七章・1
今までの人生が幸運かと問われれば、答えに迷う。
客観的に見れば、自分の人生は不幸な部類に入るのだろう。早くに母を亡くし、それから十年ほど、籠の鳥のように育てられた。
けれど、小春はそのことを不幸だと思ったことはなかった。父にも母にも、たくさんの愛情を受けて育ったし、自分を慕う、可愛くて優しい弟もいる。守られていることを理解していたからこそ、籠の鳥である生活もつらくなかった。
むしろ、つらいと感じていたのは、父親である嵩志の方だったと思う。彼は暇さえあれば小春の元を訪れてくれたし、元気に育つ楓の様子を話して聞かせてくれた。
もっとも、嵩志の話してくれる楓の姿がいつも、父親の仕打ちに怒り、反抗したりする姿だったのが悩みの種ではあったのだが。
とにかく、小春は幸せだったのだ。
あの日までは。
あのこと以外、は――。
「……どうしよう、どうしよう」
部屋の襖はすべて閉め切られ、昼間だとは思えないほどに深い暗闇が満ちている。
その片隅で、小春は体を縮こまらせ、小さく震えていた。
「どうしよう……」
血の気を失った白い頬に、細い雫が伝う。
「わたしは……どうしたらいいの……」
夏月の手から逃れ、四姫という立場から降りることができるというのに、小春は泣いていた。
まるで――失うことを、恐れるかのように。
「……助けて……」
溢れる涙を拭おうともせずに、小春はただ、呆然とそう呟いた。
「助けて……お祖母ちゃん……」
『駄目だよ、小春』
どこからか――いや、どこでもない場所から聞こえてきたその声は、硬い響きを帯びていた。
それでも小春は、安堵するような様子を見せ、ゆっくりと目をつぶる。
「お祖母ちゃん……でも、わたし……」
『わたくしがお前を助けてあげるのは、自身の力だけではどうにもならないことだけだよ。そう……言ったろう?』
甘えを突き放すようなその声は、けれど優しく小春を包み込んだ。
「そう、だよね……今までありがとう、お祖母ちゃん」
小春の声に応えるよう、微かに笑う気配がして――やがてそれも消えた。
「……お祖母ちゃん……?」
呼びかけても、返ってくるのは沈黙だけ。
(そう……本当に、いなくなってしまったのね……)
小春は、頬を濡らす涙を拭う。
祖母、冬巳は、魂だけの存在でありながら、四姫である小春の傍にずっといてくれた。
何故なら――小春は、その身に異能の力を持たなかったからだ。
秋乃のように、冬巳の持っていた不思議な力を受け継いだわけではなかったにも関わらず、小春は夏月から四姫にと望まれ、それを承諾した。
力を持たないと知れれば、小春は恐らく夏月に殺されてしまうだろう。そう理解していても、小春は四姫の座に就かなければならなかった。そうしなければいけない事情……望みが、あった。
そんなとき、小春を助けてくれたのが、死んだ冬巳の魂だった。彼女がずっと、小春の代わりに四姫としての務めを果たしていてくれたのだ。
けれど、夏月はもういない。
そうなれば楓は、どんな手段を使ってでも小春を四姫の座から降ろすことだろう。長老会の一員である芳史も、元々、小春が四姫に就任することに反対していた。彼が手を貸せば、小春は間違いなく今の地位を失うことになる。
冬巳はそれが分かったからこそ、姿を消したのだろう。彼女がそう判断したなら、それが間違っているはずがなかった。
「だけど……それじゃ、わたしは……」
震える声で、小春はそう呟く。
「わたし、は……」
すでに涙は止まっていた。けれど、体に力が入らない。
迫り来るそのときに怯え、小春は弱々しく震える。
「……えさん、姉さん……!」
そのとき、ばたばたと、騒々しい足音が近付いてくるのが耳に届いた。
板張りの廊下が軋む。
小春は、呆然と目を見開いて――それから、ゆっくりと微笑んだ。
今にも、泣きそうな顔で。