七章・3
あのときのことは、今でもはっきりと覚えている。
「楓も、もう十四になるからな。……そろそろ、一人前の男として認めてもいい時期だろう。今度の正月の集まりで、挨拶を済ませようと思う」
嵩志がそう話すのを聞き、小春の胸は懐かしさと寂しさ、恋しさの混じった複雑な感情で満たされた。
離れに住まいを移され、ほとんど外に出ることも許されぬまま、もう何年を過ごしただろう。
小春の記憶の中には、幼い楓の姿しか存在しない。
なのに、それがもう、一族の男として――嵩志の後継者として認められるような年齢に成長している、なんて。
「……すまないな、小春」
そんな思いを察したのか、嵩志が悲しそうに笑う。
「あいつをお前の弱点にしたくない。そう思って、俺はお前たちを引き離した。そうすれば、姉弟の情も薄れるだろうと……あれほどに仲が良かったお前たちを」
今となっては、それが間違っていると、嵩志にも分かっていた。
小春と楓。どれだけの時を経たとしても、会えない時間が姉弟の想いに対する障害になるはずがない、と。
「謝らないで、お父さん。わたしはお父さんの気持ちに感謝しているし……いつかは、楓ちゃんも分かってくれるはずよ」
小春はそう言って微笑む。
けれど、高鳴る胸を押さえることはできなかった。
だからあの日。屋敷の人間が忙しく走り回っている、正月の初めに、小春はそっと離れを抜け出した。
遠くからでいい、人目でもいい。成長した楓を、この目で確かめたかったのだ。
前日に雪が降って、庭はうっすらと白に染まっていた。
そこに溶け込めるよう、小春は白いショールを頭から被り、必死に走った。
そして。昔、よく楓と一緒に遊んだ庭先――秋乃の部屋の縁側からよく見える、その場所まで来て、小春は懐かしさに思わず足を止めた。いつも楓と一緒に眺めた池を、少しだけ覗き込んでみた。
そのときのこと、だった。
「……誰だ!?」
どこからか飛んできた鋭い声に、小春は小さく悲鳴を上げ、バランスを崩す。
池のほとりに植わっていた松の根元に縋って立ち上がろうとするが、突然の出来事に驚いて震える体は、なかなか言うことを聞いてくれなかった。
そうするうちに、声の主が姿を現す。
どうやらその人物は、秋乃の部屋にいたらしい。縁側を飛び降りて足早に駆けてくるその姿に、小春は思わず言葉を失った。
ひどく冷たい雰囲気の漂う、美しい少年だった。
小春の胸が、微かに跳ねる。
不思議だった。確かに冷たい印象を受けるのだけれど、どこか脆く壊れてしまいそうな、そんな雰囲気を湛えている。
触れてみたい――と。
小春はそのとき、はっきりとそう思った。
「……お前は、誰だ」
低く、けれど甘く掠れるような声で、少年は言った。
「ここは母さんの庭だ。誰であれ、足を踏み入れることは許さない」
(母、さん……?)
小春は慌てて俯き、顔を隠した。
一歩、また一歩と。少年は小春に向かって歩を進めてくる。
その言葉が聴き間違えであればいいと、小春は強く願った。そんなことがあるはずないと、頭では分かっていたけれど。
気付けば、小春の双眸からはぽろぽろと涙が零れている。
「……顔を見せろ。お前は、誰だ」
やがて、痺れを切らしたのか、少年は一気に小春に詰め寄ると、被っていた白のストールを力任せに引き剥がした。
「……楓ちゃん、よね……?」
涙に濡れる瞳で、どこか戸惑う少年の顔を見つめて、小春はそう呼び掛けた。
そうしなければ、真実に押し潰されそうだった。
「もしかして……姉さん、なのか!?」
少年――楓もまた、小春の言葉で初めて、それが姉だと気付いたようだった。
無理もないことだった。引き離されてから、八年も経っているのだ。お互い、一目では分からないほどに成長していることだろう。
「ああ、なんてこと……本当に、本当に? 夢みたい……」
感極まった小春はため息をつき、ゆっくりと目を閉じる。幾筋もの涙が、薄紅に染まった頬を伝った。
胸を占めるのは、甘美なほどの絶望感。
それは引き離された姉弟の、八年ぶりの再会であり――運命の歯車が大きく狂った瞬間でもあった。
皮肉なことだ。
成長した楓を、そうと分からなかった。
その瞬間に――小春は、恋をしてしまったのだから。