五章・3
隠れ家を出た楓たちは、有希に指定された場所に向かった。
「あ、楓先輩、竜哉先輩。こっちです」
「……本当に、ここでいいのか?」
有希の姿しか見えないことに安心したものの、楓はまだ、警戒を解くことができなかった。
と、いうのも。
「はい、この場所で合ってます」
「けれど、ここは図書館だろう?」
そう。楓の言葉どおり、そこは河内の屋敷から少し離れた場所にある、公立の図書館だったのだ。
「本当に、こんなところから屋敷に……?」
疑いを隠そうともしない楓に、有希は微かな苦笑を浮かべる。
「知ってますか、楓先輩。ここの図書館を設立する際、河内家がものすごーい金額を寄付しているそうです」
「……それは、確かに信じる価値がありそうですね」
竜哉の言葉に、楓もうなずく。
「それに、ここから河内の屋敷までは、公道を道なりにまっすぐ進めばいいだけだ。国の書類さえごまかしてしまえば、地下道を通すこともできなくはない」
「そういうことです。さ、そうと決まれば早くこちらへ。あたしも、捜査から抜け出してることがばれるわけにはいきませんから」
「ああ。……ありがとう、有希」
足早に進む有希の背中に、楓はそう声をかけた。
「礼を言われるようなことは、何もしていませんよ。あたしがしたことは、楓先輩が殺人を犯してなんかいないって信じたことだけです」
振り向くことなく、有希はそう言った。
その言葉が、楓にはとても心強く響いた。
やがて、有希は図書館の中にある個別の閲覧室のひとつに、楓と竜哉を招き入れた。
置いてあるのは机と椅子だけ。通常は一人で使うため、人が三人入るには少し狭い場所だ。
「ここ、カーテンが閉まるんです」
有希はそう言うと、ドアの中央にはめられた細長いガラスを隠すように、黒いカーテンを閉めた。ご丁寧にも、カーテンには端を留める金具まで付いている。
「で……ここを押します」
有希が、壁を覆う張り合わされた板材の一枚――他より色の濃い部分を、軽く押した。
がたん、と部屋が微かに揺れる。と、同時に。
「……驚いたな」
思わず、楓は感嘆のため息を漏らした。
「なんというか……えらく旧時代的な仕掛けじゃないか」
「確かに」
竜哉がうなずき、同意する。
「……まあ、図書館が造られたのって、三十年くらい前ですから」
あはは、と有希が苦笑を漏らす。
狭い部屋の大半を占めるようにして置かれている机。その下にある部分の床が、ぽっかりとなくなっていた。
「ここを下りれば、一本道です。無事に通り抜けられれば、四姫様のいらっしゃる離れの近くに出られます」
「……本当にありがとう、有希」
楓は、深々と有希に頭を下げた。
「やだ、そんな……あたしは、ただ……」
そんな楓に戸惑っていた有希だったが――やがて。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「僕に答えられることなら」
楓の言葉に、有希はわずかにためらいつつも口を開く。
「楓先輩は……何故、そんなにまでして、四姫様を助けようとするんですか」
「それは……四姫が、僕の」
「お姉さんなんですよね。……竜哉先輩から、聞きました。でも、それだけで……」
有希の声が、微かに震える。
「それだけで、ここまでできるものなんですか? 楓先輩の確保命令を出したのも、楓先輩を陥れようとしたのも、本当は四姫様だったとしたらどうするんですか。あの人は四季宮の主です。そういう可能性だって、ないとは言い切れないんですよ……」
有希の頬を、一筋の涙が伝った。
「楓先輩、いつも、あの人にひどい扱いを受けているのに……なんで、そんなに……」
「心配してくれてありがとう。……有希は、優しいね」
楓はそっと手を伸ばすと、有希の頭を優しく撫でた。
「でも、僕は行かなくてはいけないんだ。……ずっと昔から、僕の支えは姉さんだけだったから。あの人を守るためなら、僕はどんなことでもしてみせる。そう、決めているんだ」
有希は涙を拭うと、こくりとうなずいた。
「分かりました。……くれぐれも、お気を付けてください」
「ああ。有希も、僕たちに関わったことを気付かれないよう、充分に気を付けるんだよ」
「はい」
「下に、人の気配はないようです。……行きましょう、楓」
地下へ続くはしごの点検をしていた竜哉が、顔を上げた。
「ああ。それじゃ、有希。……また、学校で」
「はい、学校で」
有希は、微かに笑った。
「……覚えていてください。あたしはあたしです。たとえ諜報部に所属していても、楓先輩の部下でも、後輩でも。……あたしは、あたしなんです」
「ああ。……本当にありがとう、有希」
――学校で。
それはとてもシンプルで、それでいてひどく尊い言葉だった。
もしも小春が、四姫としての地位を降りることになったとしても。
楓が行動を起こすことで、四季宮に何らかの変化が起こるとしても。
(僕たちの関係は変わらないと信じているよ、有希……)
地下へと続く長いはしごを慎重に下りながら、楓はそう願う。
たとえ、その身にどんな運命を背負わされたとしても、今まで共に歩んだ日々の記憶は消えたりしない。
重ねてきた思いは、消せはしない。
そう信じなければ――今の楓には、崩れ落ちてしまいそうな足元を、気持ちを支えられそうになかった。
だが。
「……ごめんなさい」
楓と竜哉。二人がはしごを下り切ったことを確認して、有希はそう呟いた。
「ごめんなさい……楓先輩」
それから、ドアを覆っていたカーテンを開ける。
細長いガラスから覗くドアの向こう側には、黒服の男たちが立っていた。
有希はゆっくりとドアを開け、そして――。