三章・6
祖父との会食を終え、楓は四姫を送り届けるため、再び四季宮を訪れていた。
本当ならば竜哉たちと直接合流したかったのだが、四姫が「楓ちゃんも一緒じゃなきゃ帰らない」と駄々を捏ねるものだから、しぶしぶ楓が送り届ける羽目になったのだ。
「ご苦労様でした」
夏月が楓を労る言葉を口にするも、その顔はいつもと変わらない無表情のままだ。
「……そういうことは、もう少し言葉に見合った顔で言ってもらえませんか」
楓はうんざりした様子でそう返す。
「この顔ではご不満ですか」
またも無表情。整った顔が、まるで人形のようだ。
小春が四姫に就任した頃から、夏月のこういうところはまったく変わっていない。
「……いや、もう慣れました」
「そうですか」
どこかあきらめを帯びた楓の言葉にも、夏月が動じる様子はまったくない。
「四姫は禊に入られました。楓も任務に戻るように」
「……はい」
しかし、楓がその言葉に従って部屋を出ようとすると、
「……長いものですね」
ぽつりと、夏月が呟いた。
「あの方が四姫に就任なさってから、そろそろ三年が経とうとしています」
「……そうですね」
楓は足を止め、佐保の間を振り仰ぐ。
三年前、小春は四姫に就任した。梅の花がほころび始める早春のことだ。
楓は、その前の年の正月に小春との再会を果たしていたが、それ以来、彼女とは一度も顔を合わせていなかった。
あの日、小春は楓に会いたいがために、嵩志に無断で離れを抜け出してきていた。八年ぶりの姉弟の再会は、しかし、楓の支度を手伝いに来た家政婦によって、すぐさま露見してしまうところとなったのだ。
結果、小春の軟禁されている離れは、以前とは比べ物にならないほどの監視が付き――楓は、嵩志に思い切り殴られることとなった。理由も知らされることなく、一方的に。
その後、殴られた頬を真っ赤に腫らして出席した親戚筋の会合で、一歩間違えれば一族の恥ともなりかねないお披露目を済ませ、楓は遠野一族の男子として末席に加えられた。
そして、その場所で、楓は四季宮と四姫について教えられたのだった。
遠野家は代々、四季宮に援助することでその恩恵を受け、その勢力を確固たるものにしてきたという。が、先代の四姫・秋乃が嵩志と結婚し、その任を降りた後は、誰もその座を継いでいない。
そのため、翌年、小春が四姫に就いたことを知り、十五歳の楓は激昂して父に詰め寄った。
「父さんは……姉さんを犠牲にしてまで権力が欲しいんですか!?」
小春の、四姫への就任。
嵩志はただそれだけを知らせるために、楓が寝室として使っている秋乃の部屋を訪れていた。
「……お前は、いつまでこんなものにしがみ付いているつもりだ」
楓の言葉には答えず、嵩志はちらりと部屋を見渡し、そう言った。
「秋乃は死んだ。……八年も前に」
「そんなこと、今は関係ない! 質問に答えてください……!」
「お前に話す必要はない」
嵩志は目を細める。
「……そんなに知りたければ、本人に聞け」
「どういう、ことですか……」
「馬鹿が。少しは頭を使え」
冷たい目で見下され、楓は知らず、気圧された。
「遠野の家は、代々、四季宮の援助をしている。金銭的にも……人員的にもな」
「僕に、四季宮の構成員になれ、と……?」
「それはお前の好きにすればいい。あの中に入るのは、並大抵の努力と覚悟ではできないことだからな」
言外に『お前には無理だ』と匂わされ、楓は嵩志を睨み付けた。
「……入ってみせる」
「ほう……?」
「姉さんを守るためなら、僕はどんなことでもしてみせる。母さんと約束したんだ。……決して、父さんの好きにはさせない」
声を荒げた楓に、嵩志は面白い、と笑う。
「なら、好きにしろ。四季宮にはこちらから話を通しておく」
――それからのことは、あまり思い出したくない。
竜哉と共に厳しい訓練を受け、二人は無事に四季宮の構成員になることを許された。
それだけではない。楓は四姫の直属として行動部隊を率いることを許されたのだ。わずか五、六人で構成された部隊だったが、新人としては異例の抜擢だった。
楓は嬉しかった。四姫――小春が、自分を信じ、頼ってきてくれたのだと信じて、欠片も疑っていなかった。
だから。実際に小春と対面することになったとき、どれほど驚いただろう。
そのとき、楓は十六歳。高校に入学したばかりの頃だ。
十八になった小春――四姫は、そのとき既に狂ってしまっていた。
「……知っていますか、楓」
夏月の声が、楓を過去の幻影から引き戻す。
「四姫は、就任の際にひとつの交換条件を出されました」
「……なんですか、それ」
初耳だった。楓は、じっと夏月の言葉を待つ。
「もしも弟が四季宮の構成員になるようであれば、自分の直属として傍に置いてほしい、と」
楓の体に、大きな震えが走る。
「先代の四姫……秋乃様と違い、今の四姫は強い方ではありません。だから、あなたに希望を求めたのでしょう」
「では、僕は少し、遅かったのかもしれませんね」
小春が狂ってしまったのは――狂おしいほどに楓を愛するようになってしまったのは、恐らく、四季宮という重圧に負けたから。逃げ場を、救いを欲してのことなのだろう。楓は、そう考えていた。
楓の言葉に、夏月は何も言わなかった。
「……夏月とゆっくり話すのは、初めてですね」
「ああ、そういえばそうかもしれません」
「……」
「……」
静寂が落ちる。
「……夏月は、母さんをご存知なんですか」
「ええ。秋乃様は私の従姉ですから」
夏月の目元が、ふ、と和んだ。
「あの方は私の憧れでしたよ。強い意志と優しい心を持ち、すべての方に等しく慈悲と恩恵を授ける。……四姫として、あの方以上の方はいらっしゃいません」
「……いいんですか、そんなこと言って。四姫が聞いたら怒りますよ」
夏月とは思えないほどの熱のこもった口調に、楓は思わずそう呟いた。
「構いませんよ。四姫にも、就任前からこの話をしていますから。彼女のような四姫を目指しなさい、と」
「……そうですか」
と、楓は不意に口を開く。
「母さんは、何故……」
父さんと結婚したのか。
そう聞きたかったのだけれど、それ以上は言えなかった。
夏月の目が、一瞬で厳しい光を帯びたからだ。
「……四姫のためにも、成すべきことをなさい。あなたはそのためにここにいるのでしょう」
「申し訳、ありません」
夏月の言葉には、有無を言わせない響きがあった。楓は一礼すると、そのまま佐保の間を後にする。
屋敷を出たところで、携帯電話が鳴った。
「僕だ。……ああ、有希」
『楓先輩、石塚卓巳を発見した、と末端から連絡がありました』
「何だって……!?」
末端とは、竜哉と有希が従えている行動員を指す。二人の命令で、石塚の捜索をしていたのだろう。
『今、屋敷の方に竜哉先輩が迎えに行きましたけど……もう、出ちゃいました?』
「いや、まだ門のところにいるよ。四姫にまた掴まる前に、できるだけ早く来てくれ」
『はい、竜哉先輩にお伝えしておきます。石塚はどうしますか?』
「引き続き監視を続けてくれ。僕が行くまで、決して接触はするな」
『了解です』
「僕がいない間、よく頑張ってくれたな。末端にも、労いの言葉をかけておいてくれ」
『はい。……すべてが終わった後に』
「……ああ」
石塚が見つかったところで、鮎川を殺害した犯人が判明すると決まったわけではない。彼はただ、鮎川が殺害された日から連絡が取れなくなっているだけなのだ。
(……考えてみれば、一番怪しいのは石塚なわけだな)
楓はふと、そんなことに気付いた。
――何故、今までこんなことに思い当たらなかったのだろうか。
「……有希」
『はい』
「末端の兵装レベルをひとつ上げろ。念のためだ」
『了解しました』
そのほかにもいくつか細かな支持を出して、楓は通話を切る。
待ち受け画面を見ると、一通のメールが届いていた。迎えに来るはずの竜哉からと思ったが、差出人の欄に書かれていたのは、『四姫』の文字だった。
一瞬で、楓の心に重苦しいものが溜まった。どうせまた、禊が終わる前にこそこそと帰るとは何ごとだ、とか、些細なことで怒っているに決まっている。
(……人の気も知らないで。誰のためにこんな苦労をしていると思ってるんだ)
四姫を守ると決めたのは自分だが、彼女のわがままに付き合うことは仕事の範囲外だ。楓は内心、うんざりとそう吐き捨てる。
そして、メールの内容が楓の予想どおりだったものだから――楓はやるせない気分のまま、屋敷の前で竜哉を待った。
もう、四姫の相手はこりごりだ。そう思うと、どれだけ寒くても、屋敷の中には入れなかった。