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六章・3

 瞬間、世界はまるでスローモーションのように流れた。


「四姫、おやめください……!」


 小春の首元にきらめいた刃。それに気付いた瞬間、夏月は慌てて彼女の体を突き飛ばした。

 しかし、わずかに刃へと触れた小春の首には、うっすらと赤い線が滲む。


「っ……」


 痛みのためか、小春が小さく声を上げる。


「楓ちゃん、楓ちゃん……!」


 しかし。どこにそんな力が残っていたのか、小春は楓に駆け寄った。口に差し込まれている拳銃の引き鉄から、楓の手を無理矢理に引き剥がす。


「姉さん、危ないよ……!」


 楓は小春の手が誤って引き鉄に触れないよう、慎重に銃を降ろした。

 けれど、小春はそれだけでは気が済まないらしく、その手に握られた銃すらも奪おうとした。


「姉さん……」

「駄目、今すぐにこんなもの放して、捨てて! 捨てて……!」


 次第に、小春の体から力が抜けていく。


「でないと、楓ちゃんが……楓ちゃんが死んじゃう……」


 美しい小春の顔は今や、溢れる涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 その姿に、楓は思い出す。


「……なんだか、昔に戻ったみたいだね」

「え……?」


 何を言われたのか、一瞬、理解できなかったらしい。驚いて顔を上げる小春に、楓は微笑みかけた。


「僕が怪我をしたり病気にかかったとき、姉さんはいつもそうやって泣いて、僕のことを世話を焼いてくれた。……けど」


 楓は、小春の首に滲む血を指でそっとすくい取る。


「今は、僕が姉さんを守る立場だ。……それなのに」


 楓は片腕を伸ばし、小春の体を抱き込んだ。


「……守れなくて、ごめん」

「楓ちゃん……」


 楓の腕の中に収まり、小春は安堵しきった様子で、ゆっくりと目を閉じた。


「……さて、と」


 呟くと、楓は再び銃を構えた。

 ――その腕の中から小春を失い、呆然としている様子の夏月へと。


「お前の負けだ、夏月」

「……何故だ」


 震える声で、夏月が呟く。


「何故、私はいつも……すべてを失うんだ……!」


 悲痛な叫びと共に、夏月はがくりとその場に膝を付いた。


「……愛に、どれほどの価値があるというんだ。神と対話することのできる、その素晴らしい力を捨ててまで……何故、秋乃様も、小春も……」

「なら、お前は何故、母さんを求める? 大義名分なんて、所詮は後付けじゃないか。お前だって母さんを愛していたから、父さんや僕たちを憎んだ。そうだろう……!?」

「私、は……」


 夏月には、もはや楓に言い返せるだけの力も、意志も残ってはいないようだった。


「……有希」

「は、はい……」


 楓の声に、呆然と事の成り行きを見守っていた有希が顔を上げる。


「夏月を捕縛しろ。この男はもう、四季宮の責任者じゃない。……どんな理想があれど、四姫に、その刃を向けたのだから」

「……了解しました」


 それが当然であるかのように下された命に、有希はわずかに戸惑っていたものの――命令どおり、夏月の体を拘束した。


「……夏月様、しばしのご辛抱をお願いします」


 かつての主を気遣う有希の言葉に、返事はない。

 夏月はうめき声ひとつ上げず、死人のように床に身を横たえた。


「……ひとまずは、終わりましたね」


 竜哉の言葉に、楓がうなずく。


「ああ。……だけど、姉さんはまだ四姫の地位に就いている。ここからが始まりなのかもしれないな」

「ええ。夏月は四季宮の最高責任者ですが、彼は長老たちの意を汲んで動いていたはず。……年寄り連中は、無駄に歳をとっているわけではありませんからね」

「……だな」


 楓が嘆息する。

 ――と、その腕の中で、小春が微かに身じろぎをした。


「どうしたの、姉さん」

「……夏月の傍に、連れていって」


 泣きやみはしたものの、目を真っ赤に腫らしている小春の言葉に、楓は渋面を浮かべた。


「駄目だよ。さっきまで、姉さんはあいつに人質にされてたんだ。もう二度と、夏月には近付けさせない」

「それじゃ、駄目なの……!」

「……どういうこと」


 小春の様子に尋常でないものを感じて、楓はそう訊ねた。

 しかし、小春はそれには答えず、ただ「連れていって」と繰り返すばかりだ。

 仕方なく、楓は小春を抱きかかえ、床に転がったまま身動きしない夏月の傍に寄った。


「……夏月、聞いて」


 楓の腕から離れ、小春は夏月の顔が見える位置に屈み込む。

 夏月からは、何の反応もない。彼はただ、死人のような瞳で、どこか遠くを見つめているだけだ。

 けれど小春は、構わず話し続けた。


「聞いて、夏月。お母さんが昔、言っていたことがあるの。……『謝りたい人がいる』って」


 小春の目に再び、うっすらと涙が浮かぶ。


「楓ちゃんは知らないことよ。お母さんが死ぬ前に、わたしにだけ教えてくれた、秘密の伝言なの……」


* * *


 痩せ衰えた秋乃の病室に、小春一人が招かれたのは、彼女が亡くなる数日前のことだった。

 秋乃は、母の死に怯え、けれど懸命に強くあろうとする娘の姿に涙を零し……それから、こう言った。


「この運命を選んだことを、お母さんは少しも後悔していないわ。お父さんと出会って、愛し合って、可愛い二人の子どもに恵まれたんですもの」


 それは、秋乃が繰り返し、子どもたちに話していることだった。小春も楓も、何度も聞いている話だ。

 けれどその日、その言葉には続きがあった。


「だけどね……お母さんはそのせいで、大切な人を一人、とても悲しませてしまったの」

「え……?」


 思いがけない言葉に、小春が目を瞠る。


「だからね、小春に秘密のお願いがあるの。……あなたはいつか、その人に出会うわ。そのとき、お母さんの代わりに、その人に謝って欲しいの。ごめんなさい、って……」


 返す言葉が分からず、小春はただ、秋乃に向かって何度もうなずいて見せた。

 秋乃は、安堵したように微笑む。


「ありがとう……約束よ、小春……」


* * *


「あのときは、それが誰なのか分からなかった。でも、わたしは今、やっとお母さんの言葉を理解できた。……お母さんはずっと、あなたに謝りたいと願っていたのよ、夏月」


 ぽろぽろと涙を零す四姫の言葉に、夏月が微かな呟きを漏らす。


「あの方が、私に……?」

「そうよ。お母さんが幸せだったのは間違いない。けれど、あなたを裏切ったことに対して、ずっと自分を責め続けていたんだわ……。だから、いつか四姫候補としてあなたに接触するわたしに……わたしだけに、あなたのことを話したのよ……」

「秋乃様が、私に……」


 夏月の瞳に、わずかな光が宿る。


「ごめんなさい、夏月。わたしはもっと早くに、あなたを救うことができたはずなのに……それなのに……」


 溢れ出す涙に、小春の言葉が途切れる。


「ずっと、忘れられたのだと、そう思っていた……。なら、私は……どうすればよかったというのですか、四姫……」


 夏月の双眸から、透明な涙が滑り落ちた。


「四姫……秋乃、様……私は……」


 夏月の言葉に、答える声はない。

 答えられる者など――誰も、いるわけがないのだ。


 その後。

 今度こそ気が抜けたのか、気を失ってしまった小春を有希に任せ、楓は竜哉と共に佐保の間を後にした。


(僕たちにはまだ、やらなければいけないことがある……)

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