終章
前略、楓ちゃんへ。
お元気ですか。
早いもので、楓ちゃんが京都の大学に進学して、そろそろ一年が経とうとしています。
わたしはといえば、日々を穏やかに……と言えば聞こえはいいけど、特に何をするわけでもなく、のんびりと過ごしています。
四姫の頃は、夏月にスケジュールを管理されていたから、こうやってのびのびと過ごすことは本当に久しぶりです。
少しのんびりしすぎている気もするけど、三年分の疲れを癒すには……ううん、お母さんが死んで、自由を失ってからの十二年の歳月を取り戻すために必要な期間としては短すぎるって、おじい様に言われてしまいました。
そんなおじい様は最近、何か隠しごとが発覚してしまったらしく、お父さんに追い掛け回されています。わたしには何のことか教えてもらえないんだけど、いったいどうしたのかしら。
あ、そうそう。先日は有希ちゃんに誘われて、初めてショッピングモールのイルミネーションも見てきたのよ。すごくきれいで、楓ちゃんにも見せてあげたかったわ。
そのとき、鮎川さんの妹さんも一緒に出かけたのだけれど……彼女には、真実は教えていません。教えられるわけがないものね。だからせめて、優しい嘘を真実に変えてしまわなくてはいけないわ。その件は四季宮を挙げて対処すると、長老会からの伝言です。
四季宮といえば、夏月のことだけれど……彼の処分も、長老会に一任してあります。わたしからは、きちんと生きて罪が償えるように、とお願いをしただけです。
多くの人の命を奪った夏月だけれど、ひとときとはいえ、わたしにとっては救いの主でした。彼自身、四季宮という妄執に囚われてしまった被害者でもあります。私はただ、いつか彼が、自分なりの救いの道を見つけられることを願うばかりです。
そしてお正月には、初めて、冬巳お祖母ちゃんのお墓参りに行きました。
河内のお祖父様にもご挨拶させていただいたんだけど、お年玉に、って使いきれないくらいのお金をいただいてしまったの。
丁重に断ろうとしたんだけど、生まれたときから今までの、渡せなかった分だからって押し切られるように受け取ってしまいました。楓ちゃんの分は、そちらの口座に振り込んでおいたので、確認してください。
でも、不思議ね。河内のお祖父様とは四姫のときに何度も会っているはずなのに、とても楽しかったわ。四姫のときは緊張するばかりで、お祖父様のことを怖いとさえ思っていたのにね。
だけど、それはお祖父様も同じだったみたい。わたしたちはきっと、初めて祖父と孫としての時間を過ごせたのだと思います。四季宮という組織ができた頃の話や、冬巳お祖母ちゃんのお話をたくさん聞くことができて、とても有意義な時間でした。楓ちゃんにも、今度聞かせてあげるわね。わたしもまだ、楓ちゃんに話していないことがあるし。
あと、夏休みも年末年始も帰ってきてくれなかったから、お父さんがすごく寂しがっています。今度、少し電話してあげてください。
それと、ええと、うーんと……。
一年経っても、わたしの心はとても混乱しています。
だって、楓ちゃんったら、本当にいなくなってしまうんですもの。
いくら忙しいからって、本当に一度もこっちに帰ってきてくれないし。
お別れしたときは、それでいいと思ってた。
けど……やっぱり、寂しいし。
それに……。
……。
……そう、そうよ。
あれが最後だなんて、最後があれだなんて……卑怯よ、楓ちゃん!
だから、会いに行きます。
わたしはもう、籠の鳥じゃありません。
虚構に囚われる、無力な巫女姫でもないわ。
こんなに弟思いの姉が、離れて暮らす弟のことを心配しないわけがないでしょう?
こんな風に手紙が書けるのも、一年という歳月のおかげだと思います。
人間というのは、これほどに変われるものなのね。
こんな話を聞いて、楓ちゃんは心配しているかもしれないけれど。
……わたしはきっと、大丈夫だから。
桜が咲く頃に、一度、そちらに行こうと思います。
タッくんにもよろしくね。
――小春
* * *
「……なんていうか」
雪雲と共に届いた手紙を読んで、楓は複雑そうな顔を浮かべた。
「どう思う、竜哉」
楓は隣に座る竜哉に、小春からの手紙を渡した。
竜哉は文面に軽く目を通すと、眉間を軽く指で押さえる。
「……おれのことは一言なんですね。っていうか……おれは今、軽く身の危険を感じてますよ……」
「どうして?」
「そのうち分かります」
竜哉が小さくため息をついた。
「……まあ、それはともかく。姉さんのことなんだけど」
と、楓もまた、ため息をつく。
「本当に……姉弟に戻れると思うか?」
「無理でしょう、こんな短期間で」
即答した竜哉に、「僕もそう思う」と楓がうなずいた。
「だけど……姉さんはあのとおり、言い出したら聞かない人だ。誰の反対を押し切ってでもこっちに来ると思う」
そのことを考えると、今から頭が痛い。
しかし、楓のそんな思いとは裏腹に、竜哉はあっさりと、
「ま、別にいいんじゃないですか?」
「なっ……!」
楓は言葉を失った。
(僕がどんな気持ちで姉さんから離れたと思ってるんだ……!)
それなのに竜哉は、まるで楓の苦労が無駄だったかのように、そんなことをさらりと言ってしまうのだ。
「……だって、ねぇ」
竜哉はおもむろに苦笑を浮かべる。
「おれたちがこっちの大学に来て、一年経ちました。それはいいとします。……生活として、何か変わりましたっけ?」
「京都に住んでる」
「他には?」
「他? うーん……」
改めてそう聞かれると、悩んでしまう。
高校が大学になっても、毎日勉強していることには変わりがないし、四季宮の京都支部を解体していることにしても、東京の本部で練った計画を微調整しながら実行しているに過ぎない。
楓は今、竜哉と一緒に生活しているが、それにしたって大きな変化というわけではない。竜哉は元から楓の幼なじみであり、世話役だ。一緒にこそ暮らしていなかったものの、東京にいた頃からほとんどの時間を共に過ごしている。
そして、小春とは――。
「……姉さんとは、ずっと離れて暮らしていた。そして、今も……」
「ね、大して変わらないでしょう」
竜哉が苦笑する。
「おれは思ったんですよ。楓は小春様と一緒にいることをとても神聖視しているけれど、それって姉弟として当たり前のことでしょう? そこからして、既に歪んでるんですよ」
「……確かに、そうかもしれないな」
竜哉の言葉が、楓の胸の奥にすとんと落ちていく。
「だから……その関係を変えたいと思うのなら、当たり前でなくなってしまったことを、もう一度当たり前のことにしてみてもいいんじゃないですか……?」
「……ううん」
楓は渋面を浮かべ、考え込んでしまう。
竜哉の言葉は、きっと正しいのだと思う。けれど、それを認めたら――。
「僕の、この一年は何だったんだ……」
「四季宮を壊すために必要な期間、だったんじゃないですか?」
「……それもそうか」
平然と言い放った竜哉を見て、楓は小さくため息をついた。自分自身を納得させるように。
「そうと決まったら、小春様にお手紙の返事を書かなければいけませんね、楓」
「……手紙は、苦手だ」
「じゃあ、電話」
「もっと苦手だよ……!」
「じゃあ、あきらめて手紙を書けばいいでしょう。……こんなこともあろうかと、ちゃんと用意しておきましたから」
竜哉はにっこりと笑いながら、シンプルなレターセットを差し出してくる。
「さ、どうぞ」
「……お前には、読ませないぞ」
「嫌だなぁ。おれが、人の手紙を勝手に読むような人間に見えますか?」
しかし楓には、その笑みの裏に黒いものが見えるような気がしてならない。
「小学生のとき、僕が宿題で書いた手紙を勝手に添削して、赤ペンの書き込みだらけにして提出させたのは、どこの誰だ……」
「さぁ、誰でしょうね?」
「……もういい」
楓は竜哉からレターセットを受け取ると、シンプルな便箋を一枚、机の上に出した。
「何を書くんですか?」
竜哉の問いに、楓は微かに笑った。
「そんなにすぐには思いつかないよ。……だけど、締めだけは、もう決まってる」
(僕は卑怯で弱いから、素直に気持ちを伝えることが怖くて、逃げてしまう)
けれど、これだけは。
これだけは、どれだけ不恰好でもいい。
素直に、はっきりと伝えたいから。
楓は、ゆっくりとペンを手に取った。
――僕も。
『僕も、姉さんに会える日を、とても楽しみにしています』
【了】