六章・5.5
忠敬が部屋から退出し、芳史もそれに続いて応接間を出る。
と――部屋の外に控えていた人物を見て、芳史は微笑を浮かべた。
「おお……竜哉、久しいの」
「……はい、芳史様」
竜哉もまた微かに笑うと、慇懃に礼をした。
「竜哉、というと、あの……?」
忠敬の曖昧な言葉に、芳史はにこにこと笑いながらうなずく。
「そういうわけで、わしは少し用事があるでな。ここで失礼させていただくぞ、忠敬殿」
と、芳史は強引に竜哉の腕を掴んだ。
「え、あ、芳史様……!?」
竜哉は思わず困惑を露わにする。普段の冷静な彼を知っている者からしてみれば、珍しい姿だろう。
しかし、芳史はその苦情に耳を貸さず、そのまま屋敷の奥にある客間に竜哉を連れて行ってしまう。
「な、何をお考えなんですか、芳史様……」
竜哉はぐったりした様子で、そう訊ねる。
しかし芳史はにこにこと上機嫌なまま、
「呼んでくれんかのぅ……?」
「……」
どことなく可愛らしい言い回しのその言葉に、竜哉はどっと疲れが増すのを感じた。
「久しぶりなのにのぅ……?」
ああもうこの人は、と、竜哉は渋面を浮かべて。
「お戯れもほどほどにしてください、芳史様。ご足労いただけたことには感謝していますが、この後も予定が詰まっていると、秘書の方からお聞きしています」
「そんなもん、すっぽかしても一向に構わん。いいや、むしろおぬしのせいですっぽかす羽目になったと吹聴してやるぞ」
「……いい加減にしてください、『お父さん』」
これで満足ですか、と竜哉がため息をつく。
「ああもう、満足満足、大満足だとも!」
芳史は顔を輝かせた。
「竜哉はこうでもせんと、『お父さん』なんて呼んでくれんからなぁ……」
「……当たり前でしょう。おれは、お父さんが若い愛人に隠れて産ませた子どもですよ。しかも、本筋の孫と同い年ときている。本来ならば、排斥されてしかるべき存在です」
竜哉は冷静にそう告げる。
最愛の母は既に病気で亡くなり、この事実を知るのは、自分と父である芳史、それから忠敬のように、芳史の信頼する古い友人だけだった。
嵩志も、楓すらも、このことを知らない。出自を隠したまま傍にいることができるのは、ひとえに芳史の紹介であるというところが大きかった。
「でも、まあ……恨んではいませんよ。おれは、楓が嫌いじゃない。この生活も好きですし、ね」
竜哉が、微かに笑う。
一歩間違えば、憎まれ、厭われるような場所に、過剰なまでの努力をしてまで立ち続けているのは――それが、芳史との取り引きだったからだ。
「母さんの住んでいた家を、その頃のまま保存する……約束どおり、とてもきれいに保たれていました。本当に、ありがとうございます」
竜哉はそう言うと、芳史に頭を下げた。
「ああ。しかし……楓を、離れとはいえ、あすこに入れたんじゃな」
楓と竜哉が四季宮の目から逃れるために潜んでいた隠れ家こそが、その屋敷だ。
「わしですら、あいつが亡くなった後は入れて貰えんのだから、じじいは悲しいぞ。……だが、お前がそれほどに楓を好いてくれて、わしは嬉しいよ」
芳史の言葉に、竜哉は答えず――ただ、微かに表情を和らげるだけだった。
(楓を放っておいたら、どうなるか分かったもんじゃないですからね……)
もっとも、たったそれだけの感情で十年以上も面倒を見られるのかは、竜哉自身にも分からなかったのだが。