七章・2
楓が小春を見つけたとき、彼女は遠野の屋敷――姉弟の実家の一室にいた。
「……よく、ここにいるって分かったね」
暗い部屋の隅でうずくまっていた小春は、微笑んだ顔を上げる。
「念のため、有希を姉さんに付けていたんだ。……もう、どこにも行ったりしないように、って」
小春の頬に涙の跡を見つけて、楓は微かに顔を歪ませる。
「そう……水無瀬さんと、きちんと仲直りできてよかったわ。わたし、あの人にまだきちんとお礼を言っていないもの……」
「礼?」
「ええ。……夏月に捕まっているときに、あの子が励ましてくれたのよ。『楓先輩は絶対に来ます。だから、あきらめないで』って」
「そう、か……」
有希には本当に、何から何まで世話になってしまった気がする。その想いに応えられないのが、申し訳ないくらいに。
もっとも、こんなことを口にしたら、有希はきっと怒るだろう。見返りを要求したわけじゃない、と。
「姉さん……」
声をかけると、小春の体が微かに震えた。
「行こう。もう四姫である必要はない。姉さんは、自由なんだ……」
楓はそう言うと、力強く手を差し伸べた。
しかし、小春はその手を力の抜けた様子で見つめるだけで、握り返そうとはしない。
「姉さん、どうしたんだい……?」
楓は訝しげに眉を寄せる。
「もう、あんな場所に閉じ込められて、つらい思いをする必要はない。父さんも生きているから、罪の意識を感じる必要もない。……四姫として、狂ったふりをする必要も、ない」
四姫。
――狂った、ふり。
その言葉に、小春は過度なまでの反応を見せた。
「いや……」
「姉さん?」
「いや……戻りたくない……」
小春は楓から逃げるように身を引いた。すぐに壁に背が付いてしまい、そのままそこに手を這わせる。
「戻りたくないの……楓ちゃん……」
「どうしてなんだ、姉さん」
予想もしていなかった返答に、楓は呆然とした面持ちで小春を見つめた。
「父さんから聞いたよ。姉さんは自分の意志で四姫の座に就いた、って。……でも何故、自ら望んであんな場所に行く必要があったっていうんだ……」
四季宮という名の、すべてが虚構でできている箱庭に。
「あんな場所にいても、姉さんは幸せになんてなれない。そう……分かっていたはず、なのに」
「……いいえ、楓ちゃん」
呟くように小さな声で、けれどはっきりと小春は言った。
「わたしは四姫のままでいなきゃいけなかった。そのためなら、どんな辛いことがあっても構わないし、どんな咎を背負うのも覚悟の上だったの。……けれど、楓ちゃんだけは失えない」
まっすぐに見つめてくる濡れた瞳から、楓は目を逸らすことができなかった。
「楓ちゃんだけは、失うわけにはいかなかったの……だって……」
やはり、と。楓は思った。
小春は狂ってなどいない。その目に狂気の影は欠片も見えない。
そこに浮かぶのは――ただ切々とした願いだけだった。
「だって、わたしは……」
そして。楓は初めて気付く。
狂っていたのは小春でも、ましてや自分でもない。夏月ですらない。
「わたしは……楓ちゃんのお嫁さんになりたかったの」
狂っていたのは――運命の歯車。
「世俗との繋がりを絶つ四姫になれば、それができたかもしれないのに……!」
小春の瞳に、みるみるうちに涙が浮かんでくる。
魂を引き裂くようなその叫びに、楓は身動きひとつ取れなくなってしまった。
小春は狂っていたのでも、辛い現実から逃げ出したのでもない。
(ただ……現実と虚構をすり替えようとしただけ、だったのか……)
四季宮という虚構の現実ならばそれができると、信じて。
(痛いほどに……信じて)
そんな今の小春にかけられる言葉を、楓が持っているはずがなかった。