一章・2
憂鬱なことばかり起こるのは、曇り空のせいなのか――。
冬は日が落ちるのが早い。学校を出たときにはまだ空に赤みが残っていたが、そこに着いた頃にはもう、あたりは薄闇に包まれていた。
延々と続く塀と、瓦が葺かれた重厚な門。『河内家』と書かれた名札があるだけで、大きな門には通用門はおろか、呼び鈴のひとつも付いていない。まるで人の訪れを拒否しているような大きな屋敷の門前において、三人組の高校生はひどく場違いに見えた。
門は固く閉ざされており、三人はゆうに十五分、ここで待たされている。
吹きすさぶ風に耐えかね、竜哉がマフラーを口元まで引き上げた。
「今日は寒いですね……。呼び出すのなら、門まで開けておいてくれてもいいものですが」
「まあ、そう言うな。呼び鈴と門番くらいは、僕も欲しいと再三言っているけど、これが昔からの決まりだそうだから、仕方ない」
楓も寒そうに手袋をはめた手をこすり合わせた。
「……あ、やっと誰か来たみたいですよ。助かったー。スカートって寒いんですよね」
「確かに、それだけ短いスカートをはいていれば寒いのは当たり前だよ。せめてもう少し丈を長くするとか、タイツをはくとかできないものなのか?」
怪訝そうな顔で訊ねてくる楓に、有希が指でバツ印を作った。
「駄目ですよ、スカートの短さとそこから伸びる生太もも、紺のハイソックスは、女子高生のたしなみなんですから」
「確かに。うちの学校のお嬢さん方はみんなそういう格好をしてますからねぇ」
寒さに体を震わせながらも、竜哉がうんうんとうなずく。
「……なるほど、うまくやっているようですね」
二人の言葉に応えたのは、楓ではなかった。
ゆっくりと、音もなく門が開いた。
中からは、スーツ姿の一人の青年が姿を見せる。年の頃は三十を過ぎたほどだろうか、落ち着きのある、整った容貌が楓たち三人を見回し、やがてゆっくりと口を開いた。
「寒い中、長く待たせて申し訳ありません。さあ、三人とも中にお入りください」
けれど、楓は動かなかった。
「……高校生三人に、直々のお出迎えとは。これはつまり、どういうことなんですか」
探るような楓の言葉に、青年は眉ひとつ動かさない。ただ、目線だけで中に入るよう促すだけだ。
楓は苦々しい表情を浮かべ、その様子を竜哉が苦笑を浮かべて見守っている。
そんな中、有希だけが出迎えの青年に瞳を輝かせていた。
「夏月さまが直々に門を開けてくださるなんて、そんな、恐れ多いです」
緊張した面持ちでそう口にした有希に、夏月と呼ばれた青年は微かに微笑んで見せた。
「気にすることはありませんよ、有希。あなたの働きぶりをこの目で確かめてみるのも必要でしたから。……その様子では、うまくやっているようですね。何よりです」
「はい! ……遠野先輩、須藤先輩、早く中に入って、あったかいお茶でも飲みましょう」
「……まあ、ここで考えていても仕方ないし、それが一番かな」
「ですね。行きましょう、楓」
しかし。門の中に入った三人は、屋敷の玄関を素通りさせられ、そのまま庭先を歩かされる羽目になった。
「申し訳ありませんが、あと少し我慢してください。少しでも早く連れてくるように、と仰せつかっておりますので、直接『佐保の間』の方にご案内します」
先導する夏月が、そう言って謝罪した。三人は早足で、いかにも日本庭園といった風情のある庭を横切っていく。
庭の小さな池に面した縁側からは、屋敷の中で忙しそうに働く家政婦の姿が見えた。
しかし彼女は一度もこちらに視線を向けようとはせず、逆にこちらからの視線を避けるように障子をぴったりと閉めてしまう。
これでは熱いお茶は期待できないだろう、と楓は閉められてしまった障子を眺めた。
けれど、仕方のないことだ。恐らく彼女はこちらを見たくなかったのではなく、見る権利を与えられていなかったのだろう。
「……家政婦、また変わったんですか」
「ええ。そうお望みになられたので」
端から聞けば不思議な会話だ。先ほども今も、夏月は「誰が」とは言わなかったし、楓もそれを聞かなかった。
やがて、三人は屋敷の離れに案内された。
母屋と屋根付きの廊下で繋がっているこの建物は、離れとは言え、人が二、三人住んでも広いほどの大きさである。
靴を脱いで縁側に上がった夏月が、正座を崩したような体勢で、閉められている障子をわずかに開いた。
「……お連れしました」
障子の細い隙間から、夏月が中に話しかける。
「――――遅いわ」
中から聞こえてきたのは、まるで鈴を鳴らしたような少女の声だった。
「わたし、もう随分と待っている気がするのだけれど。それともわざわざ夏月を迎えに寄越さなければ、わたしなんかのところには足を運びたくもないというのかしら」
楓は誰にも気付かれないよう舌打ちをする。『姫』の機嫌はかなり悪いようだ。
「申し訳ありません。すべて私の責任です」
「ああ、別に頭を下げる必要なんてないのよ、夏月。悪いのはあなたではないのだから。……ねぇ、楓ちゃん?」
障子を通して、部屋の中の影がゆっくりと近付いてくるのが分かった。
と。わずかに開いている隙間から、細い指が突き出す。小さな両の手は障子に手をかけると、勢いよくそれを開け放った。
立っていたのは、着物姿の少女だった。
眉で切り揃えられた前髪と、腰の下ほどまである艶やかな黒髪。触れれば手折れそうな華奢な体には、薄紅の地に無数の小さな花が散らされた振袖をまとっている。
大きな瞳には長い睫毛の翳が落ち、唇は血のように赤い。整ったその容姿はまるで人形のようだ。
「遅かったのね、楓ちゃん」
少女は、そう言って楓に極上の笑みを向ける。その笑顔はとても整っているものの、人形のそれとは比較できないほどの人間らしさに溢れていた。
人形はこんな笑い方はしない。
こんな――全身に絡みつくような、それでいて美しいこの笑顔は、人間にしか存在しえないものだ。
粘性のある雰囲気に呑み込まれないようにと、楓は少女の視線を避け、微かに下を向く。
「すみません、学校で少し用事を済ませていて、遅くなりました」
「言い訳は聞きたくないわ」
楓の言葉は、ばっさりと切り捨てられる。無駄だろうとは思っていたが、やはり無駄だったようだ。
「……すみません、四姫」
楓は素直に頭を下げた。竜哉と有希も同じように頭を下げると、楓に続いて「申し訳ありません」と、謝罪の言葉を口にする。
四姫、と呼ばれた少女は、それを聞いてもまだ不満そうに三人を見下ろしていたが――やがて、ふ、と微笑んだ。
「まあいいわ。こんなところで押し問答していても、時間の無駄にしかならないわね。何より寒いし」
少女はきびすを返すと、足早に部屋の中に戻っていく。その背を見て、楓はわずかな安堵を覚えた。
「早くお上がりなさい。……あの方の機嫌を、これ以上損ねたいのですか」
縁側で正座している夏月が、楓たち三人だけに聞こえるように囁く。
三人は慌てて縁側に上がると、四姫を追いかけるようにして部屋に入った。
――と。
「……っ」
楓は、息を呑んだ。
畳の敷かれた広い部屋の奥に、四姫が座っている。ただそれだけのことに、重苦しい圧迫感があった。
もう何度もこの部屋に入っているはずなのに、未だに最初の一歩で足が竦むのだ。情けないとは思うけれど、こればかりはどうにもならない。本能的な恐怖や怯えが、この部屋によって呼び起こされていく。
「どうしたの……? 早く入って、そこに座ってちょうだい。冷たい風が吹き込んで、部屋が冷えてしまうでしょう」
こういうとき、艶やかに微笑む四姫は、美しく整った顔立ちも相まって、まるで人間でないもののように見える。
けれど、それは無理もないことだ。
何故なら、彼女はこの屋敷の主。
――四季の神々の託宣を告げる、四季宮の巫女なのだから。