七章・4
魂を引き裂いてしまいそうなほどに切なく、激しい小春の独白を、楓は黙って聞いていた。
口を挟めるはずがなかった。
そこまでに願い、思ってきたことを壊したのは、他でもない楓なのだから。
「……夏月と初めて出会ったのは、その後よ。四季宮のことは、お父さんに教わっていたから知っていたけれど……彼から、四姫の話を聞いて思い付いたの」
四姫となって、世俗との縁を切る。――楓との、姉弟という縁を。
嵩志と結婚した秋乃は、実際に実家である河内との縁を切っていた。
これは、秋乃が四姫に就いているうちに、半ば駆け落ち同然で結婚した、という複雑な事情あってのことだが――とはいえ、実際に縁が切れるのだということを、小春はありありとその目で見てきている。
狂気じみた、わずかな可能性に賭けてみよう、と。
小春がそう思うのも、無理はなかった。
「ごめんなさい、楓ちゃん」
溢れる涙を拭おうともせずに、小春は言葉を続けた。
「ごめんなさい。……こんなことを考えているわたしなんて、本当に気持ち悪いでしょう? 楓ちゃんに冷たくされても、狂っていると思われても仕方ないわ」
「……っ! そんなこと……」
楓は反論しようとして、口を閉じる。
小春はそれきり言葉を紡ぐことなく、ただぼろぼろと泣き続けた。
(くそっ……)
手を伸ばそうとして――たったそれだけのことが何度やってもできなくて、楓は心の中でそう吐き捨てた。
泣いている小春を慰める言葉もなく、抱きしめる腕もない。
馬鹿みたいに間抜けな顔をして、ただ突っ立っていることしかできない自分に、吐き気を覚えた。
(僕は、卑怯だ……)
いつか、竜哉に言われた言葉を、心の中で反芻する。
それから――。
楓は、何かを決意したかのように、まっすぐに小春の姿を見つめた。
「……僕は高校を卒業したら、京都の大学に行こうと思ってる」
告げられた言葉に、小春は、涙に濡れた目を大きく見開いた。
「それって、やっぱり……」
小春の声が震える。
「やっぱり、楓ちゃんはわたしから離れたいの……?」
「違うよ。これは、姉さんが四姫になった頃から、ずっと考え続けていたことなんだ」
小春が四姫に就任してから、楓が四季宮に入るまでの一年間。楓はずっと、小春を四姫から解放する方法を考えていた。
そのひとつが、四季宮の京都支部に入り、そこからゆっくりと組織の解体を進めていく、というものだった。
四姫はほとんど東京の四季宮本部、河内の屋敷から出歩くことがない。そのため、京都支部はどうやら、あってもなくても変わらないもの、くらいの有り様らしかった。
それくらいのものならば、大した力も権力もない楓でも、解体することができるかもしれない。成功すれば、東京の本部を解体する方法が分かるかもしれない。
京都に行くこと。
それこそが、何も持たなかった楓にとっての、一縷の望みだったのだ。
「確かに、姉さんが四姫として振舞っているのを見たとき、僕はそれが姉さん自身ではないと思っていたよ。だけど僕は、どんな姿であっても姉さんを守りたいと思ったから……」
楓はまっすぐに小春を見つめる。
本当は、目を逸らしたくてたまらなかった。
けれど。それをしてしまったら、今度こそ楓はただの臆病者に成り下がってしまう。
「だから今、ここにいるんだ」
「楓、ちゃん……」
小春の涙が、止まった。
「僕は姉さんを守るよ。それだけは、信じて」
楓は告げる。まるで――自分に言い聞かせるように。
座り込んでいた小春の傍に、楓はゆっくりと近付いた。
一歩、また一歩。
楓のつま先が着物の裾に触れて、小春の体がわずかに震える。
楓はそのまま、そっと小春と目線を合わせるように、その場に屈み込んだ。
「……姉さん」
視線を合わせようとする楓から逃れるように、小春はいやいやをするように小さく首を振る。
「駄目だよ、姉さん」
すると、楓は両手で包み込むように、小春の顔を抑えてしまった。
「目も……閉じないで」
「嫌、楓ちゃん……」
小春は、弱々しい声で拒絶の意を示す。
「……わたしを、見ないで……」
「駄目だよ。僕はきっと、しばらく姉さんに会えなくなる」
残り少ない年内は、四季宮の解散について長老会や幹部との話し合いに追われ、年が明けたらすぐにセンター試験だ。前期、後期どちらかで志望の大学に合格できることは、成績的に間違いないだろう。
だが、もしも大学に合格したとしても、今度は手続きやら生活の準備がある。それに京都支部解体のための計画案を作り、長老会に提出しなくてはいけない。
皮肉なものだ。元は姉を取り戻すために練った計画が、今は楓と小春を引き離そうとする。
「だから……顔をよく見せて。僕はずっと、姉さんに会いたかったんだから……」
「楓ちゃん……京都になんか、行かないで……」
楓が優しく微笑むのを見て、小春の目から再び、大粒の涙が零れ始めた。
「わたし、我慢するから……楓ちゃんにいつか好きな人ができても、その子と結ばれることになっても、我慢する。だから……離れていかないで……!」
悲痛なまでのその泣き声に、楓の中の何かが、切れた。
「っ……僕だって、姉さんと一緒にいたいよ……!」
抑え付けていた思いを溢れさせるかのように、楓はきつく小春を抱きしめた。
小春は楓の背に腕を回そうとして、惑い、行き場のない腕を宙に浮かせている。
「なら、京都は別の人に任せて、楓ちゃんは東京の大学に行けば……そうすれば……」
「駄目だよ……それじゃ、駄目なんだ」
楓はそう言うと、小春の体を微かに離して、再び見つめ合うような形にした。
「……楓、ちゃん……?」
自分を見つめる楓の視線に、何かただならぬものを感じたらしい。小春は戸惑いを露わにした声で、楓にそう呼びかけた。
「小春、姉さん……」
二人の距離は、限りなく近い。
囁かれた声が、漏れた吐息が、小春の頬に触れる。小春の囁きも、楓の頬をくすぐる――。
「……僕は、姉さんの傍にいられない」
「どうし……っ!」
小春の問いは、最後まで言葉になることはなかった。
何故なら――楓が、小春の口を塞いだのだ。
自らの、唇で。
「……っ」
突然の行為に、小春が息を詰める。
ほんの一瞬の出来事だった。
唇はその温もりを残したまま、すぐに小春のそれから離れてしまう。
「……ごめんね、姉さん」
目を見開いたまま、呆然としている小春から視線を逸らして、楓は呟くようにそう言った。
「僕は卑怯だ。いくら罵ってくれても構わない。……僕が、四姫である姉さんに冷たく当たったように」
実の弟である楓に愛を囁き続けた四姫を、楓はどれほど悪く言っただろう。冷たくあしらい、憎しみを露わにしたことすらある。
四姫が憎かった。確かに、楓はそう思っていた。
けれど、それは。
「……ねえ、姉さん」
呆然としたままの身動きひとつしない小春に、楓はまるで独り言のように語り続ける。
「姉さんはさっき、あの日、僕のことが好きになった……って言ったよね」
あの日。姉弟が八年ぶりに再会した、白く染まる思い出の庭。
楓は、自嘲するように笑う。
「もしも……もしも、僕も同じ気持ちだった、って言ったら、どうする……?」
そんな自分の気持ちが信じられなくて。
けれど、自分の恋した小春を奪い去った四姫が、許せなくて。
だから、楓は――。
「僕は、姉さんの傍にはいられない。……少なくとも、今は」
「……なら、いつかは」
小春の唇が微かに震え、吐息のようなささやきが吐き出される。
「いつかは、わたしの傍に帰ってきてくれるの……?」
小春の言葉に、楓はゆっくりとうなずいた。
「うん……いつか、絶対に」
楓には、小春のように、現実を虚構にすり替えてまで、自分の想いを遂げようとは思えなかった。
その代わり、楓は小春を守るのだ。
いつまでも。いつまでも。
いつか、お互いの身を苛むことしかできないこの禁忌が、優しい思い出に変わる――その日まで。
「だから……それまでのお別れだよ」
楓の言葉に、小春はうなずく。
それから、二人はお互いに顔を見合わせて、微かに笑い合った。