六章・6
(姉さん、姉さん、姉さん……!)
楓は屋敷の廊下を走っていた。
動く足は確かに地に着いているはずなのに、どこかふわふわと頼りない感覚がする。
今だけは、誰に見咎められても構わない。
やっと、やっと――。
(僕たちは……姉さんは、解放される……!)
「……姉さん!」
ぱん、と大きな音を立てて、佐保の間の障子を開く。
小春はまだ、そこにいるはずだった。すべての悲劇の舞台となったその離れを、何故か彼女は離れたがらなかったのだ。
「姉さん、どこだい」
佐保の間に、小春の姿はなかった。
もっとも、それは珍しい話ではない。佐保の間の奥には、四姫の寝室である竜田の間もあるし、離れの庭先に出ている可能性だってあるのだから。
楓はわずかにためらったが、竜田の間へと続く襖をそっと開けた。
「姉さん……?」
初めて足を踏み入れるその場所に、楓は微かな背徳感を覚えた。なにせ、四姫以外でその部屋に立ち入れるのは、責任者であり傍仕えでもある夏月しかいなかったのだ。
そこは簡素な空間だった。畳の敷かれた八畳ほどの部屋が二間あるが、文机と、鏡台と、衣装箪笥と。それから隅の方に、きれいに片付けられている布団が置かれているだけだ。それ以外の、余分なものは一切置かれていなかった。
恐らく、小春が四姫として過ごした三年の歳月も、この部屋のようなものだったのだろう。
ただ『四姫』として求められ続けるだけの日々は、小春にとってどんな思いで過ごした年月だったのだろうか。
それに、と楓は思う。
(僕が姉さんを助けに行った、あのとき……姉さんは、昔の姉さんに戻っていた気がする)
夏月に囚われていた小春。
楓を助けるために、自らの身を危険に晒した彼女に、四姫として楓に見せていた狂気は存在していなかった。楓には、そんな確信があった。
(だから、姉さんは、もしかしたら……)
小春は賢い少女だ。何らかの目的があって、あんな振る舞いをしていたのかもしれない。そうであっても、不思議ではない。
(だけど……何のために?)
――何のために?
竜田の間に、小春はいなかった。
庭先にも。
客人の控えである、白の間にも。
それどころか――筒の屋敷、河内の屋敷のどこにもいなかった。
小春は、どこにもいなかった。