に』と称して番外編を書き下ろして付けてみました。

 文章表現が上手くなっているかどうかは、皆様の判断にお任せします。


 それでは、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 少しでも皆様に楽しんでいただけたのであれば幸いです。

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