一章・3
『四季宮』という組織がいつ頃から存在していたのは定かではない。
一説では鎌倉時代に作られた秘密組織だとされ、またある者は平安時代の陰陽博士が密かに作り上げた支配網が元ではないかと伝えている。
確かなのは、四季宮という組織が存在し、その頂点に立つ巫女『四姫』が日本の四季を司る四柱の姫神を祀っていること。
そして、四姫の託宣によって――日本という国の一部が動かされていることだ。
企業の株式取引や、買収。国会議員が選挙に立候補する際に掲げる公約の方針、国会で審議される法案、予算案……果てには、国家公務員採用試験の出題傾向など。
四姫はどんなときも分け隔てなく四季の姫神を呼び、悩める人々に一筋の光明を与えた。
しかし、日本の四季を司る女神は、国内に関する出来事にしかその興味を示さず、力を発揮しようとしなかった。
それでも、四姫の託宣を以ってすれば、日本の政財界を掌握することも可能だろう。
ゆえに、四姫はみだりに神託を授けたりはしない。『四季宮』は、その均衡を守るために作られた組織だった。
彼女から尊い言葉を得るには、四季宮の了承を得なければいけない。四姫本人といえど、自らのために力を使うことを許されてはいなかった。もちろん四季宮自体も、その例外ではない。
たとえ強大な力を内に秘めていても、普段の四姫は無防備な姫君でしかない。
四季宮は四姫と世俗の調整役であるが、同時に彼女を世俗のあらゆる脅威から守るために存在していた。
そして――楓たちも、その一員だった。
その部屋は、この屋敷の中において『佐保の間』と呼ばれていた。四姫と世俗が繋がる唯一の部屋であり、託宣を求めて訪れる人間と面会する部屋である。
これより奥は四姫の生活する『竜田の間』であり、また、離れの正式な入口に配置された小さな部屋は『白の間』と呼ばれ、四姫との目通りを待つ人々の控えの間とされていた。
楓たち三人は、白の間を経由することなく、庭から佐保の間に直接向かった。本来ならばそのようなことは許されていないが、今日は少し事情が違う。
「……それで、僕たちが何の用で呼ばれたのか、聞いてもいいですか」
自然と、楓の声にわずかな棘が混じる。
「どうしたの、楓ちゃん。怖い顔」
「話を逸らさないでください。突然呼びつけられるのはいつものことだけれど、わざわざ夏月を出迎えに寄越したのはどういう意図があってのことですか」
楓は一瞬だけ、四姫の傍らに控える夏月へと視線を走らせた。
「彼はこの四季宮の総責任者だ。そんな彼が、わざわざ僕たちみたいな雑兵を迎えに来るだなんて考えられない」
「雑兵だなんて、わたしは一度もそんなことを思ったことはないわよ」
四姫が悲しそうに眉を寄せる。
「楓ちゃんたちはわたしの言葉ひとつで動いてくれる、大事な手足じゃない。大切な人の働きをねぎらうのは当然でしょう?」
「それが本当だったら、今日は雹が降るとしか思えませんが?」
確かに楓たちは、四季宮において四姫の直属部隊のような扱いを受けていた。
けれど、それがどんな苦労を伴うか、次々に代わる家政婦を何人も見ていれば想像に難くないだろう。
四姫は、拗ねるように唇を尖らせた。
「……もう、楓ちゃんの意地悪。まあいいわ、楓ちゃんだから許してあげる」
と――四姫の表情が、一瞬にして鋭いものに変わる。
「人が死んだの。楓ちゃんたちには、その犯人についての調査をお願いするわ」
「……どういうことですか」
楓の疑問に答えたのは、傍らに控える夏月だった。
「昨夜、四姫様と面会なさった男性が、その帰宅途中に何者かに襲われ、お亡くなりになりました。被害者の名前は『鮎川友博』。死因は、腹部を刺されたことによる失血死です」
夏月の話を総合すると、こういうことらしい。
昨夜、四姫との面会予定が入っていた鮎川友博という男がいた。
彼の父親は一流商社の取締役で、大きな決断に悩んだとき、何度か四姫の託宣に道を示してもらったことがあるらしい。おかげで他に追い落とされる心配もないほどに成長したその企業は、かなり高額の資金を四季宮に援助しているという。いわゆるパトロンだ。
友博は大学を卒業したばかりだが、いずれ父親の跡を継ぐということで、最近何度か四姫の元を訪れていたらしい。
昨日もそうして四姫との面会を済ませ、車で家に帰った。
そして――。
「その駐車場から家に戻るところで誰かに刺され、亡くなった、と」
「はい。なんでも鮎川様のご自宅は駐車するガレージから自宅に入る際、一度路上に出なければいけないということで。そこで誰かに刺されたそうです」
楓の言葉に夏月が補足を付け加える。
「言い争う声などは聞こえなかったそうです。家族や周囲の住人は、被害者である鮎川様の悲鳴しか聞いていません。悲鳴を聞いてご家族の方が駆けつけたときにはもう、犯人は現場から逃走してしまった後で、鮎川様も搬送先の病院で亡くなったそうです」
「被害者の方が誰かから恨みを買っていたとか、そういうことはないんですか?」
「本人に聞いたら、心当たりが多すぎるって笑うでしょうね」
竜哉の質問に答えたのは四姫だ。
「あの方とは何度かお話したけれど、とても上昇志向の強い人だったもの。取締役の息子という肩書きも充分に利用した上で出世したい、なんて話していたこともあったわ」
「それなら、わざわざ四季宮で調査を出す必要があるとは思えませんが」
「楓はなにか勘違いしているようですね。今回の調査は、鮎川様の死因を調べるものではありません。勿論、犯人の動機を調べるためのものでもない」
夏月は無表情のまま、淡々と話す。
「鮎川様は、四季宮から帰ったところを殺されています。それはつまり、誰とも知れぬ犯人は、鮎川様が四季宮に出入りしていたところを見たかもしれないということです。……お分かりでしょう?」
「……四季宮の存在は、一部の人間だけが知っていればいいことよ。わたしの力は、限られた人間のためだけにあるものなのだから」
傲慢な言葉だ、と楓は思う。
四姫は確かに特別な力を持っていた。訪れた人間に神託を授けている場面を、楓も何度か目にしている。
そんなときの四姫はとても神々しい雰囲気を身にまとっており、告げられる言葉は不可思議な暗喩に満ち溢れているものだった。
けれど、楓にしてみれば意味の分からない神託は、授かる側にとってはすぐさま理解できてしまうものらしい。
事実、そういった人々の経営する会社は、その後の企業戦略によってどこも目覚ましい発展を遂げる。そして、自分たちと対立する企業に四姫のことを知られぬよう、厳重な情報保護が成されるのだ。
けれど、今回のことは違う。
鮎川友博という青年の死は、四季宮とは何の関わりもない可能性が高いのだ。
そんな彼の死を悼みこそすれ、そこから発生する不利益ばかりを追求し、彼の死を面倒なものとしてしか捉えていない四姫と夏月に、楓は明らかな嫌悪を覚えた。
「怒らないで、楓ちゃん。……わたしはただ、怖いだけなの」
楓の様子に気付いたのか、四姫は突然、そんなことを口にした。
「わたしのことが世の中で明らかになれば、どんな混乱があるのか分からないでしょう。そうしたらわたし自身もどうなるのか分からないわ。……だから、小さな事件も見逃したくはないの」
心なしか、四姫の目が潤んでいる。
「ね、楓ちゃん。わたしのことを助けて、守ってちょうだい。お願いよ」
「……言われなくても、僕は、そのためにここにいるんです」
楓がしぶしぶうなずくと、四姫の表情が一瞬で晴れやかなものに変わった。
「ありがとう、楓ちゃん。大好きよ」
微笑みかけるその顔に、先ほど見せたような妖しさは欠片も見当たらない。
――ずきり、と。
不意に、楓の胸が痛む。
(……あなたにもまだ、そんな表情が残っていたんですね、四姫)